第47話 教師の目覚め~聖職者ペーター目線~
研修の後半は、実習だった。
実際に子供たちの前に立ち、教えてみせよ、と。
私は張り切った。今度こそ、研修で学んだことを活かしてみせる。
「では、『A』という字を書きます。これは『A』です。わかりましたか?」
子供たちは声を揃えた。
「はい」
よし、次に——
「少し待ってください」
マリア様の声に、私は手を止めた。
「お子さんたち、今の字を書いてみてくれますか?」
子供たちは石板を取り出し、ペンを持つ。
そして——書けなかった。
「A」の形を覚えていない子。縦棒だけ書いて止まる子。そもそもどこから書き始めればいいかわからない子。
「はい」と言ったのに、誰も書けなかった。
ああ。
「はい」は、わかったという意味ではなかったのだ。
私は10年間、この「はい」に騙されていた。いや、騙されたのではない。私が問いかけを間違えていたのだ。
マリア様が、私の隣に立った。
「ペーターさん」
「は、はい」
「落ち込む必要はありません。皆さん、最初は同じです」
マリア様の声は、責めるでも慰めるでもなく、ただ事実を述べているようだった。
「大切なのは、ここからです。もう一度、やってみてください」
「もう一度……」
「今度は、一緒に書いてみてください。子供の手を取って」
私は頷いた。
一人の子供の前にしゃがみ込む。5歳くらいの男の子だ。不安そうな目でこちらを見ている。
「名前は?」
「……フリッツ」
「フリッツ。一緒に書こう」
私は子供の手を取った。小さな手だ。冷たくて、少し震えている。
「まず、斜めの線を引く。こう」
一緒にペンを動かす。
「次に、反対側の斜めの線。こう」
また一緒に。
「最後に、横棒。真ん中あたりに」
子供の手が、私の手と一緒に動く。
石板の上に、歪んだ「A」ができた。
「……よし。今度は、一人で書いてみてくれ」
私は手を離した。
フリッツは石板を見つめている。ペンを握ったまま、動かない。
「大丈夫だ。さっきと同じようにやればいい」
「……」
フリッツがペンを動かした。
斜めの線。反対側の斜めの線。横棒。
さっきより歪んでいる。でも、確かに「A」だった。
「書けた」
私は思わず声を上げた。
「書けたぞ、フリッツ!」
フリッツが顔を上げた。その目が、輝いていた。
「できた……?」
「ああ、できた。お前は今、『A』を書いた」
フリッツの顔に、笑みが広がった。
「できた!」
その瞬間、私の胸に熱いものが込み上げてきた。
これだ。
これが、教える、ということだ。
「はい」と言わせることじゃない。実際にやらせて、できたことを確認する。そして、できた喜びを一緒に分かち合う。
10年間、私は何をしていたのだろう。
子供たちの「はい」を聞いて、満足していた。でも、あの子たちは本当に書けるようになっていたのか。私が見せた文字を、一人で書けるようになっていたのか。
……わからない。確認したことがなかった。
「ペーターさん」
マリア様の声に、私は我に返った。
「今の感覚を、覚えておいてください」
「……はい」
「子供ができた時の喜び。それが、教える者にとって一番大切なものです」
マリア様は微笑んだ。
「あなたは今、教師になりました」
◆
研修は数日間続いた。
驚いたことに、教師には国から月給が支払われるという。教会の奉仕の一部ではなく、「職業」として認められる。これはただの片手間仕事ではなくなるのだ。
地方に戻る前夜、私は宿舎で指導要綱を読み返していた。確認してから進む。間違いを責めない。繰り返す。具体的に褒める。
私は10年、間違った方法で教えていた。でも、これからは違う。
マリア様の言葉を思い出す。「教え方は、学べるものです。大切なのは、学び続けようとする姿勢です」
教える者が、一番学ばなければならない。
◆
地方の教会に戻ると、子供たちが駆け寄ってきた。
「ペーター様、おかえりなさい!」
「ああ、ただいま」
以前と同じ顔ぶれ。でも、私の目が変わった。
「ペーター様、首都はどうでしたか?」
「すごかったぞ。大きな建物がたくさんあって、人も多くて」
「お土産は?」
「お土産か……」
私は鞄から指導要綱を取り出した。
「これだ」
「……本?」
子供たちは首を傾げた。当然だ。彼らにはまだ読めない。
「今日から、教え方を変える」
私は子供たちを教会の中に招き入れた。いつもの席に座らせる。
「まず、名前を呼ぶぞ。呼ばれたら手を挙げてくれ」
一人ずつ名前を呼ぶ。全員が手を挙げた。当たり前のことだが、これまでやったことがなかった。誰が来ているか、確認したことがなかった。
「よし。今日は『A』を書くぞ」
石板とペンを配る。以前は、私が書いて見せるだけだった。子供たちに書かせることはほとんどなかった。
大きく、ゆっくりと「A」を書いて見せる。
「じゃあ、書いてみろ」
以前なら「わかりましたか?」と聞いていた。でも、もうそれはしない。
案の定、書けない子がいた。ハンナだ。引っ込み思案な大人しい子だ。固まっているハンナのそばにしゃがみ込む。
「ハンナ、一緒に書こう」
小さな手を取る。冷たくて、少し震えている。首都で触れたフリッツの手と同じだった。
首都で学んだ通りにやった。一緒に書いて、次は一人で書かせる。
歪んでいる。でも、確かに「A」だった。
「書けたぞ、ハンナ」
ハンナが顔を上げた。
「……できた?」
「ああ、できた」
ハンナの顔に、笑みが広がった。
その笑顔を見て、私は思った。
10年間、私はこの笑顔を見逃していた。でも、これからは違う。
一人ずつ、できるようになるまで、付き合う。できたら、一緒に喜ぶ。
「次はBだ」
私は今日から、教師になる。




