第45話 指導要綱
教会との協力が決まった翌日のことだった。
お嬢様はマリアさんに宿題を出した。
「指導要綱を作りなさい。何を、どの順番で、どう教えるか。一ヶ月で」
マリアさんは目を丸くしていた。一ヶ月。短いが、不可能ではない。
でもマリアさんは頷いた。
「……やってみます」
そして一ヶ月後。
マリアさんが執務室に入ってきた。その手には、分厚い冊子が抱えられている。
「指導要綱が完成しました」
お嬢様は書類から顔を上げた。
「見せて」
マリアさんが冊子を差し出す。お嬢様はそれを受け取り、パラパラとめくり始めた。
私は横から覗き込んだ。
何を、どの順番で、どう教えるか。細かく書かれている。国語の最初の一ヶ月は文字の読み方、二ヶ月目は簡単な単語……といった具合だ。
マリアさんの努力の結晶だ。
「よくできてるわ」
お嬢様が言った。珍しく、素直な褒め言葉だ。
「これを各地の聖職者に?」
「はい。これを渡せば、統一した教育ができます」
マリアさんは自信を持って答えた。
お嬢様は冊子を閉じた。
「いいわね。でも渡すだけじゃだめよ」
「……と言いますと?」
「教える側も学ばないと。教え方を教えなさい」
マリアさんは目を丸くした。
「教え方を……教える?」
「同じ教科書でも、教え方で理解度が変わるわ」
お嬢様は淡々と続けた。
「『足し算を教える』と『足し算の教え方を教える』は別の技術よ。あなたが教えた子と、田舎の聖職者が教えた子、同じ理解度になると思う?」
「……それは」
マリアさんは言葉に詰まった。
「ならないわ。だから、教え方を統一するの」
◆
「では、各地の聖職者を集めて研修を?」
マリアさんが尋ねた。
「そう。あなたが直接教えなさい」
「わたくしが……」
「指導要綱を作れたのはあなたよ。なら、それを伝えられるのもあなた」
お嬢様は当然のように言った。
私は内心で頷いた。お嬢様は、いつもこうだ。適任者を見つけて、任せる。
「いくつかポイントがあるわ」
お嬢様は指を立てた。
「一つ目。確認してから進むこと」
「確認……ですか?」
「『わかった?』と聞いても、子供は『はい』と答えるわ。本当にわかっていなくても」
マリアさんの表情が変わった。思い当たることがあるのだろう。
「だから、実際にやらせて確認するの。『読んでみて』『書いてみて』と」
「なるほど……」
「二つ目。間違いを責めないこと」
「それは、修道院でも……」
「でしょうね。間違いは学びの機会よ。『なぜ間違えたか』を一緒に考える」
お嬢様は三本目の指を立てた。
「三つ目。繰り返しの重要性。一度で覚える子はいないわ。同じことを何度も、違う角度から」
「……はい」
「四つ目。褒める技術」
「褒める……技術?」
「できたことを具体的に褒めるの。『すごい』じゃなくて、『ここができてる』と」
マリアさんは真剣な顔で聞いていた。
「これは、修道院でわたくしが受けた教育とは違いますね」
「修道院は選ばれた子供だけでしょう? 全国民に教えるには、違う方法が必要なの」
私は黙って聞いていた。
お嬢様は、私にも同じようにしていた。
帳簿の書き方を教わったとき。間違えても責めず、なぜ間違えたかを一緒に考えてくれた。できたところは具体的に指摘して、次に進んだ。
……私も、教えられていたんだ。
「エマ、何をぼうっとしてるの」
「あ、いえ……」
私は慌てて答えた。
「お嬢様は、教え方がお上手だと思いまして」
「当然でしょう? 私が教えた人間が使えなかったら、私の損よ」
相変わらずの言い方だ。
でも、私には照れ隠しに聞こえた。
◆
数日後。
各地の聖職者たちが集められた。首都近郊だけでなく、遠方の村からも呼ばれた者がいるという。
研修の会場は、城の一室。二十人ほどの聖職者が並んでいる。
空気は重かった。
「そもそも、なぜ我々が呼び出されたのですか」
一人の聖職者が不満げに言った。
「教え方の研修、と言われましても……我々は長年、子供たちに読み書きを教えてきました。こんなことをして何になるのです」
別の聖職者も続いた。
「教区の仕事もあるのです。暇ではないのですよ」
私は内心でため息をついた。気持ちはわかる。いきなり首都に呼び出されて、何をするかもわからないのだから。
マリアさんは緊張した面持ちで前に立った。
「皆様のお気持ちはわかります」
マリアさんは静かに言った。
「わたくしも、修道院で子供たちに読み書きを教えてきました。十年近く」
聖職者たちの表情が少し変わった。同じ立場の人間だと気づいたのだろう。
「でも、教え方を誰かに教わったことはありませんでした」
マリアさんは続けた。
「自分なりに工夫して、試行錯誤して……それでも、うまくいかないことがたくさんありました」
聖職者の一人が、小さく頷いた。
「わたくしがここでお伝えしたいのは、その試行錯誤を減らす方法です。皆様が苦労されてきたことを、少しでも楽にする方法です」
マリアさんは指導要綱を掲げた。
「それと、もう一つ。これから全国で教育が始まります。指導の仕方を共通化する必要があるのです」
「共通化?」
「皆様は、それぞれ我流で教えてこられたのではないですか?」
聖職者たちが顔を見合わせた。図星だったのだろう。
「この指導要綱には、教え方の基本がまとめられています。皆様が我流で身につけたこと、すべて網羅されていますか?」
マリアさんは穏やかに、でもはっきりと言った。
「もし一つでも知らないことがあれば、今日ここに来た意味があります」
沈黙が流れた。
先ほど不満を言っていた聖職者が、腕を組んだまま言った。
「……聞くだけ聞いてみよう」
他の聖職者たちも、渋々ながら頷いた。
マリアさんは小さく息をついた。第一関門は突破した、という顔だ。
「では、始めましょう」
「まず、この研修の目的をお話しします。国は、すべての子供に読み書きを教えることを目指しています」
「すべての子供?」
聖職者の一人が眉をひそめた。
「農民の子供にも、ですか?」
「はい。農民の子も、職人の子も、すべてです」
ざわつきが広がった。
「農民に読み書きなど必要ない、とお思いですか?」
マリアさんは穏やかに、でもはっきりと言った。
「では、お聞きします。皆様の村で、こんなことはありませんでしたか」
マリアさんは指を折りながら続けた。
「商人に『いつもの値段だ』と言われて、実は相場より安く買い叩かれていた農家。税の徴収で『計算が合っている』と言われて、実際より多く取られていた村。土地の境界を示す証文があるのに、読めないばかりに隣村との争いで不利になった者」
聖職者たちの顔色が変わった。思い当たることがあるのだろう。
「読み書きができないということは、他人の言葉を信じるしかないということです」
マリアさんの声は静かだが、重かった。
「正直な相手ならいい。でも、そうでない相手もいる。読み書きができれば、自分の目で確かめられる。自分の権利を、自分で守れる」
「しかし」
年配の聖職者が手を挙げた。
「それは農民自身の問題でしょう。なぜ我々がそこまで」
「困窮した農民は誰を頼りますか?」
マリアさんが遮った。
「教会です。『助けてくれ』と来る。でも、その時にはもう手遅れのことが多い。読み書きを教えることは、後で尻拭いをするより、はるかに手間が少ないのです」
年配の聖職者は黙り込んだ。
「お嬢様——シャルロッテ様は、こうおっしゃいました」
マリアさんの声が少し変わった。敬意がこもっている。
「『農民や職人の子が育てば、より良い農民、より良い職人になる。良い仕事をすれば、より多くの富が生まれる。富が生まれれば、それは領を巡り、国を巡る。教育は国への投資だ』と」
聖職者たちがざわついた。
「読み書きができる農民は、新しい農法を学べる。計算ができる職人は、無駄なく材料を使える。知識が広がれば、国全体が豊かになる」
マリアさんは続けた。
「これは慈善ではありません。国策です」
国策。その言葉に、聖職者たちの空気が変わった。お嬢様の名前には、誰も逆らえない。
「そのために、教え方を統一する必要があります。皆様がそれぞれ我流で教えていては、成果にばらつきが出る」
聖職者たちは黙って聞いている。
「では、具体的な教え方に入ります。まず、子供に質問するときの注意点から」
「質問に注意点があるのですか?」
先ほど質問した聖職者が、怪訝そうに手を挙げた。
「はい。『わかりましたか?』と聞いても、子供は『はい』と答えます」
「確かに……」
別の聖職者が頷いた。
「だから、『これを読んでみて』『この問題を解いてみて』と、実際にやらせるのです」
マリアさんの声に、少しずつ自信が宿っていく。
聖職者たちも真剣に聞いている。これまで、誰も教え方を教えてくれなかったのだろう。
◆
座学が終わると、マリアさんは立ち上がった。
「では、実際に教えてみましょう。子供たちが待っています」
「いきなりですか!?」
聖職者の一人が驚いた声を上げた。
「聞くだけでは身につきません。やってみて、初めてわかることがあります」
隣の部屋から、孤児院の子供たちが入ってきた。五、六歳くらいの子が十人ほど。
「では、どなたか」
マリアさんが促すと、先ほど質問した聖職者が手を挙げた。
「やってみます」
彼は子供たちの前に立った。
「えー、では、『A』という字を……これは『A』です。わかりましたか?」
「はい」
子供たちが声を揃えて答えた。
「では次に『B』は……」
私は子供たちの顔を見た。
目が泳いでいる。ついてこれていない。
「少し待ってください」
マリアさんが止めた。
「は、はい……」
「今、子供たちは『A』を覚えましたか?」
「覚えた……と思いますが」
「では確認しましょう。誰か、『A』を書いてみて」
マリアさんが子供に紙と筆を渡した。
子供は筆を持ったまま、固まっている。書けない。
聖職者は絶句した。
「……あ」
「『はい』と言っても、わかっていなかったのです」
マリアさんは穏やかに言った。
「そうです。だから、実際にやらせて確認するのです」
聖職者は深く頷いた。
「では、もう一度やってみましょう」
彼は子供たちの前にしゃがんだ。
「『A』を一緒に書いてみよう。私が書くから、真似してね」
ゆっくりと、大きく『A』を書く。
子供たちも真似して書き始めた。
「上手。じゃあ、一人で書いてみて」
子供が書く。さっきより、ずっとしっかりした線だ。
「できた! すごい、一人で書けたね」
聖職者が笑顔で言った。
子供の顔がぱっと明るくなった。
「えへへ」
さっきと全然違う。子供たちの目が輝いている。
「今のが『確認してから進む』と『具体的に褒める』です」
マリアさんが解説した。
聖職者は感心したように頷いた。
「……なるほど。座学で聞いただけでは、わかりませんでした」
「だから実習があるのです」
マリアさんは微笑んだ。
「……いい感じね」
後ろから声がした。
振り返ると、お嬢様が壁にもたれて立っていた。
「お嬢様、ずっと見ていらしたんですか」
「当然でしょう。投資の成果は確認しないと」
◆
研修が終わった後。
マリアさんは疲れた顔で、でも満足そうに言った。
「……できました」
「お疲れさまです」
「最初は緊張しましたが、皆さん熱心に聞いてくださって」
マリアさんの目が輝いていた。
「それに、教師には国から月給が支払われると伝えたら、皆さん驚いていました」
「月給……ですか?」
「はい。教会の奉仕ではなく、『職業』として認められるのです。お嬢様が予算を確保してくださいました」
私は驚いた。片手間の仕事ではなくなる。それだけ、国が本気だということだ。
「これが全国に広がれば……子供たちが目を輝かせて学ぶ姿が見られるかもしれません」
「きっとそうなりますよ」
私は心からそう思った。
マリアさんは立ち上がった。
「明日から、農村部の視察です。そちらでも研修を行う予定です」
「気をつけて行ってきてください」
「ありがとうございます、エマさん」
マリアさんは笑顔で部屋を出ていった。
私はその背中を見送った。
このとき、私たちはまだ知らなかった。
教える側の準備が整っても、教わる側が来なければ意味がないことを。




