第43話 記録係の抜擢
翌日、クラウス様が一人の男を連れてきた。
「記録課のオットーです」
クラウス様の目が、珍しく期待を含んでいた。この老宰相が自ら人材を連れてくるのは、よほどのことだ。
その男は深々と頭を下げた。
「オ、オットーと申します。よろしくお願いいたします」
声が小さい。そして震えている。
私は内心で首を傾げた。
この人が……?
オットーは三十代後半といったところだろうか。猫背で、眼鏡をかけていて、服装は地味。うだつの上がらない、廊下ですれ違っても気づかないような、そんな雰囲気の男だった。
お嬢様は机から顔を上げた。
「座って」
「は、はい」
オットーはぎこちなく椅子に腰かけた。緊張で顔が強張っている。
お嬢様は気にする様子もなく、単刀直入に切り出した。
「この国の建国はいつ?」
「え……あ、はい。帝国暦127年です」
「ノルデンとの国境線が変わったのは何度?」
「七度です。最初は帝国暦203年、二度目は……」
オットーの声が急に滑らかになった。
「……256年、三度目は301年の講和条約で、これは北部三州の割譲を伴うもので、当時の宰相ヴィルヘルム・フォン・シュタインが屈辱的な条件を呑んだとして後に弾劾されています。ちなみにこの時の割譲地の人口は約四万人、年間の麦の生産量は……いえ、それは今は関係ありませんね。四度目は347年、これは逆にノルデン側が二州を返還した珍しい例で、当時のノルデン王が内乱を収めるために我が国と同盟を結んだためです。この同盟は十二年間続きましたが、王の死後に破棄されまして……五度目は398年ですね、これは小規模な国境紛争の結果で、六度目は412年の……」
オットーは止まらなかった。
「……この時は山岳地帯の鉱山利権が絡んでおりまして、当時の鉄鉱石の産出量は年間およそ三千トン、これがノルデン側に渡ったことで我が国の製鉄業は一時的に……」
私は少しだけ、親近感を覚えた。好きなことを語り出すと止まらない。その気持ちは、わかる。
「止めて。長い」
お嬢様が手を挙げた。オットーは慌てて口を閉じた。
「す、すみません。つい……」
「いいえ、わかったわ」
お嬢様は小さく頷いた。
「あなたは使える」
オットーは目を丸くした。私も少し驚いた。
お嬢様にしては珍しく、はっきりと褒めている。
ふと、オットーが私を見た。
「あの……失礼ですが、あなたは地理にご興味が?」
「え?」
「先ほどから、地図の話になると目が輝いていらしたので」
私は自分でも気づいていなかった。
「……気球に乗ったことがあるんです」
「気球!」
オットーの目が輝いた。今度は私が驚く番だった。
「あなたが……あなたがあの地図を!」
「え、ええ……」
「素晴らしい! 本当に素晴らしい!」
オットーは興奮で声が上ずっていた。
「これまで地図は国の機密事項でした。商人たちが企業秘密として口伝で伝え、不正確で、断片的で……それが今や、上空からの測量で正確な地図が作られている!」
オットーは身を乗り出した。
「しかも公開されている! 誰でも見られる! 地理学者として、これほど興奮することはありません!」
私は少し引いていた。さっきまでの気弱な男はどこへ行ったのだろう。
「あの……でも」
オットーは急に真顔になった。
「地図を公表するのは、軍事的に危険ではないのですか? 敵国に地形を知られれば、侵攻の際に……」
「問題ないわ」
お嬢様があっさりと答えた。
「え?」
「地図の有無で変わらないくらい、圧倒的な軍事力で圧勝すればいいの」
オットーは絶句した。私も絶句した。
クラウス様だけが、静かに苦笑していた。
「……シャルロッテ様らしいお答えですな」
「当然でしょう? 地図を隠して得られる優位なんて、たかが知れてるわ。それより国民全員が正確な地理を学ぶ方が、長期的には国力になる」
お嬢様は涼しい顔で言った。
「そのための教科書を、あなたに書いてもらいたいの」
「私が……ですか?」
「初等教育用よ。子供たちに、この国の歴史と地理を教えるための本」
オットーの興奮が急に冷めた。困惑した顔になる。
「……私は、記録係です」
「知ってる」
「誰にも読まれない古文書を整理するだけの仕事を、十五年続けてきました」
オットーの声には、どこか諦めのようなものが混じっていた。
「私の知識は、誰の役にも立たない。そう思っていました」
お嬢様は静かに答えた。
「だからこそよ」
「……え?」
「誰にも読まれなかった知識を、全国民が読む教科書にする。それがあなたの仕事」
オットーの目が見開かれた。
「全国民が……」
「そう。あなたが十五年かけて蓄えた知識を、この国の子供たち全員が学ぶの」
オットーは黙り込んだ。
その目に、何かが宿っていた。
驚き。戸惑い。そして……希望。
猫背だった背筋が、少しだけ伸びた気がした。
「……お受けいたします」
オットーの声は、もう震えていなかった。
「必ず、良いものを書きます」
「期待してるわ」
お嬢様は頷いた。
「気球の話は今度、エマに直接聞きなさい。今日は帰って」
「は、はい。失礼いたしました」
オットーは深々と頭を下げたが、退室する間際、私にちらりと目配せをした。
……今度、必ず聞きますからね。
そう言いたげな目だった。
◆
オットーが退室した後、私はお嬢様に話しかけた。
「不思議な人でしたね」
「そう?」
「最初は頼りなく見えましたが、途中から別人のようでした」
「知識を語るときだけは自信があるのよ。そういう人間は使いやすい」
お嬢様は書類に目を戻した。
「埋もれていたのがもったいないわ。クラウス様に感謝しないと」
私は黙って頷いた。
お嬢様は、人を見抜く目がある。
オットーの本質を、ほんの数分で見抜いた。使えるか使えないか。どこに配置すれば力を発揮するか。
……私も、見抜かれたのだろうか。
メイドとして雇われて、帳簿を任され、教科書を書かされ、今は教える側に回ろうとしている。
お嬢様は最初から、私の中に何かを見ていたのだろうか。
「エマ」
「はい?」
「何をぼうっとしてるの。お茶を淹れて」
「……はい、お嬢様」
私は立ち上がった。
考えても仕方がない。
お嬢様に見出されたなら、応えるだけだ。それが私にできる、唯一の恩返しだから。
オットーも、きっと同じ気持ちだろう。
十五年、誰にも読まれなかった知識。それが報われる日が来た。
誰にも読まれなかった知識が、全国民の教科書になる。
それは、悪くない話だと思った。




