第41話 教育大臣の誕生
私は教科書の束を抱えて執務室に入った。
ずしりと重い。活版印刷のおかげで量産できるようになったが、その分、校正作業も増えていた。
「お嬢様、読み書きの教科書、校正が終わりました」
お嬢様は椅子に座ったまま、紅茶のカップを傾けた。足は相変わらず床に届いていない。
「どうだった?」
「誤植が23箇所……直してもらいました」
「多いわね」
「活版印刷だと直すのは遥かに楽になりました。版木をつかっていたあの頃を思えば……」
あの頃は、一文字直すためにページ全体を彫り直していた。今は活字を入れ替えるだけで済む。
「それで、次は算術の教科書ですが……」
「何か問題?」
私は言葉を濁した。
「いえ、その……私、もう限界でして」
お嬢様の手が止まった。
「読み書きも、算術も、簿記も、法律も……全部校正して、子供向けに書き直して、挿絵まで入れろと言われても……」
「……」
「一人では無理です!」
私は思い切って言い切った。
お嬢様は紅茶を置いた。
「わかってるわ。最初からそうなると思ってた」
「え?」
「一人で全部やれるわけないでしょう。あなた、よく持った方よ」
「……」
「それに教科書があっても、意味がない」
「……と言いますと?」
「読める人間がいなければ」
私は頷いた。それはそうだ。
「識字率は1割もない。貴族と聖職者以外はほぼ文盲よ」
「はい……」
「教える人がいない。統括する人もいない」
お嬢様は窓の外を見た。
「教育大臣を作るわ」
私は目を見開いた。
「教育大臣……?」
「全国の学校設立、教師育成、教科書管理を担当する役職よ」
「誰を……?」
「試験をするわ」
私は思わず安堵のため息をついた。
これで、教科書の校正から解放される……!
◆
数日後、試験会場には三十人ほどの受験者が集まっていた。
貴族の子弟、学者、聖職者。様々な背景を持つ者たちが席についている。
「試験内容を説明するわ」
お嬢様の声が響いた。
「模擬授業をしてもらう」
「模擬授業?」
受験者の一人が聞き返した。
「子供に読み書きを教える。それを見て判断する」
お嬢様は椅子から降りた。
「私が子供役をやる」
会場がざわめいた。
「し、シャルロッテ様が……?」
「私は7歳よ。子供でしょう?」
確かにそうだ。だが、目の前にいるのは国を動かす摂政だ。
最初は子供だと思って侮ってたし、実際子供なのだけど、今の状況においてはどうしても子供に思えなくなってしまった。
子供が子供役をやる。なんとも正しい気がするし、なんとも矛盾している気がする。
お嬢様は受験者たちの前に立った。
「教える内容は『数の概念』。1から10まで数えることを、何も知らない子供に教えなさい」
私は内心で呟いた。
お嬢様が「何も知らない子供」を演じる……?
想像できない。
受験者たちの間に、困惑の空気が広がった。
簡単すぎる。
そう思った者が大半だった。
◆
最初の受験者は、貴族の子弟だった。
お嬢様の前に立った瞬間、額に汗が浮かんだ。相手は7歳の子供のはずだ。なのに、あの冷たい目で見上げられると足が震える。
「で、では、数というものについて説明しましょう。数とは、量を表す抽象的概念であり……」
お嬢様は首を傾げた。
「ちゅう──何それ?」
声は無邪気だった。だが、目が笑っていない。
「え? いや、つまり……」
受験者は言葉に詰まった。
「概念というのは……頭の中にある考えのことで……」
「わかんなーい」
お嬢様は無表情で言った。
私は見ていられなかった。
お嬢様、怖すぎる……。
ふっと目線が冷たくなる。
「次」
バッサリ切ったお嬢様の一言で、最初の受験者は青ざめて退場した。
二番目は学者だった。
「数とは、自然数の集合における順序構造を……」
「わかんない」
三番目は聖職者。丁寧だったが、やはり言葉が難しすぎた。
四番目は緊張のあまり声が震え、五番目は汗だくで何を言っているのかわからなかった。
難しい言葉を使う者。お嬢様の威圧感に呑まれて普通に話せない者。どちらかだった。
十四人が終わった時点で、合格者はゼロ。
◆
十五人目の受験者が入ってきた。
修道服を着た女性だった。穏やかな茶色の瞳に、柔らかい笑顔。
「マリアと申します」
彼女は静かに一礼した。
「始めなさい」
お嬢様が言った。
マリアはお嬢様の前に座った。
他の受験者たちは、この瞬間に緊張で固まっていた。だがマリアは違った。
「お名前を教えてくださいますか?」
穏やかな声だった。お嬢様の威圧感など、まるで感じていないかのように。
「……シャルロッテ」
「シャルロッテさん、よろしくお願いしますね」
私は息を呑んだ。
この人、お嬢様を「さん」付けで呼んだ……!
しかも、まったく動じていない。
マリアはポケットから何かを取り出した。
木の実だった。五つ。
「これ、何かわかりますか?」
「……どんぐり」
お嬢様の声が、わずかに柔らかくなった。
「そうです。どんぐりですね」
マリアはどんぐりを一つ、机の上に置いた。
「これは、いくつ?」
「一つ」
「そうです。一つ」
もう一つ置いた。
「これで?」
「二つ」
「正解です」
マリアは笑顔で頷いた。
「では、もう一つ足すと?」
「三つ」
「素晴らしい!」
私は目を疑った。
お嬢様の表情が、ほんの少し緩んでいる。
あのお嬢様が……子供みたいな顔をしている……!
マリアはどんぐりを五つ並べた。
「では、これを数えてみましょう。一緒に」
「一つ、二つ、三つ、四つ、五つ」
「上手ですね。では、手の指を見てください。何本ありますか?」
お嬢様は自分の手を見た。
「……五本」
「どんぐりの数と同じですね」
お嬢様は自分の手と、五つのどんぐりを見比べた。
「数というのは、どんぐりにも、指にも、何にでも使えるものなのです」
マリアは穏やかに言った。
「難しいことは何もありません。一つ、二つ、三つ……そうやって数えていけばいいのですよ」
お嬢様は黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……合格」
その声には、珍しく感情がこもっていた。
◆
試験が終わった。
残りの受験者も一応試したが、マリアを超える者はいなかった。
「結果を発表するわ」
お嬢様は椅子に戻り、いつもの冷たい声で言った。先ほどの柔らかさは、もうどこにもない。
「合格者は1名。マリア」
修道服の女性が立ち上がった。
「他の受験者との差は歴然だったわ」
お嬢様は続けた。
「あなただけが、子供の目線に立って話した」
会場が静まり返った。
「それが正解よ。子供に教えるなら、子供にわかる言葉を使わなければ意味がない」
「恐れ入ります」
マリアは静かに頭を下げた。
周囲の受験者たちは、ようやく理解した。
自分たちは「摂政シャルロッテ様」を相手にしていた。だからこそ、緊張して普通に話せなかった。
マリアだけが、目の前の「7歳の子供」に向けて、わかりやすい言葉で話していた。
……それができる人間が、教師に向いているのだ。
◆
玉座の間で、正式な任命式が行われた。
「マリア」
お嬢様の声が響いた。
「はい、シャルロッテ様」
「あなたを教育大臣に任命するわ」
マリアは跪いた。
「全国の学校設立、教師育成、教科書の管理。すべてを担当しなさい」
「謹んでお受けいたします」
マリアは顔を上げた。その目には静かな決意があった。
「すべての子供に光を。それがわたくしの祈りでした」
「……」
「神のお導きですね。シャルロッテ様の理念と、わたくしの願いが重なりました」
お嬢様は小さく首を傾げた。
宗教には興味がなさそうだ。だが、結果が同じなら動機は問わない——お嬢様なら、そう考えるだろう。
「期待してるわ」
「はい」
居並ぶ貴族たちの間に、困惑の空気が流れた。
科学大臣に続いて、今度は教育大臣。
どちらも平民。どちらも試験で選ばれた。
この国は一体どうなっているんだ……。
◆
任命式が終わり、廊下を歩いていると、マリア様の姿が見えた。
「マリア様」
私は思わず声をかけていた。
「あの方を、ただの7歳の子供として見られたのですね……」
マリア様は足を止め、柔らかく微笑んだ。
「子供は子供ですから」
この人、すごい……。
「試験、拝見していました」
マリア様が言った。
「あの教え方、本当にわかりやすかったです」
「ありがとうございます」
私は感心して言った。
「教科書の校正は、わたくしが引き継ぎますね」
「え?」
「子供が読むものですから。わたくしの責任で仕上げます」
私は思わず泣きそうになった。
「あ、ありがとうございます……!」
「ふふ。エマさんは、別の大事なお仕事があるのでしょう?」
「いえ、私はメイドです」
「そうは見えませんけれど」
マリア様は柔らかく笑った。
「シャルロッテ様の傍で、たくさんのことをされてきたのですね」
「巻き込まれただけです……」
「それでも、やり遂げてこられた。素晴らしいことです」
私は言葉に詰まった。
この人、いい人だ……。
お嬢様の周りに集まる人は変人ばかりだと思っていたが、まともな人もいるらしい。
◆
執務室に戻ると、お嬢様が書類に目を通していた。
「これで内務、科学、教育が揃ったわ」
「はい」
「クラウスが行政、ヨハンが技術、マリアが教育。それぞれの専門家が動く」
お嬢様は紅茶を一口飲んだ。
「あなたの負担も減るでしょう」
「……ありがとうございます」
私は心からそう言った。
「でも、油断しないで」
「え?」
「あなたにはこれから別の仕事があるから」
「……はい?」
お嬢様は書類から目を上げた。
「まあ、追々ね」
「お嬢様……」
「何?」
「嫌な予感しかしません」
「気のせいよ」
絶対に気のせいじゃない。
私は胃のあたりを押さえた。
また何か始まる。絶対に。
でも、今日だけは素直に喜ぼう。
教科書の校正から解放された。それだけで十分だ。
「エマ」
「はい?」
「胃に効く薬草、補充しておきなさい」
「……はい」
やっぱり何か始まるんだ。
私はため息をついた。




