第40話 活版印刷と教育、そして
活字の材料は決まった。鉛、錫、アンチモン。
クラウス様が鉱山への確認を急がせると約束した後、お嬢様は次の話題に移った。ヨハンは部屋の隅でまだ標本を眺めている。科学大臣になったからといって、石への愛着は変わらないらしい。
「活字ができたら、次は印刷機」
お嬢様は机に戻った。
「ぶどうを搾る機械、あるでしょう?」
「ワイン用の圧搾機でございますか」
「そう。螺旋を回すと、上から板が下りてきて圧力をかける」
お嬢様は両手で押す動作をした。
「あれを改造するの。活字にインクを塗って、紙を載せて、上から押す」
「圧搾機を印刷に……」
「均一な圧力で押せば、ムラなく印刷できる」
クラウス様は考え込むように腕を組んだ。
「なるほど……既存の技術の応用ですな」
「そう。新しいものを一から作るより、あるものを組み合わせる方が早いわ」
お嬢様は続ける。
「あとはインク。没食子インクは金属に乗りにくい」
「では、どのような……」
「油性インクを作る必要があるわ。亜麻仁油に煤を混ぜれば——」
「お嬢様」
私は口を挟んだ。
「何?」
「一度に全部は無理です……」
お嬢様は私を見た。
私は真剣だった。
「活字の鋳造、印刷機の改造、油性インクの開発……どれも時間がかかります」
「……」
「全部私が見るのですか? 同時には無理です!」
お嬢様は私をじっと見た。
「エマ」
「はい……」
「あなた、全部自分でやろうとしてない?」
「え?」
「それぞれのプロに任せなさい。あなたは指示をするだけ」
私は目を瞬いた。
「指示……だけ?」
「そう。そうすれば並列化できるわ」
「へいれつか……?」
お嬢様は紙を引き寄せ、ペンを取った。
一本の線を引き、その上に「活字」「印刷機」「インク」と順番に書く。
「今のあなたのやり方。一つ終わったら次、また終わったら次」
次に、三本の平行線を引いた。
「私のやり方。三つ同時に進める」
私は図を見比べた。
「活字は鋳造職人。印刷機は大工と鍛冶屋。インクはインク職人」
お嬢様はヨハンを見た。
「ヨハン」
「おう」
「活字の合金の配合比を決めるのは、あなたの仕事よ」
「俺か!?」
「科学大臣でしょう? 金属の性質を調べて、最適な配合を見つけなさい」
ヨハンは目を輝かせた。
「任せろ、師匠! 鉛と錫とアンチモン……面白そうだぜ!」
お嬢様はペンを置いた。
「エマ、あなたは三人に指示を出して、進捗を確認するだけ。これを『管理』というの」
「管理……」
「一人で全部やろうとするから潰れるのよ。人を使いなさい」
私は思わず反論した。
「でもお嬢様、以前は『全部私がやれ、他の人は節穴だから任せられない』とおっしゃっていたじゃないですか」
お嬢様は小さく笑った。
「それ、二年前の話よ」
「……」
「あの頃は使える人がいなかった。でも今は違うわ」
お嬢様は私を見た。
「あなたもこの二年、色々やってきたでしょう? 誰に任せられて、誰に任せられないか、わかってきたんじゃない?」
私は言葉に詰まった。
確かに、この二年で多くの職人と関わった。紙漉き職人、インク職人、彫り師、大工、鍛冶屋……。
信頼できる人、できない人。任せられる仕事、任せられない仕事。言われてみれば、確かにわかってきている。
「……そう、かもしれません」
「でしょう? なら、その人たちを使いなさい」
私は黙って立っていた。
人を使う。任せる。
……そもそも、メイドが職人に指示を出すこと自体がおかしいのだ。メイド長だって、指示するのはメイドや執事まで。外部の職人に命令する立場ではない。
でも、私は二年間ずっとそれをやってきた。
いつの間にか、「メイドの仕事」の範囲を遥かに超えていた。
——もはや、そういうことじゃないんだろうな。
私は小さくため息をついた。
「活版印刷ができれば、教科書だけじゃない」
お嬢様は窓の外を見た。王都の街並みが見える。
「法律、布告、技術書……何でも量産できる」
クラウス様は静かに答えた。
「情報を、全国に届けられると」
「そう。知識は力よ。それを独占させない」
お嬢様は振り返った。
「今まで、知識は貴族と聖職者のものだった。本は高価で、庶民には手が届かない」
「確かに……」
「活版印刷があれば、本の値段は下がる。農民の子供でも、読み書きを学べるようになる」
クラウス様は黙って聞いていた。
ヨハンも手を止めて、お嬢様の言葉に耳を傾けていた。かつての自分を思い出す。石を集めてばかりいた変人。読み書きは辛うじてできたが、学問などとは無縁だった。
それが今、師匠に出会って——科学大臣にまでなった。
知識は、人を変える。それは自分が一番よく知っている。
「十年後、この国の子供は全員読み書きができるようになるわ」
「……十年で、ですか」
「できる。道路はできた。紙もある。あとは印刷機と、学校と、教師」
お嬢様は小さく笑った。
「一つずつ片付けるだけよ」
クラウス様は深く頭を下げた。
「……仰せのままに」
クラウス様は顔を上げた。その目に、かつての諦めはなかった。
「シャルロッテ様。私は……十五年前に諦めたことがあります」
「何を?」
「この国を変えられると、信じることを」
お嬢様は黙って聞いていた。
「ですが今、私は再び信じております。あなたなら、本当に変えられると」
クラウス様は再び頭を下げ、退室した。
クラウス様が去った後、窓辺に立つお嬢様を見た。
小さな背中。
あの背中に、この国のすべてがかかっている。
「お嬢様」
「何?」
「活版印刷のこと……前から考えていらっしゃったんですよね」
お嬢様は振り返らなかった。
「紙とインクを改良した時から」
「……はい」
「あの時、私はあなたに言ったわよね。『活版印刷は二年後くらいかしら』って」
私は思い出した。二年前、インクの改良を終えた日のことだ。
「覚えています」
「二年経ったわ」
お嬢様はようやく振り返った。
「道路ができた。鉱山の産出量が増えた。金属加工の技術も上がった」
「……」
「やっと、準備が整ったの」
私は胸が熱くなるのを感じた。
木版刷りで教科書を量産できた時、私は満足していた。これで十分だと思っていた。
でもお嬢様は、最初からその先を見ていた。
「お嬢様……」
「何?」
「私、木版刷りで満足していました」
「そう」
「お嬢様は、最初からここを見ていたんですね」
お嬢様は小さく首を傾げた。
「当然でしょう? 木版刷りは中継ぎよ。本命は最初から活版印刷だった」
私は少し考えて、問いかけた。
「では……活版印刷は、何の中継ぎなのですか?」
お嬢様は少し笑った。
「教育よ」
「教育……」
「活版印刷は手段。目的は、全国民が読み書きできるようになること」
私は頷いた。そして、もう一つ問いかけた。
「では、教育は何の中継ぎなのですか?」
お嬢様は黙った。窓の外を見る。
「それは、まだ言わないわ」
「……」
「ただ、一つだけ言えることがある」
「何ですか?」
「読み書きができれば、人は自分で考えられるようになる」
お嬢様は静かに言った。
「法律を読める。契約を理解できる。騙されなくなる」
「……」
「そして——自分たちのことを、自分たちで決められるようになる」
私は息を呑んだ。
自分たちのことを、自分たちで決める。
それは、どういう意味だろう。今の世の中は、貴族が決めて、平民が従う。それが当たり前だと思っていた。
でも、お嬢様は……。
「……まだまだ、私は未熟ですね」
「自覚があるならいいわ」
お嬢様はあっさりと言った。
「それに、未熟なのは私も同じよ」
私は顔を上げた。
「お嬢様が……未熟?」
「当然でしょう? 人間は一生未熟なの。完成したら、そこで終わりよ」
私は言葉を失った。
7歳が何を言っているのだ。
いや、もう7歳という年齢で考えるのをやめた方がいいのかもしれない。
お嬢様は机に戻り、椅子によじ登った。
「さ、仕事よ。エマ、鋳造職人を集めて。ヨハン、合金の配合実験を始めなさい」
「はい、お嬢様」
「おう、任せろ師匠!」
私とヨハンは顔を見合わせた。
7歳の少女に使われる17歳と19歳。どう見てもおかしい光景だ。
だが、二人とも——不思議と、嫌ではなかった。
私は背筋を伸ばした。
◆
その夜。
私は自室で、今日の出来事を振り返っていた。
活版印刷。
二年前にお嬢様が口にした言葉。あの時は、遠い未来の話だと思っていた。
でも、お嬢様は着実に準備を進めていた。
道路を作った。それは鉱山からの輸送を効率化するため。
鉱山の産出を増やした。それは金属を確保するため。
金属加工の技術を上げた。それは精密な活字を作るため。
全部、繋がっている。
「……すごい」
私は呟いた。
自分が目の前の仕事に追われている間に、お嬢様は十年先を見ていた。
いや、もっと先かもしれない。
「十年後、この国の子供は全員読み書きができるようになる」
お嬢様はそう言った。
それは夢物語ではない。お嬢様が言うなら、きっと実現する。
私は窓の外を見た。
月が高く昇っている。
「……私も、もっと先を見ないと」
そう思った瞬間、胃がキリキリと痛んだ。
「……でも、まずは明日の仕事をこなさないと」
私はため息をついて、ベッドに潜り込んだ。
明日は鋳造職人を集める。
お嬢様の「一つずつ」は、普通の人の十個分くらいあるのだ。
胃薬が足りない。
……でも。
「人間は一生未熟なの。完成したら、そこで終わりよ」
あのお嬢様が、自分を未熟だと言った。
なら、私が未熟なのは当たり前だ。
恥じることじゃない。前に進めばいい。
私は目を閉じた。
明日も、未熟なまま進む。




