第39話 活字と科学とアンチモン
クラウス様が執務室に入ってきた。
お嬢様は椅子に座り、足をぶらぶらさせながら書類に目を通している。その隣には、いつものように私が控えていた。
部屋の隅では、ヨハンが鉱物の標本を広げてメモを取っている。先日科学大臣に任命されたばかりだが、すでに執務室に入り浸っていた。
「シャルロッテ様、鉱山からの報告でございます」
「聞くわ」
クラウス様は手元の書類を広げた。
「道路のおかげで輸送効率が上がり、産出量も増えております。特に鉄の産出が順調かと」
「他には?」
「銀、銅、鉛、錫なども採れております。鉄に比べれば少量ですが」
お嬢様は紅茶のカップを置いた。
「鉛と錫、増やして」
「……増産、でございますか。需要がそこまであるとは思えませんが……」
「今後必要になるの」
「何にお使いで?」
「後で教える」
お嬢様は窓の外を見た。秋の陽光が執務室に差し込んでいる。
「他には?」
「他……と申しますと?」
「鉱山で『邪魔な石』とか『よくわからない鉱石』とか、捨ててるものはない?」
クラウス様は眉をひそめた。
「……確認してみます」
「特に、錫を精錬するとき混ざる重い石。黒っぽくて硬いやつ」
お嬢様は続ける。
「あと、鉛鉱石に混じってる、銀白色の脆い石」
ヨハンが顔を上げた。
「ああ、あれか。俺のコレクションにもあるぜ」
クラウス様が振り返った。
「知っているのか?」
「鉱夫たちには嫌われてる。錫を精錬するとき邪魔になるんだ」
お嬢様は小さく頷いた。
「そう。それよ」
「そのようなものが何に……?」
「役に立つのよ。見つけたら持ってきなさい」
クラウス様は「仰せのままに」と答え、メモを取った。シャルロッテ様の指示は、いつも意味がわからない。だが、後になって必ず意味があったとわかる。
もう、それには慣れた。
「ところで、お嬢様」
私は口を開いた。
「印刷工房から報告が届いております」
「何かあった?」
「簿記の教科書は順調なのですが……読み書きの教科書で問題が」
お嬢様は眉を上げた。
「どんな?」
「版木が摩耗してきまして。文字が潰れ始めています」
「何部刷った?」
「三千部ほどです」
「……足りないわね。あと十倍は必要なのに」
私は困ったように眉を寄せた。
「版木を彫り直せば刷れますが、彫り師が足りません」
「そうでしょうね」
「それに、算術の教科書も作りたいと仰っていましたよね」
「ええ」
「新しい教科書を一冊作るたびに、何十枚もの版木を彫ることになります……」
お嬢様は紅茶を一口飲んだ。
「わかってるわ」
「あと、もう一つ……」
私の声が小さくなった。
「何?」
「簿記の教科書なのですが、誤植が見つかりまして」
「どこ?」
「第三章の仕訳例です。借方と貸方が逆になっていて……」
お嬢様は無言で私を見た。
私は頭を下げた。
「申し訳ありません。校正の段階で見落としてしまいました」
「それで?」
「修正するには、そのページの版木を彫り直すしかありません。すでに配布した分は回収して……」
「待ってちょうだい」
お嬢様は手を上げた。
「木版刷りは限界ね」
私の目が動いた。
「……ということは以前おっしゃっていた活版印刷ですか」
「ええ。そろそろ移行するわ」
クラウス様が首を傾げた。
「活版印刷、ですか?」
お嬢様は椅子から降りた。足が床につかないので、よじ登る時と降りる時は少し間抜けな姿になる。だが、本人は気にしていない。
「文字を一つずつ金属で作るの。『A』の活字、『B』の活字……全部別々に」
お嬢様は机の上の木のブロックを並べた。
「それを並べて文章にして、印刷する」
「木版と何が違うのです?」
「木版は、一枚の板に文章を丸ごと彫るでしょう?」
「ええ」
「だから一冊の本を作るのに、何十枚もの版木が必要になる。しかも、その版木は『その本専用』。他には使えない」
クラウス様は頷いた。
「……確かに」
「活版印刷は違う。印刷が終わったら、活字をバラして並べ替えるだけ」
お嬢様はブロックを三つ並べた。
「C、A、T。猫」
そしてブロックを入れ替える。
「A、C、T。行動」
「おお……」
「同じ活字で、順番を変えることで違う言葉になる。つまりあらゆる用途に再利用できる。これが活版印刷よ」
お嬢様は続けた。
「読み書きの教科書も、算術の教科書も、法律の本も——同じ活字で作れるわ」
クラウス様は顎に手を当てた。
「なるほど……版木を彫り直す必要がない」
「そう。誤植があっても、その文字だけ入れ替えればいい」
私は補足した。
「版木だと、一文字直すためにページ全体を彫り直しですからね……」
「確かに、それは便利ですな」
クラウス様は感心したように頷いた。
「問題は、活字の材料」
お嬢様は窓際に歩いていった。
「金属、と仰いましたな」
「ええ。木だと摩耗する。金属なら何万回押しても平気」
「なるほど」
「ただし、普通の金属じゃダメなの」
「といいますと?」
お嬢様は振り返った。
「まず鉛。融点が低くて、鋳造しやすい」
「鉛……」
「次に錫。鉛だけだと柔らかすぎるから、硬くするため」
クラウス様の目が見開かれた。
「先ほど増産を命じられた……」
「そう。最後に——」
お嬢様は小さく笑った。
「さっき言った、鉛鉱石に混じる銀白色の石。あれが必要」
「あれは何なのです?」
「アンチモンという金属よ。冷える時にわずかに膨張する性質がある」
「アンチモン……」
ヨハンが呟いた。嫌われ者の石に、そんな名前があったのか。
クラウス様は眉をひそめた。
「普通、金属は冷えると縮むものでは?」
「そう。でもこれは逆。水が氷になると膨らむのと同じ」
「確かに、水を凍らせると膨らみますな」
クラウス様は顎に手を当てた。
「……そういえば、あれはどういう原理なのです?」
お嬢様は机の上の紙を引き寄せ、ペンを走らせた。
まず、小さな丸をいくつも描く。バラバラに、紙の上に散らばるように。
「これが液体の水。分子が自由に動き回ってる」
次に、別の場所に丸を描いていく。今度は規則正しく、六角形の模様を作るように。
「これが氷。分子が規則正しく並ぶと、こうなる」
クラウス様は図を覗き込んだ。
「……六角形に隙間がありますな」
「そう。液体の時はぎゅうぎゅう詰めだったのに、固体になると隙間ができる。だから膨らむ」
「なるほど……!」
クラウス様の目が開かれた。
ヨハンは興奮気味に身を乗り出した。
「すげえ……分子の並び方で体積が変わるのか!」
「あなたには前に教えたでしょう」
「理屈では聞いたけどよ、こうして図で見ると全然違うぜ!」
エマも図を見て、思わず声を上げた。
「すごい……こんな簡単な図で……」
お嬢様は肩をすくめた。
「アンチモンも似たようなもの。冷えて固まる時に、わずかに膨らむ」
「それが活字に何の関係が?」
お嬢様は新しい紙を取り、また図を描き始めた。
まず、四角い枠を描く。その中に「A」の文字を逆さまに描いた。
「これが鋳型。ここに溶けた金属を流し込む」
次に、枠の中を斜線で塗りつぶしていく。だが、「A」の角の部分には隙間を残した。
「普通の金属は、冷えると縮む。すると、こうなる」
お嬢様は隙間を指さした。
「角の細かい部分まで金属が届かない。文字がぼやける」
クラウス様は頷いた。
「なるほど……」
「でも、アンチモンを混ぜると逆になる」
お嬢様は別の図を描いた。今度は「A」の角まで、しっかりと塗りつぶされている。
「冷えて固まる時に膨張するから、鋳型の隅々まで金属が押し込まれる。文字の輪郭がくっきり出るのよ」
私は二つの図を見比べた。
「……全然違いますね」
「そういうこと」
「合理的ですな」
クラウス様は感心したように呟いた。
「そう。これが科学よ」
お嬢様はペンを置いた。
「科学には二つの柱がある。理論と実証」
「理論と……実証」
「『なぜそうなるのか』を説明するのが理論。『本当にそうなるか』を確かめるのが実証」
お嬢様は先ほどの図を指さした。
「アンチモンは冷えると膨張する。これが理論。実際に鋳型に流し込んで、隅まで届くことを確かめる。これが実証」
クラウス様は黙って聞いている。
「理論と実証が揃えば、再現できる。私がやっても、あなたがやっても、職人がやっても——同じ結果になる」
私は息を呑んだ。
「それが……科学」
「そう。才能や勘じゃない。手順さえ守れば、誰でも同じものが作れる」
お嬢様は窓の外を見た。
「だから私は図を描くし、教科書を作る。私がいなくなっても、知識は残るから」
私の胸が締めつけられた。
お嬢様は最初から、自分一人で抱え込むつもりなどなかったのだ。
「鉛・錫・アンチモンの合金。この三つを混ぜれば、理想的な活字ができるわ」
クラウス様は深く頷いた。
「なるほど、承知しました……鉱山に確認を急がせます」
クラウス様が退室した後、執務室には静けさが戻った。
ヨハンは自分のコレクションから銀白色の石を取り出し、しげしげと眺めていた。
「こいつが……アンチモンか」
「そうよ。あなたが集めてくれたおかげで、探す手間が省けたわ」
「へへ、役に立ったか」
ヨハンは嬉しそうに石を握りしめた。
私は机の上に残された図を見つめていた。
液体の水と、氷の結晶構造。普通の鋳型と、アンチモン入りの鋳型。
どちらも、簡単な丸と線だけで描かれている。それなのに、見ればすぐに理解できる。
「お嬢様」
「何?」
「さっきの図、取っておいてもよろしいですか?」
お嬢様は肩をすくめた。
「好きにしなさい」
私は丁寧に紙を折り畳んだ。
理論と実証。手順さえ守れば、誰でも同じ結果になる。
それが科学。
「……私も、いつかこういう図を描けるようになりたいです」
「練習すればできるわ」
お嬢様は紅茶を飲み干した。
「科学は才能じゃない。学べば誰でも使える道具よ」
私は胸の中で、その言葉を繰り返した。
学べば、誰でも。
「エマ」
「はい?」
「鋳造職人を集めて。腕のいいのを」
「承知しました」
私は背筋を伸ばした。
活版印刷の第一歩。まずは材料から。
お嬢様の描いた図を胸に、私は執務室を後にした。




