第36話 内務大臣の選択~クラウス視点~
私の名はクラウス・フォン・リヒター。
内務大臣として、この国に仕えて三十年になる。
かつては志もあった。理想もあった。この国を変えたいと、本気で思っていた時期もあった。
だが今の私は、ただ命令に従うだけの抜け殻だ。
——そう思っていた。あの日までは。
「お嬢様、グライフ伯爵が工事を止めています」
エマという名のメイドが、そう報告した。
執務室には、シャルロッテ様と、私、そしてこのメイドがいる。最近ではこの三人での会議が定例になっていた。
「聞いたわ。許可証がないから、だったかしら」
シャルロッテ様は、七歳とは思えない落ち着きで応じた。
「はい。正式な書類を見せろと……」
「勅令を出すわ。道路建設を国家事業として——」
「お待ちください」
気づけば、私は口を開いていた。
シャルロッテ様の視線が、こちらを向く。
「何?」
「……私が、伯爵と話してまいります」
なぜ、そんなことを言ったのか。自分でもわからなかった。
「あなたが?」
「はい。グライフ伯爵とは……旧知の仲でございます」
シャルロッテ様は、じっと私を見つめた。七歳の子供とは思えない、見透かすような目だった。
「勅令は最後の手段に取っておくべきかと」
「……」
「勅令を出せば、伯爵は表向き従っても、心は離れます。それよりは——」
「ふぅん」
シャルロッテ様は、小さく笑った。
「いいわ、行ってらっしゃい」
「……ありがとうございます」
私は一礼して、執務室を後にした。
背中に、二人の視線を感じる。だが、振り返らなかった。
◆
馬車に揺られながら、私は窓の外を見ていた。
十五年前のことを、思い出していた。
あの頃の私は、まだ若かった。三十四歳。血気盛んで、理想に燃えていた。
「この税制改革により、国庫収入は一・五倍に——」
私は、先代の大臣に改革案を提出した。何度も練り直した、自信作だった。
「リヒター。お前の言いたいことはわかる」
先代大臣は、私の資料をめくりながら言った。
「では——」
「だが、できん」
「なぜですか!? 数字は明らかに——」
「数字の問題ではない」
先代大臣は、資料を閉じた。
「貴族たちが納得せん」
「納得させればいいでしょう!」
「……若いな」
先代大臣は、憐れむような目で私を見た。
「国を動かすのは正論ではない。力だ」
「力……」
「お前に、貴族たちを従わせる力があるか?」
私は、答えられなかった。
「理想だけでは国は変えられん。十年早いとは言わん。だが——今ではない」
その日の夜、私は帰宅した。
「父上、お帰りなさい」
玄関で、息子のフリードリヒが出迎えてくれた。九歳になったばかりの、明るい少年だった。
「……ああ」
「どうしたのですか? 元気がありませんね」
「……何でもない」
「改革案、却下されたのですか?」
私は黙った。この子は、よく見ている。
「……お前には関係ない」
「父上」
フリードリヒは、真っ直ぐな目で私を見た。
「僕は、父上の味方です」
「……」
「いつか、父上の理想が叶う日が来ます。僕も、その時は手伝います」
私は、息子の頭を撫でた。
「……ああ。そうだな」
◆
それから十年が経った。
私は四十四歳になり、フリードリヒは十九歳になった。
そして——あの戦争が始まった。
隣国との国境紛争。大した理由もない、くだらない戦争だった。だが、当時の王──そうこの前食中毒で死んだ王だ──は威信をかけて大軍を送り込んだ。
フリードリヒも、徴兵された。
「リヒター男爵。ご子息フリードリヒ様は……」
使者の声が、今でも耳に残っている。
「先の会戦にて、壮烈な戦死を遂げられました」
妻が、その場に崩れ落ちた。
「そんな……嘘よ……フリードリヒ……!」
私は——何も言えなかった。
「……どのような、最期だった」
ようやく、それだけを聞いた。
「敵陣への突撃命令が下り……先陣を切って……」
「突撃命令」
「はい。将軍の命令により——」
「……なぜ、そのような命令が」
「敵の士気を挫くため、と……」
私は、使者の言葉を聞いていなかった。
あの戦いは、結局引き分けに終わった。クソのような王の体面のせいで始まったこの戦争は、結局何も得られず、何も変わらず、ただ若者たちが死んだだけだった。
息子は、何のために死んだ?
私は——何のために——
馬車が揺れて、私は我に返った。
窓の外には、道路工事の現場が見えた。
「……止めてくれ」
御者に声をかけ、馬車を降りた。
農民たちが、汗を流して働いていた。
「よいしょ! よいしょ!」
「そこ、もう少し平らに!」
「へい!」
私は、現場を歩いた。農民たちが、怪訝そうな顔でこちらを見る。
「おっ、お偉いさんが来たぞ」
「邪魔すんなよ、仕事中だ」
「……続けてくれ。見ているだけだ」
休憩中の農民が、水を飲んでいた。私は、その男に近づいた。
「少し聞いてもいいか」
「へえ、何でしょう」
「この仕事は……どうだ」
農民は、不思議そうな顔をした。
「どうって……まあ、ありがてぇですよ」
「ありがたい?」
「へえ。冬は毎年、食い扶持に困ってたんで」
農民は、日焼けした顔で笑った。
「飯も出るし、銭ももらえる。おかげで嫁さんと子供に、ひもじい思いをさせずに済みます」
「……そうか」
「旦那様、何かご不満でも?」
「いや……ご苦労」
私は馬車に戻った。
子供に、ひもじい思いをさせずに済む。
その言葉が、頭から離れなかった。
シャルロッテ様の政策は——人を殺すのではなく、生かしている。
◆
グライフ伯爵邸に着いた頃には、日が傾きかけていた。
「クラウスか。珍しいな、お前が来るとは」
グライフ伯爵は、応接間で私を迎えた。白髪が増えたな、と思った。
「久しぶりだな、グライフ」
「まあ座れ。茶でも飲むか」
「……ああ、もらおう」
使用人が茶を運んでくる間、グライフ伯爵は私を観察していた。
「それで? 用件は何だ。道路のことか?」
「ああ」
「言っておくが、道路の件は私は反対だぞ」
グライフ伯爵は、茶を一口飲んだ。
「領主の許可なく領地を掘り返すなど、認められん」
「気持ちはわかる」
「わかるなら帰れ。私は譲らん」
「……グライフ」
「何だ」
「お前は……シャルロッテ様をどう思っている」
グライフ伯爵は、眉をひそめた。
「どうもこうもない。五歳——いや、今は七歳か。子供だ」
グライフ伯爵は、茶碗を置いた。
「しかも正式な摂政ですらない。ただの伯爵令嬢だ」
「……」
「子供の思いつきに国が振り回されている。嘆かわしいことだ」
グライフ伯爵は私の目を見た。
「お前もそう思っているだろう? かつてのお前なら——いや、かつてのお前は、こんな命令には従わなかっただろうな」
「……」
「改革派のリヒター。志を持っていた男が、今では幼女の犬か」
私は、黙っていた。
「息子を亡くしてから、お前は変わった」
グライフ伯爵の声が、少し柔らかくなった。
「目が死んでいる。何も信じていない目だ」
「……」
「違うか?」
「……違わない」
私は、自分でも驚くほど正直に話していた。
「グライフ。私は……長い間、何も信じていなかった」
「……」
「息子が死んでから、改革も、理想も、すべてが虚しくなった。どうせ何をしても変わらない。そう思っていた」
グライフ伯爵は、黙って聞いていた。
「シャルロッテ様が政務を行うようになってからも同じだった。子供の戯言だ。すぐに飽きる。そう思っていた」
「違うのか?」
「……わからない」
私は、窓の外を見た。
「だが——あの方は、やると言ったことをすべてやり遂げている」
「……」
「羊皮紙に代わる紙を作ると言った。植物から作る、安価な紙だ。馬鹿げていると思った。だが——できた」
「……」
「インクも改良した。にじまず、乾きが早い。今では宮廷の公文書はすべてそれを使っている」
「それは知っている」
「複式簿記という帳簿の技法を広めた。商人たちは最初反発したが、今では自ら採用している。そのほうが便利だと気づいたからだ」
グライフ伯爵は黙って聞いていた。
「度量衡を統一した。メートル、キログラム、秒。全国どこでも同じ単位で取引ができる」
「……確かに、便利になったとは聞いている」
「気球を飛ばした。空から地上を見下ろし、地図を描いた。三角測量で精度を高め、今までにない正確な地図ができつつある」
私は、グライフ伯爵の目を見た。
「そのすべてを——七歳の子供が、二年でやり遂げた」
「……」
「年齢を考えれば、異常だ。立場を考えれば、不自然だ。正体がわからないという点では、お前の言う通りかもしれない」
「……」
「だが——これだけの実績を前にすると、そんなことはどうでもよくなる」
グライフ伯爵は、黙ったまま私を見ていた。
「そして今、道路だ」
私は、窓の外を見た。
「今日、工事現場を見てきた」
「工事現場?」
「農民が働いていた。冬の食い扶持に困らずに済むと、喜んでいた。子供にひもじい思いをさせずに済むと」
「……」
「私の息子は、戦争で死んだ」
声が、少し震えた。
「何の意味もない戦争だった。勝っても負けても、何も変わらない。ただ人が死んだだけだ」
「……」
「でも、この道路は違う」
私は、グライフ伯爵の目を見た。
「完成すれば、人々の暮らしが良くなる。命を奪うのではなく、命を繋ぐ」
「……」
「……私は、それを信じたい」
◆
長い沈黙があった。
「……クラウス」
グライフ伯爵が、口を開いた。
「お前が、そこまで言うとはな」
「……」
「五年前にフリードリヒが死んでから、お前は何も言わなくなった。会議でも、『仰せのままに』としか言わん」
「……すまない」
「謝るな。気持ちはわかる」
グライフ伯爵は、立ち上がって窓際に歩いた。
「……シャルロッテ様は、本気なのか?」
「……わからない。ただ——今のところ、やると言ったことはすべてやっている」
「……」
グライフ伯爵は、しばらく窓の外を見ていた。
「お前が言うなら、一度くらいは様子を見てやる」
「伯爵……」
「ただし、条件がある」
グライフ伯爵は、振り返った。
「道路が私の領地を横切る。その分の土地の補償は払ってもらう」
「それは当然だ」
「それと、道路が通れば商人の往来が増える。宿場も建つだろう。その税収は——」
「待て」
私は、グライフ伯爵の言葉を遮った。
「税収を全部よこせと言うなら、工事費も全部お前が出すのか?」
「……」
「国費で道路を作り、お前が税収を取る。それは虫が良すぎるだろう」
グライフ伯爵は、少し驚いた顔をした。
「……お前、言うようになったな」
「交渉だろう。それくらいは言う」
「ふん」
グライフ伯爵は、かすかに笑った。
「では、こうしよう。宿場の税収は折半だ」
「……妥当だな」
「それと、私の領民を工事に優先的に雇え。賃金は国持ちでな」
「それは——シャルロッテ様に確認する」
「ああ、そうしろ」
グライフ伯爵は、窓際から戻ってきた。
「少しは目に光が戻ったな、クラウス」
◆
翌日、私は王城に戻り、シャルロッテ様に報告した。
「グライフ伯爵から許可を得ました」
「あら、勅令なしで?」
「はい。ただ、条件がございます」
「聞くわ」
「まず、道路が横切る土地の補償」
「当然ね」
「次に、宿場の税収を折半」
「……ふぅん」
シャルロッテ様は、少し考えるような顔をした。
「最初は全額よこせと言ったんでしょう?」
「……はい」
「それを折半まで下げたのね」
「工事費を全額出すなら税収も全額、と申し上げたところ……」
「あら」
シャルロッテ様は、小さく笑った。
「言うじゃない」
「……恐れ入ります」
「それで?」
「あと一つ。伯爵領の領民を、工事に優先的に雇ってほしいと」
「賃金は国持ちで?」
「……はい」
シャルロッテ様は、少し考えてから頷いた。
「妥当ね。むしろありがたいくらい」
「よろしいのですか?」
「当然よ。地元の人間を雇えば、道路への反発も減る。伯爵の顔も立つ。悪くない条件だわ」
シャルロッテ様は、立ち上がって窓際に歩いた。
「道路が通れば、その土地の価値は上がる。税収も増える。伯爵が得をしても、国も得をする」
「……」
「クラウス」
「はい」
「よくやったわ」
その言葉に、胸が熱くなった。
「……恐れ入ります」
「でも、一つ聞いていい?」
「何でしょう」
シャルロッテ様は、振り返った。
「なぜ、自分から行くと言ったの? あなた、そういうタイプじゃなかったじゃない」
私は、少し考えた。
「……シャルロッテ様」
「何?」
「私は……十五年前、この国を変えたいと思っていました」
「……」
「税制を改革し、道路を整備し、民の暮らしを良くする。そんな理想を持っていました」
「それで?」
「先代の大臣に言われました。『貴族たちを従わせる力がお前にあるか』と」
「……」
「ありませんでした。だから、諦めた」
私は、窓の外を見た。
「でも、シャルロッテ様は——諦めていらっしゃらない」
「……」
「私ができなかったことを、次々と実現している。貴族たちも、気づけば従っている」
「力があるから?」
「いえ……結果を出しているからです」
私は、シャルロッテ様の目を見た。
「私が夢見て諦めたものを、あなたは現実にしている。それを見ていると……」
言葉を探した。
「……悔しいような、嬉しいような、不思議な気持ちになるのです」
シャルロッテ様は、黙って私を見つめていた。
「だから……せめて、邪魔はしたくないと思いました」
「邪魔?」
「勅令を出せば、伯爵は表向き従っても、心は離れます。それよりは……説得できるなら、したほうがいいと」
「……」
シャルロッテ様は、小さく笑った。
「クラウス」
「はい」
「あなた、使えるじゃない」
「……恐れ入ります」
「これからも頼むわ」
「……仰せのままに」
いつもと同じ言葉のはずだった。
だが、口にした瞬間、何かが違うと感じた。
諦めではない。これは——
エマが、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「シャルロッテ様」
私は、少し躊躇してから口を開いた。
「何?」
「伯爵は……シャルロッテ様のことを『正式な摂政ですらない』と申しておりました」
「……」
「今回は交渉で乗り切れましたが、同じことを言う貴族は他にもいるかと」
シャルロッテ様は、黙って私を見ていた。
「恐れながら……正式な摂政就任式を行うべきではないでしょうか」
エマが、驚いた顔をした。
「クラウス様、それって……」
「シャルロッテ様の実績は、すでに疑いようがありません。ならば、名実ともに——」
「いいわ」
シャルロッテ様は、あっさりと頷いた。
「え?」
「やりましょう。準備を進めなさい」
私は、拍子抜けした。もっと説得が必要かと思っていた。
「……仰せのままに」
シャルロッテ様は、小さく笑った。
「そろそろ頃合いかと思ってたわ」
◆
その夜、私は自宅の書斎にいた。
息子の剣を、手に取った。
あの日から一度も抜いていない剣。鞘には、リヒター家の紋章が刻まれている。
「フリードリヒ」
私は、剣に語りかけた。
「お前が生きていれば……二十四歳か」
窓の外には、月が出ていた。
「シャルロッテ様は……まだ七歳だ。だが、あの目は——お前と同じだ」
お前が言っていた言葉を思い出す。
『いつか、父上の理想が叶う日が来ます』
私は諦めた。十五年前に。五年前に。何度も。
だが——
「シャルロッテ様は、諦めていない」
私は、剣を元の場所に戻した。
「フリードリヒ」
月明かりが、書斎を照らしていた。
「私は……もう少しだけ、見ていようと思う。あの方が、どこまでやれるのか」
返事はない。当然だ。
「それが、お前への手向けになるかは、わからないが」
私は、窓を閉めた。
明日も、仕事がある。




