第30話 【科学回】熱とは何か~ヨハン視点~
※作者の趣味で科学蘊蓄が延々と続きます。興味ない方は遠慮なく飛ばしてください。
気球の有人飛行が成功した翌日。
俺は師匠の執務室を訪ねた。
昨日からずっと気になっていたことがある。
「師匠、聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「気球。なんで飛ぶんだ?」
師匠は書類から顔を上げた。
「火を焚くと浮く。理屈がわからねえ」
「いい質問ね」
師匠が答えようとしたとき、扉がノックされた。
「お嬢様、よろしいでしょうか」
エマだった。
「入りなさい」
エマが入ってくる。俺を見て少し驚いた顔をした。
「あ、ヨハンさん。お取り込み中でしたか」
「いや、ちょうどいいわ。何?」
「その……」
エマは言いにくそうに口ごもった。
「一つ、お願いがありまして……」
「珍しいわね。言ってみなさい」
「気球が飛ぶ理由を……教えていただけませんか」
俺は目を丸くした。
エマが自分から何かを聞くなんて珍しい。いつもは師匠に振り回されてるだけなのに。
「どうして?」
俺は聞いた。
「……原理がわからないものに乗るのが、怖いんです」
エマは俯いた。
「昨日、空を飛びました。でも、なんで浮いてるのかわからなくて……ずっと怖くて……」
「原理がわかれば、少しは安心できると思って……」
エマは恥ずかしそうに言った。
師匠は微笑んだ。珍しく、優しい笑顔だ。
「いいわ。ちょうどヨハンにも説明しようとしていたところだから」
「俺もちょうどそれを聞きに来たところだったんだよ。火を焚くと浮く理由」
エマは少しほっとしたような顔をした。
「じゃあ、二人まとめて教えるわ。座りなさい」
師匠は黒板の前に立った。
俺とエマは並んで座っている。なんだか授業みたいだ。
「まず質問。『熱』とは何?」
「火の力……みたいなもんだろ」
俺は答えた。
「温かさ……ですか?」
エマも答える。
「どっちも違うわ」
師匠はチョークを手に取った。
「熱は『粒の動き』よ」
「粒?」
俺は聞き返した。
「前に教えたでしょう。世界は小さな粒でできている」
「ああ、原子ってやつか」
思い出した。世界は粒でできている。空気も、水も、鉄も、全部。
「原子は常に動いているの。止まっていることはない」
師匠は黒板にたくさんの点を描いた。
「熱いとき、原子は激しく動く」
点がぐるぐると動いている様子を、矢印で表した。
「冷たいとき、原子はゆっくり動く」
今度は小さな矢印。
「温度とは、『原子の動きの激しさ』を数字にしたものよ」
「動きの激しさ……」
俺は呟いた。
「つまり、熱いっていうのは、粒が暴れてるってことか」
「そう。そして冷たいのは、粒がおとなしいということ」
「じゃあ、原子が止まったらどうなるんだ?」
俺は聞いた。
「それが絶対零度よ」
「絶対零度?」
「原子の動きが完全に止まる温度。それより冷たいものは存在しない」
「存在しない……」
「マイナス273度くらいね。この世で一番冷たい温度」
俺は背筋がぞくっとした。なんだか怖い話だ。
エマが手を挙げた。
「あの……目に見えない粒が動いてるって、どうしてわかるんですか?」
「いい質問ね」
師匠は頷いた。
「直接は見えない。でも、間接的な証拠はあるわ」
「証拠?」
「窓から差し込む光の中で、埃が舞っているのを見たことがある?」
「あ……はい。きらきら動いてます」
エマが答えた。
「あの埃、なぜ動いていると思う?」
「風……ですか?」
「風がなくても動いているでしょう?」
「……確かに」
「空気の粒が埃にぶつかっているからよ。粒は見えないけど、その影響は見える。これをブラウン運動と呼ぶの」
「ブラウン運動……」
俺は呟いた。粒が動いている証拠。
エマは真剣な顔で聞いていた。
「じゃあ、温度計の話をするわ」
師匠は引き出しから温度計を取り出した。ギュンターが作ったやつだ。
「これ、見たことあるわね?」
「はい。ギュンターさんが作ったものですよね」
エマが答えた。
「水銀が入っている。熱すると水銀が上がる。なぜだと思う?」
俺は考えた。
「……粒が激しく動くから?」
「そう。水銀も粒でできている。熱くなると粒が激しく動いて、広がろうとする」
「だからガラス管の中を上がるのか」
「そういうこと」
エマが温度計を見つめている。
「0度と100度は……」
「水が凍る温度が0度。沸騰する温度が100度」
「なんで水なんですか?」
「どこにでもあるからよ。帝国の北でも南でも、水は同じ温度で凍る」
「本当は気圧で沸点が変わるんだけどね。山の上だと100度より低い温度で沸騰するわ」
「気圧?」
「空気の重さよ」
師匠は黒板に絵を描いた。地面と、その上に積み重なる空気の層。
「私たちの上には、空気が積み重なっている。何キロメートルも」
「空気が……積み重なる?」
エマが首をかしげた。
「空気にも重さがあるの。私たちは常に、空気の重さに押されている」
「押されてる……?」
「水の中に潜ると、水圧で耳が痛くなるでしょう? 同じよ。空気にも圧力がある」
「じゃあ、山の上だと……」
俺は考えた。
「上に乗ってる空気が少ないから、圧力が低い?」
「そう。だから沸点も下がるの。でも同じ場所で測れば、誰が測っても同じ値になる」
「だから基準になるんですね……」
エマは納得したように頷いた。
「職人の勘じゃなくて、誰でも同じ数字で測れる。それが温度計の意味よ」
師匠は一息ついた。
「そして、この『空気の重さ』が、気球を理解する鍵になるわ」
「さて、本題」
師匠は言った。
「なぜ気球は浮くのか」
俺とエマは身を乗り出した。
「空気も粒でできている。これはわかるわね?」
「はい」
「熱い空気は、粒が激しく動く。だから広がろうとする」
師匠は黒板に袋の絵を描いた。
「袋の中に熱い空気を入れると、粒が広がろうとする。でも袋があるから、外には出られない」
「それで?」
「同じ大きさの袋なら、熱い空気と冷たい空気、どっちが粒の数が多い?」
俺は考えた。
「……冷たい方か。熱い方は広がってるから、同じ袋に入る数が少なくなる」
「正解。粒が少ないということは?」
「軽い」
「そう。熱い空気は冷たい空気より軽いの」
エマが声を上げた。
「あ……だから浮くんですか?」
「そう。軽いものは重いものの上に行く」
「水に木が浮くのと同じ……?」
「正解よ、エマ」
エマの目が輝いた。
「火を焚くと空気が熱くなって……軽くなって……だから浮く……!」
「そういうこと。だから火の調整が大事なの。火を弱めると空気が冷えて、下がる」
エマは何かを思い出したような顔をした。
「ハンスさんが、ずっと火を調整してました……そういう意味だったんですね……」
「あなたを安全に飛ばすために、彼は空気の温度を調整していたのよ」
エマは黙った。
何かを考えているようだった。
「もう一つ、教えておくわ」
師匠は言った。
「熱には『向き』があるの」
「向き?」
俺は聞き返した。
「熱は必ず、熱いところから冷たいところへ移る」
「当たり前じゃねえか。熱いものは冷める」
「そう。でも逆は起きない」
「逆?」
「冷たいものが勝手に熱くなることはない。絶対に」
俺は考えた。
確かに、机の上に置いたコップが勝手に熱くなることはない。
「言われてみれば……そうですね」
エマも頷いた。
「その『当たり前』が、宇宙の法則なの」
師匠の声が少し真剣になった。
「熱は必ず、高いところから低いところへ流れる。これは絶対に逆転しない」
「絶対に?」
「絶対に。この法則を破ることは、誰にもできない。これを熱力学第二法則というわ」
「……」
なんだか、すごいことを言われている気がした。
「もう少し詳しく説明するわね」
師匠は黒板に絵を描き始めた。
「熱いお茶を置いておくと、冷める。これはわかるわね?」
「ああ」
「お茶の熱が、周りの空気に移るから。熱い方から冷たい方へ、熱が流れる」
「うん」
「じゃあ逆に、冷めたお茶が勝手に熱くなることはある?」
「……ないな」
「周りの空気から熱を奪って、お茶だけが熱くなる。そんなことは絶対に起きない」
俺は頷いた。当たり前だ。
「でも、なぜ?」
師匠が聞いた。
「え?」
「熱が高いところから低いところへ流れるのは当たり前。でも、なぜ逆は起きないの?」
俺は考えた。考えたが、答えが出ない。
「……わからねえ」
「これは『秩序』と『乱雑さ』の問題なの」
師匠は黒板に、整列した点と、バラバラに散らばった点を描いた。
「世界は、秩序ある状態から乱雑な状態へ向かう。これが自然の流れよ」
「乱雑?」
「部屋を掃除しても、放っておけば散らかる。でも散らかった部屋が勝手に片付くことはない」
「……確かに」
エマが深く頷いた。実感がこもっている。
「熱も同じ。熱いものと冷たいものがあると、熱は広がって均一になろうとする。集中した状態から、散らばった状態へ」
「でも逆に、散らばった熱が勝手に集まることはない」
師匠は続けた。
「だから、一度冷めたものは勝手には温まらない。熱が散らばった状態から、集中した状態には戻らない」
「……なんか、寂しい法則だな」
俺は呟いた。
「そうね。でも、だからこそ時間は一方向にしか流れないのよ」
「時間?」
「過去と未来を区別できるのは、この法則があるから。割れたコップは元に戻らない。こぼれた水は勝手にコップに戻らない」
俺は黙った。
なんだか、とんでもないことを聞いている気がする。
「この法則を使うと、熱を『力』に変えられるわ」
「力に?」
「熱いところと冷たいところの差を利用して、ものを動かすことができる」
「どういうことだ?」
「蒸気機関というものが作れるの。いずれ教えるわ」
師匠はそこで話を止めた。
「今日はここまで」
◆
「少し……わかった気がします」
エマが言った。
「気球が浮く理由。温度計が動く理由」
「原理がわかれば、怖くなくなった?」
師匠が聞いた。
エマは少し考えた。
「……少しだけ」
「少しだけ?」
「原理はわかりました。でも……やっぱり高いところは怖いです」
俺は笑った。
「そりゃ別の問題だな」
「うるさいですね」
エマは頬を膨らませた。
「俺は乗ってみたいけどな。空を飛ぶの、気持ちよさそうじゃん」
「次はヨハンに乗ってもらおうかしら」
師匠が言った。
「マジで!?」
俺は思わず声を上げた。
「ええ。測量の仕事、手伝ってもらうわ」
「やった……!」
「どうぞご自由に……」
エマは疲れた顔で言った。
師匠は微笑んだ。
「でもエマ、あなたが『知りたい』と言ったこと、嬉しかったわ」
「え?」
「知ろうとする気持ちは大事よ。怖いから知りたい。それは正しい姿勢だわ」
エマは少し照れたように俯いた。
「……ありがとうございます」
俺は思った。
師匠の話は難しい。でも、少しずつわかってきた。
世界は粒でできている。粒は動いている。その動きが熱。
熱は高いところから低いところへ流れる。
そして、その法則を使えば、力を生み出せる。
蒸気機関。
いずれ教えると、師匠は言った。
楽しみだ。




