第29話 メイド、空を飛ぶ
三月。春が来ていた。
雪が溶け、庭には新緑が芽吹いている。お嬢様が王城に来てから二年が経った。私は十七歳、お嬢様は七歳になった。
気球の無人実験が成功してから三ヶ月。有人飛行の日がやってきた。
私は王城の庭に立っていた。
目の前には、あの気球。
昨日見たときより、なぜか大きく見える。いや、実際に大きいのだ。人が乗るのだから。
そして——籠。
籠の中には、技師の男が一人乗っている。ハンスという名前らしい。火の調整を担当するとのこと。
なぜか目が輝いている。
「大丈夫よ。紐で繋いであるから落ちない」
お嬢様が言った。
「落ちないって言われても……!」
「技師も一緒だから、あなたはスケッチに専念しなさい」
「私はメイドです! 空を飛ぶ仕事なんて聞いてません!」
「知ってるわ。だから飛ぶのよ」
意味がわからない。
周囲には技師たちや兵士たちが集まっている。みんな興味津々といった顔でこちらを見ている。
見世物じゃないんですけど……。
私は震える足で籠に乗り込んだ。
ハンスが手を差し伸べてくれた。
「大丈夫ですよ、お嬢さん。俺が火の調整しますから」
「は、はい……」
「それに万が一墜落しても、俺も一緒ですから」
何が大丈夫なの!?
「いやあ、楽しみだなあ。今日は風も穏やかだし、最高の飛行日和ですよ」
……この人、本当に楽しそうだ。
怖くないのだろうか。いや、怖くないのだろう。目がキラキラしている。子供のように。
籠が狭い。ハンスと二人で乗ると、身動きが取りにくい。
籠の縁は腰の高さくらいしかない。ちょっとバランスを崩したら、すぐに落ちてしまいそうだ。
足が竦む。手が震える。
なんで私がこんな目に。
「いってらっしゃい」
お嬢様が合図を出した。
ハンスが火を強くする。ゴォッという音がして、炎が大きくなった。
気球がゆっくりと——
「ひぃぃぃぃ……!」
地面が離れていく。
私は籠の縁にしがみついた。籠が揺れる。揺れるたびに悲鳴が出そうになる。
「落ち着いて。地上からロープで繋いでますから、これ以上は上がりません」
ハンスが冷静に言う。
でも、高い。高い。どんどん高くなっていく。
地上の人々がどんどん小さくなっていく。お嬢様が手を振っている。こっちはそれどころじゃない。
そして——寒い。
そういえばお嬢様が言っていた。上空は地上より寒いらしい。高さが100メートル上がるごとに約0.6度下がるとか。
0.6度が何なのかはさっぱりわからなかったが、とにかく寒いのは本当だった。
風が吹いている。地上では感じなかった風だ。籠が揺れる。
怖い。怖い。怖い。
でも——
下を見れば——
王城が小さく見える。
あんなに大きかった城が、おもちゃのように見える。
城下町が広がっている。家々の屋根が並んでいる。道が網目のように走っている。
遠くに山々が連なっている。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
恐怖が、少しだけ薄れた。
こんな景色——見たことがない。
鳥になった気分。
いや、鳥はこんな景色を毎日見ているのか。鳥ってすごい。
「いい眺めでしょう?」
ハンスが笑った。
「俺も最初は怖かったですよ。でも慣れると、癖になる」
ハンスは恍惚とした表情で空を見上げた。
「地上に降りたくなくなるんです」
「慣れたくないです……」
私は震える手で、スケッチ帳を取り出した。
描かなければ。お嬢様に怒られる。
鉛筆を握る。手が震えている。線がガタガタになる。
でも、描く。城の形、城下町の広がり、山の稜線。
線がガタガタになりながらも、私は景色を写し取った。
ハンスは黙って火の調整をしていた。プロだ。時々、火を強くしたり弱くしたりして、高度を保っている。
「あそこ、見えますか?」
ハンスが指さした。
「え?」
「川です。城下町を流れてる川」
確かに、銀色の筋が見える。蛇のようにうねりながら、町を横切っている。
「上から見ると、こうなってたんですね……」
「でしょう? 地上からじゃ絶対にわからない」
ハンスは嬉しそうだ。
「橋の位置とか、道の繋がりとか、上から見ると一目瞭然なんです」
「……なるほど」
だからお嬢様は、私にスケッチを描かせたのか。
地図を作るために。
ふと、北の方角に目をやった。
あの向こうに、ノルデンとの国境がある。
半年前、2万の敵軍が押し寄せた場所。お嬢様が単身で敵陣に乗り込み、国王を捕らえた場所。多くの兵士が傷つき、命を落とした場所。
目を凝らすと、かすかに野原が見えた。
あの辺りだ。両軍が対峙した場所は。
地上からは見えなかった全体像が、空からだとわかる。丘の配置、川の流れ、街道の走り方。なぜあの場所が戦場になったのか。今ならわかる気がした。
あの野原で、どれだけの血が流れたのだろう。
私は直接見ていない。でも、帰還した兵士たちの顔は見た。
お嬢様から大規模な戦闘にはならなかったと聞いている。それを回避するためにお嬢様は単身敵陣へと乗り込んでいったのだ。
とはいえ、傷ついた体を引きずって戻ってきた人たちの姿は見た。被害がゼロだったわけでは決してない。
今は、穏やかな山並みが続いているだけだ。
春の日差しを浴びて、緑が萌えている。大地は何事もなかったかのように、静かに横たわっている。
あの戦いが嘘のように、静かだった。
「お嬢さん、絵が上手いですね」
「そうですか?」
「俺にはあんな細かい線、描けません」
ハンスは私のスケッチを覗き込んだ。
「これ、後で正式な地図になるんでしょう?」
「そう……らしいです」
「すごいなあ。俺たちが飛んだ記録が、地図になるんだ」
ハンスは感慨深そうに言った。
私は何も言えなかった。そんな大層なことだとは思っていなかった。
◆
しばらくして、気球が降下し始めた。
「そろそろ降りますよ」
ハンスが残念そうに言った。
「本当はもっと飛んでいたいくらいなんですけどね」
私は飛んでいたくない。
ハンスが火を弱める。ゆっくりと、地面が近づいてくる。
下を見ると、地上で待っていた人々が手を振っていた。
お嬢様も、技師たちも、兵士たちも。
みんな笑顔だ。
「おーい! 無事かー!」
「すごいぞー!」
「歴史的瞬間だー!」
……なんでそんなに楽しそうなの。
私は引きつった笑顔で手を振り返した。
顔の筋肉が言うことを聞かない。笑っているつもりなのに、たぶん全然笑えていない。
ハンスが横で大きく手を振っている。こちらは本当に楽しそうだ。
籠が地面に着いた瞬間、私は崩れ落ちた。
地面の感触が、こんなにも安心できるものだとは知らなかった。
「も、戻ってきました……」
足がガクガクする。立てない。地面が揺れているような気がする。いや、揺れていない。私の体が揺れているのだ。
ハンスが籠から降りて、手を貸してくれた。
「お疲れ様です。初めてにしては上出来ですよ」
「あ、ありがとうございます……」
お嬢様が近づいてきた。
「どうだった?」
「……綺麗でした。怖かったですけど」
「スケッチは?」
私は震える手でスケッチを差し出した。
お嬢様はそれをじっと見つめた。
「……悪くないわね。これで概要がわかる」
「ありがとうございます……」
やっと終わった。もう二度と乗りたくない。
「次は城下町の上を飛ぶわよ」
「え」
私は絶句した。
お嬢様は、にっこりと微笑んだ。
その笑顔が、いつもながら怖かった。
◆
後日。
「初めて空を飛んだ人間」として、私の名前が喧伝された。
歴史書にも記録されたらしい。
『初めて空を飛んだのはメイドだった』、と。
……ハンスさんも一緒に乗ってたんですけど。
というか、ハンスさんの方が先に乗ってたんですけど。
なぜ私だけ。
「いいじゃない、名誉なことよ」
お嬢様は笑っていた。
「名誉とかいらないです……」
「歴史に名を残せるのよ?」
「残したくないです」
「謙虚ね」
「謙虚じゃなくて本音です」
私はメイドです。歴史に名を残したくないです。静かに生きたいです。
でも、もう遅い。
私の名前は、この国の歴史書に刻まれてしまった。
「初めて空を飛んだメイド、エマ」として。
……胃が痛い。




