第28話 頑固な職人
気球の無人実験が成功してから、数日が経っていた。
私は紅茶を注ぎながら、恐る恐る聞いた。
「あの……有人飛行は、いつ……?」
「まだよ」
お嬢様は書類から目を上げずに答えた。
「まだ、ですか?」
少しだけ安堵した。もう少し心の準備ができる。
もっとも、心の準備の時間が多少長くなったところで、特に何も変わらないのだが。
「精密な計器がないと、有人飛行の安全が確保できないわ。温度を測る道具、高度を知る道具——そういうものが必要なの」
「はあ……」
「それを作れる職人を探してるの。エマ、腕のいい職人を知らない?」
「職人、ですか?」
「鍛冶職人。できればガラスも扱える人」
シャルロッテは書類から目を上げずに言った。
「心当たりがあります」
「誰?」
「ギュンターという人です。元々は王室御用達の鍛冶職人でした」
シャルロッテの手が止まった。
「元々?」
「一度貴族と揉めて、王室の発注先から外されたそうです」
「何があったの?」
「ある貴族が剣を注文したのですが、ギュンターさんが『この設計では折れる』と言って、勝手に設計を変えたとか」
「……それで?」
「貴族は激怒しました。『職人風情が口を出すな』と」
シャルロッテは少し考え込んだ。
「結局、その剣は?」
「ギュンターさんの設計で作られました。今でも使われているそうです」
「腕は確かなのね」
「一流だと聞いています。ただ、注文を受けても自分の納得がいかないと作らないとか、依頼主に説教を始めるとか……」
「会わせて」
お嬢様は興味を示したようだった。
エマは少し不安になった。気難しい職人と、説明しないお嬢様。とてもじゃないけれど相性が良いとは思えない。
◆
ギュンターの工房は、街外れにあった。
「師匠、俺も行くのか?」
ヨハンが聞いた。馬車の中には、シャルロッテ、エマ、そしてヨハンの三人がいた。
「ええ。あなたにも関係する話だから」
「職人に会うんだろ? 俺は理論担当だぜ」
「理論だけでは物は作れないわ。実際に手を動かす人が必要なの」
「まあ、そりゃそうだけど」
ヨハンは肩をすくめた。
「それに、あなたには通訳をしてもらいたいの」
「通訳?」
「私の説明は、時々わかりにくいでしょう?」
「……まあ、確かに」
「職人にもわかるように言い換えてほしいの。あなたならできるわ」
ヨハンは少し照れたように鼻を掻いた。
「しょうがねえな」
工房の扉を開けると、金属と炭の匂いが鼻を突いた。
中は散らかっているように見えたが、道具だけは整然と並んでいる。壁には様々な金属製品が掛けられていた。剣、蝶番、錠前、歯車。どれも精巧な作りだ。
「……誰だ」
奥から声がした。白髪交じりの男が、金床から顔を上げる。目つきが鋭い。52歳と聞いていたが、背筋は伸びていて、腕は太い。
「シャルロッテ様です」
エマが紹介すると、ギュンターはゆっくりとシャルロッテを見た。
「ああ、噂の──」
そして、言った。
「……ガキじゃねえか」
「ギュンターさん!」
エマは思わず声を上げた。
「おい、おっさん。師匠に向かって何言ってんだ」
ヨハンも食ってかかった。
「師匠?」
ギュンターの目がヨハンに向いた。
「ガキがガキを師匠と呼んでるのか。おかしな話だ」
「おっさんこそ、腕がいいって聞いたけど、干されてるらしいじゃねえか」
「……なんだと?」
ギュンターの目つきが鋭くなった。
「やめなさい、二人とも」
シャルロッテが静かに言った。
「いいわ、ギュンター。ガキで結構」
「……」
「そんなことより、依頼があるの」
「依頼?」
ギュンターは鼻で笑った。
「ガキに何がわかる。帰んな」
「いいからまずはこれを見なさい」
シャルロッテは、懐から紙を取り出した。設計図だ。
「見てから判断して」
ギュンターは、渋々ながら設計図を受け取った。
そして、黙り込んだ。
エマには、その図面が何を意味するのかわからなかった。線と数字が細かく書き込まれているが、完成品の姿が想像できない。
だがギュンターは違った。
目つきが変わっていた。
「……」
「どう?」
シャルロッテが問いかける。
「……こまけえなぁ」
ギュンターはしばらく無言だった。設計図を何度も見返している。
「できない?」
シャルロッテが問いかけた。
「できねえわけじゃねえ」
ギュンターは言った。
「やったことねえだけだ」
ヨハンが口を挟んだ。
「おっさん、さっきと態度違くねえか?」
「うるせえ、小僧」
ギュンターは設計図から目を離さずに言った。
「腕のいい奴の仕事は見りゃわかる」
「……」
「この図面を描いた奴は、わかってる。作る側のことを」
ギュンターは設計図の一点を指差した。
「ここ、普通なら直角にする。だが微妙に角度がついてる」
「応力分散のためよ」
「応力分散が何かは知らんが……直角だと力が集中して折れやすいのを考慮した設計、ってことだろ?」
「そのとおりよ」
ギュンターはシャルロッテを見た。
「これ、嬢ちゃんが描いたのか」
「ええ」
「……」
ギュンターはしばらく黙っていた。
やがて、口を開いた。
「やってみる」
「いつできる?」
「三日」
「わかった。三日後にまた来るわ」
◆
三日後。
エマはシャルロッテに同行して、再びギュンターの工房を訪れた。ヨハンも一緒だ。
工房に入ると、作業台の上に金属の部品が並んでいた。
「できた」
ギュンターはぶっきらぼうに言った。
シャルロッテは部品を手に取り、細部を確認した。
「精度がいいわね」
「当然だ」
「設計図の意図を理解してくれたのね」
「……」
ギュンターは何も言わなかったが、少し誇らしげに見えた。
「次の依頼があるの」
シャルロッテは別の設計図を取り出した。
「ガラスを作ってほしい」
「ガラス? 俺は鍛冶屋だ」
「ガラスも扱えると聞いたわ」
「……できなくはねえが」
「透明で均一なガラス。今のガラスは品質が悪い」
「何に使う」
「温度計を作る」
ギュンターの眉が上がった。
「おんどけい?」
「温度を測る道具よ」
「温度を……測る?」
「そう。今は職人の勘に頼っている。それを数字にしたいの」
ギュンターは腕を組んだ。
「勘じゃダメなのか」
「勘は共有できないわ」
シャルロッテは言った。
「あなたの勘は、あなただけのもの。でも数字にすれば、誰でも同じ精度で作業できる」
「……」
「あなたが引退したら、その技術はどうなる?」
ギュンターは黙った。
「数字にすれば、残せるのよ。次の世代に」
「……」
長い沈黙があった。
やがて、ギュンターが口を開いた。
「材料は何がいる」
◆
ガラス製造が始まった。
「材料は3つ。珪砂、ソーダ灰、石灰」
シャルロッテが説明した。
「けいしゃ?」
ギュンターが聞き返す。
「砂よ。配合比率は珪砂7、ソーダ灰2、石灰1」
「ヨハン、通訳して」
「ああ」
ヨハンが口を開いた。
「砂7、灰2、石灰1だ。これを混ぜて溶かす」
「それくらいわかる」
「1500度以上で溶かす必要がある」
「1500度?」
「鉄を溶かすくらいの熱さだ」
ギュンターは頷いた。それなら感覚でわかる。
坩堝に材料が入れられ、炉に火が焚かれた。
熱気が工房に満ちる。
エマは少し離れた場所から見守っていた。ヨハンとギュンターが師匠の指示を受けて動いている。
「……溶けてきた」
しばらくして、ギュンターが言った。坩堝の中で、砂が液体に変わっていく。
「泡が出なくなるまで待って」
シャルロッテの指示に従い、ギュンターは辛抱強く待った。
やがて、溶けたガラスを取り出し、吹き棹で成形する。ギュンターの手つきは熟練していた。
完成したガラスは、驚くほど透明だった。
「すげえ……本当に透明だ」
ヨハンがガラスを光に透かした。向こう側がくっきりと見える。
「きれいね。透明度がいい」
シャルロッテも満足そうだった。
◆
「次は温度計よ」
シャルロッテがガラス管の設計図を広げた。
「細いガラス管を作って」
ギュンターは図面を見て、作業に取りかかった。溶けたガラスを引き伸ばし、細い管を作っていく。
「ヨハン、水銀を用意して」
「おう」
ヨハンが銀色の液体を持ってきた。
「これをガラス管に入れる」
水銀がガラス管の底に溜まった。
「底を密閉して」
ギュンターがガラス管の底を熱で塞いだ。
「これで完成」
シャルロッテは温度計を手に取った。
「熱すると水銀が膨張して上がる。冷やすと下がる。これで温度が測れるわ」
エマは温度計を見つめた。
細いガラス管の中で、銀色の液体がかすかに動いている。
これで……温度がわかるのか。
「目盛りはどうする」
ギュンターが聞いた。
「水が凍る温度を0度、沸騰する温度を100度にするわ」
「なるほど……誰が測っても同じになるわけか」
「そういうこと。本当はフッ化水素で目盛りを刻みたいところだけど、当面は刃物で傷をつけて」
「ふっかすいそ?」
「ガラスを溶かす薬品よ。いずれ作るわ」
◆
作業が終わり、工房を片付けている時だった。
「嬢ちゃん」
ギュンターが声をかけた。
「何?」
「さっき言ってたこと……技術を残すって話」
「ええ」
「俺は、ずっと一人でやってきた。弟子も取らなかった」
「……」
「教えるのが面倒だったんじゃねえ。自分の技術を、誰かに理解してもらえると思わなかったんだ」
ギュンターは設計図を見た。
「だがこの図面は違う。作る側のことがわかってる」
「……」
「嬢ちゃんの仕事なら、やってやる」
シャルロッテの口元が、わずかに緩んだ。
「なら、もっとたくさん作ってもらうわ」
「あ?」
「あなたを製造部門長に任命する」
「製造部門長だと?」
「私の作りたいものを、全部作ってもらう。ガラス、金属、機械。これから作るものは山ほどあるわ」
ギュンターは腕を組んだ。
「……俺は職人だ。偉くなりたいわけじゃねえ」
「偉くなる必要はないわ。ただ、作ってほしいの」
「……」
「他の職人も集める。あなたには、その人たちをまとめてほしい」
ギュンターはしばらく黙っていた。
やがて、口を開いた。
「……条件がある」
「何?」
「設計は嬢ちゃんが描け。他の奴のは作らん」
シャルロッテの口元が、さらに緩んだ。
「いいわ。約束する」
「なら、やってやる」
ギュンターは不器用に頷いた。
◆
帰りの馬車の中。
「師匠、あのおっさん、結局デレたな」
ヨハンがにやにやしながら言った。
「デレた?」
「最初は『ガキに何がわかる』とか言ってたくせに」
「設計図を見れば、わかる人にはわかるのよ」
「まあ、確かに。あの図面、すげえ細かかったもんな」
シャルロッテは窓の外を見ながら言った。
「職人の本能よ。いいものを作りたいっていう。その本能に正直な人は、信用できるわ」
「俺とあのおっさん、うまくやれるかな」
「やれるわよ。あなたが理論を説明して、彼が作る。いいコンビになる」
「コンビって……」
ヨハンは少し複雑そうな顔をした。
エマは内心でため息をついた。
また変な人が仲間になった。
でも、今日見たギュンターの仕事は、確かに一流だった。
お嬢様には、人を見る目がある。
それは間違いない。




