第27話 お嬢様が詳しすぎる~気球~
十二月。冬が訪れていた。
窓の外には雪がちらついている。暖炉の火がパチパチと音を立てる。
収穫祭から数ヶ月が経っていた。
私は執務室で、お嬢様の後ろに控えていた。
「エマ、これを見て」
お嬢様が机の上に何かを広げた。
大きな羊皮紙。色褪せた線と文字が描かれている。
「地図ですか?」
「……これ、地図だと思う?」
お嬢様の声には、呆れが滲んでいた。
「え? 地図……ですよね?」
「絵よ。ただの絵」
「……?」
何が違うのだろう。私には普通の地図に見える。
「ここからここまで何キロメートルかわかる?」
「きろめーとる……ああ、新しい距離の単位ですね」
「そう。で、この地図でわかる?」
私は地図をじっと見つめた。
山がある。川がある。城下町がある。
でも——
「……わかりません」
「でしょう? 縮尺がないの」
「しゅくしゃく?」
「実際の距離と地図上の距離の比率よ。これがないと、地図として使えない」
お嬢様は指で地図をなぞった。
「それに、形もおかしい。この山、こんな形じゃないでしょう?」
「そ、そうなんですか? 私、山なんて……」
「あなた、3ヶ月かけて全国回ったでしょう? 見たはずよ」
そう言われて、記憶を辿る。
標準原器を配布して回った旅。確かに、いろんな山を見た。
「……確かに、地図と違う気がしました」
「絵描きが『だいたいこんな感じ』で描いたのよ。測量なんてしてない」
お嬢様は深いため息をついた。
五歳児のため息とは思えない重さだった。
「正確な地図がないと、何もできないの」
お嬢様は椅子に座り直した。足は相変わらず床に届いていない。
「何も……?」
「道路を引くにも、どこが最短かわからない」
「はあ……」
「税金を取るにも、領地の面積がわからない」
「なるほど……」
「軍を動かすにも、どれくらい時間がかかるかわからない」
「確かに……」
お嬢様の言葉は、いちいち正しかった。
「今までどうしてたと思う?」
「わかりません」
「勘よ。経験と勘」
「……」
「だから戦争に負けるのよ。自分の国のことさえ知らないんだから」
私は黙った。
そう言われると、返す言葉がない。
「正確な地図を作るわ」
お嬢様は宣言した。
「どうやって……?」
「三角測量よ」
「さんかく……?」
「二つの地点から、同じ目標を見る。その角度を測れば、距離がわかるの」
「……?」
お嬢様は紙を取り出し、図を描き始めた。
三角形。二つの点と、一つの頂点。
「三角形の一辺と二つの角がわかれば、残りの辺の長さがわかるでしょう?」
私は図をじっと見つめた。
三角形。角度。……ああ、なんとなくわかる気がする。
「……なんとなく、わかります」
「本当に?」
「はい。この角度がわかれば、こっちの辺の長さが計算できる……みたいな?」
「そうよ。正確にはもう少し複雑だけど、基本はそれ」
お嬢様は少し驚いたような顔をした。そしてすぐに、満足げに頷いた。
「まず基準となる線を正確に測る。これを『基線』と呼ぶわ」
「きせん……」
「そこから三角形を作って、どんどん広げていく」
「……」
「最終的には国全体の地図ができる」
「それは……すごいですね」
「すごいけど、時間がかかる。何年もね」
「だめじゃないですか」
「時間がかかっても必要なことなの。国策としてやるわよ」
年単位の計画がまた始まってしまった。
「でも、もっと早く概要を把握したい」
お嬢様は立ち上がり、窓の外を見た。
「どうやって……」
「空から見るの」
「空……?」
私は思わず窓の外を見上げた。
青い空。白い雲。鳥が飛んでいる。
「え、空を鳥のように飛ぶんですか? そんな馬鹿な」
「飛ぶのよ」
「え、マジですか?」
「マジよ」
お嬢様は真顔で答えた。
「気球よ」
「き、きゅう?」
聞いたことのない言葉だった。
「空気は温めると膨張する。膨張すると密度が下がる」
「みつど……?」
「同じ体積あたりの重さよ。温かい空気は、冷たい空気より軽いの」
「はあ……」
「水に木が浮くのと同じ原理。木は水より軽いから浮く」
「それはわかります」
「温かい空気は、冷たい空気の中で『浮く』の。軽いから」
「空気が……浮く?」
「そう。だから袋に温かい空気を入れれば、袋ごと浮く」
お嬢様は指を立てた。
「袋の中の空気が押しのけた外の空気——その重さが『浮力』になる」
「ふりょく……」
「浮力が袋と籠と人の重さより大きければ、空に昇るわ」
「……」
頭がついていかない。
よくわからないけど、木が水に浮くように、気球が空気に浮く——ということのようだ。
わかったような、わからないような。
「まあそうこうして浮いた気球に、人を乗せた籠をつけて、空から地上を見るという流れよ」
「そんなことが……」
「できるわ。やったことないけど」
「やったことないんですか!?」
「理屈は合ってるから大丈夫よ」
「大丈夫じゃないです!」
私は思わず声を荒げた。
空を飛ぶ? 人間が?
「最初は無人で試すわよ。いきなり人は乗せない」
「……」
少しだけ安心した。
でも——
「成功したら、あなたが乗りなさい」
「私ですか!?」
「上から見た景色をスケッチしてほしいの」
「私はメイドです!」
「知ってるわ。絵は描けるでしょう?」
「描けますけど! 空を飛ぶとか聞いてません!」
「代わりに私が乗ってもいいのだけれど」
お嬢様は肩をすくめた。
「私の画力、知ってるわよね?」
「……」
お嬢様の画力。
なんでもできるお嬢様の、数少ない弱点——それが画力だ。
以前、お嬢様が描いた設計図を見たことがある。
数字や文字は完璧だった。でも、絵の部分は——
何が描いてあるのかわからなかった。
「これは……何ですか?」と聞いたら、「馬車よ」と言われた。
どう見ても馬車には見えなかった。
いわゆる「画伯」だ。
「口惜しいけど私が気球に乗っても戦力外なのよ」
「……わかりました。私が乗ります」
「そう。助かるわ」
お嬢様は涼しい顔をしている。
私の敗北だった。
◆
数日後。
王城の会議室に、職人たちが集められた。
「測量器具を作らせるわ。角度を正確に測る道具よ」
お嬢様が言った。
「角度……ですか?」
職人の一人が首を傾げた。
「ええ。目盛りのついた円盤と、照準器を組み合わせるの」
「照準器?」
「遠くの目標を正確に狙う仕組みよ。細い筒に糸を張って……まあ、図面を渡すわ」
職人たちは困惑した顔をしている。
お嬢様の説明は、いつも私たちの理解を超えている。
「数学ができる者も集めて。角度を計算できないと意味がないから」
「数学……」
職人たちがざわめく。
「お嬢様、なぜそんなに詳しいんですか……?」
私は思わず口にした。
「本で読んだの」
「……」
絶対嘘だ。
五歳児がどんな本を読めばこんな知識が身につくのか。
「エマ、あなたは気球の実験を監督しなさい」
「私はメイドです!」
「それ何度目?」
「数えるのをやめました……」
お嬢様はくすりと笑った。
私はただ、ため息をついた。
◆
それから数週間。
気球の製作が進められた。
大きな布袋。麻布を何枚も縫い合わせたもの。
下には火を焚く装置。
籠——人が乗るための。
私は毎日、工房に通って進捗を確認した。
「これで本当に浮くんですかね……」
「シャルロッテ様がおっしゃるなら、浮くんでしょう」
職人たちは半信半疑だった。
私も半信半疑だった。
でも、お嬢様の言うことは——悔しいけど——だいたい正しい。
◆
そしてついに実験の日。
王城の庭に、気球が設置された。
大勢の人が見守っている。
お嬢様は腕を組んで、気球を見上げていた。
「火をつけなさい」
お嬢様の命令で、職人が火を焚いた。
熱い空気が、布袋の中に入っていく。
袋がゆっくりと膨らんでいく。
「おお……」
見守る人々から、声が漏れた。
袋がどんどん大きくなる。
そして——
ふわり、と。
気球が地面を離れた。
「浮いた……!」
「本当に浮いた……!」
歓声が上がった。
無人の籠が、ゆっくりと空へ昇っていく。
紐で繋いであるので、ある程度の高さで止まった。
でも、確かに——浮いている。
「成功ね」
お嬢様は満足げに頷いた。
私は空を見上げた。
あの籠に——私が乗るのだ。
「……あれに乗るんですか、私……」
「次はあなたの番よ」
「私はメイドです……」
涙が出そうだった。
お嬢様は、にっこりと微笑んだ。
その笑顔が、とても怖かった。




