第25話 停戦後への決意
ヴィルヘルム王が去っていく。
私はお嬢様の隣に立ち、その背中を見送っていた。
護衛もつけず、たった一人で馬を歩かせている。昨日まで二万の軍を率いていた王が、今は一人きりだ。
「……」
王が振り返った。
遠くから、こちらを見ている。その目に浮かぶもの——恐怖か、憎悪か、それとも……
王が何か呟いた。聞こえなかったが、唇の動きで読み取れた気がした。
……覚えていろ。
そう言ったように見えた。
三年後、また来る気なのだろうか。
王の姿が小さくなり、やがて見えなくなった。
秋の平原に、馬の蹄の音が消えていく。
私はお嬢様の横顔を見た。お嬢様は無表情のまま、王が去った方角を見つめていた。
「お嬢様」
「……行きましょう」
お嬢様は踵を返した。
「話がある」
◆
天幕の奥。
お嬢様は椅子に腰掛け、紅茶を飲んでいた。まるで何事もなかったかのように。
私は少し離れた場所に立ち、お嬢様の言葉を待っていた。
「お嬢様」
沈黙に耐えられず、私は口を開いた。
「なぜ解放したんですか」
「……」
「あのまま処刑すれば、ノルデンは崩壊したのでは」
王を失った国は混乱する。後継者争いが始まり、内乱に発展するかもしれない。帝国にとっては好都合のはずだ。
お嬢様は紅茶のカップを見つめていた。
「……本当の理由、聞きたい?」
「はい」
お嬢様は一度目を閉じ、そして開いた。
「今は外国に構っている暇がないの」
「……?」
「あの王を殺したら、ノルデンは混乱する」
お嬢様はカップを置いた。
「後継者争い、内乱、難民……その面倒を誰が見るの?」
「……」
「今の帝国にそんな余裕はないわ」
お嬢様は窓の外を見た。陣営の喧騒が、遠くに聞こえる。
「まずは国内を固める。技術を揃える。三年後、準備が整ったら……その時に決着をつける」
なるほど。そういうことか。
お嬢様は勝つために戦っているのではない。帝国を強くするために戦っている。
だから、今は不要な混乱を避けた。
「……でも、お嬢様」
私は一歩踏み出した。
「勝ったのに、どこか悔しそうです」
お嬢様の肩が、わずかに震えた。
「……わかる?」
その声は、いつもより小さかった。
「技術の準備が間に合わなかった」
お嬢様は自分の手を見つめた。小さな、白い手だった。
「だから私が直接手を下すしかなかった」
「……」
「本来なら、私が出る必要がない体制を作るべきだったのに」
お嬢様の声が、低くなった。
「今回は綱渡りだった。私一人に全てを賭けるなんて、愚策よ」
私はお嬢様の横顔を見ていた。
お嬢様は……怒っている。自分自身に。
技術や体制が揃っていれば、兵士たちだけで勝てた。お嬢様が危険を冒す必要はなかった。
その準備不足に、お嬢様は不甲斐なさを感じているのだ。
宮殿に戻ったのは、三日後のことだった。
お嬢様は真っ先に研究室に向かった。私もついていく。
「ヨハン」
扉を開けると、若い男が振り返った。ヨハン。お嬢様の弟子であり、科学大臣だ。
「師匠……! 無事で……」
「ええ」
お嬢様は部屋の中央に立った。
「今日、私たちは勝ったけど、綱渡りだった」
「……はい」
「技術が足りなかったから、私が出るしかなかった」
お嬢様の目が、鋭くなった。
「三年で全部揃える。対外政策に必要な技術を、全部」
ヨハンの目が見開かれた。
「三年……」
「二度と私自身が手を汚さなくていいように」
お嬢様の声は静かだった。だが、その奥に燃えるものがあった。
ヨハンは一度息を吸い、そして吐いた。
「……わかった、師匠」
その声には、覚悟があった。
「俺も……全力でやる」
お嬢様は小さく頷いた。
研究室を出て、廊下を歩きながら、お嬢様は呟いた。
「そのためには腕のいい職人が必要ね……」
「職人、ですか」
「精密な部品を作れる者。図面通りに、寸分の狂いなく」
お嬢様は足を止めた。
「どこかにいないかしら」
「……お探しになりますか」
「ええ。見つけてちょうだい」
私は頷いた。
腕のいい職人。帝国のどこかに、必ずいるはずだ。
お嬢様の技術を形にできる者が。
◆
こうして、第一次ノルデン戦争は終結した。
三年間の停戦。賠償金も、領土割譲も、何も求めなかった。
外から見れば、帝国は寛大な勝者に見えるだろう。
だが、本当の理由は違う。
お嬢様は三年間で帝国を変えるつもりだ。
技術を揃える。二度と自分が一人で戦う必要がないように。
私は窓の外を見た。夕日が、宮殿の庭を赤く染めている。
三年後、再び戦いが始まる時。
お嬢様は、もう一人で戦う必要がなくなっているだろう。
私たちが、お嬢様の手となり足となる。
その日のために——
「私も成長しなければ」
そう呟いて、私は執務室へと向かった。
お嬢様の傍らで、できることを一つずつ。
それが、メイドである私にできる唯一のことだから。




