第24話 帰還
眠れない夜だった。
昨日の夕方、斥候から報告が入った。摂政殿下が敵に捕らえられた、と。
帝国陣営は大騒ぎになった。将軍たちは慌てふためき、救出作戦だの、人質交換だのと議論を始めた。
でも、私は知っている。
お嬢様は出陣前、私とヴェルナー将軍に告げていた。
「次の朝には、必ず戻るわ。安心なさい」
だから私はここで待つ。信じて、待つ。
天幕で横になっても目が冴えて、結局ずっと門の近くをうろうろしていた。兵士たちに怪訝な目で見られたけれど、気にしていられなかった。
そして今、夜明け前。
私は陣営の門のそばに立ち、東の空をじっと見つめていた。
空が白み始める。東の稜線がぼんやりと明るくなり、星が一つ、また一つと消えていく。
……まだ、来ない。
お嬢様。
朝日が顔を出した瞬間だった。
「……あれは……」
遠くに人影が見えた。
小さな影。その後ろを、ふらふらと歩く大きな影。
私の心臓が跳ねた。
「お嬢様……!」
見張りの兵士が槍を構える。
「誰だ!」
「私よ」
その声。聞き間違えるはずがない。
見張りが目を見開いた。
「せ、摂政殿下! ご無事で……って、後ろの……」
お嬢様は振り返りもせずに言った。
「ああ、これ?ノルデン王よ。お土産に、と思って。」
「お土産!?」
見張りの叫びを無視して、私は駆け出していた。
近づくにつれて、後ろの男の様子がはっきりと見えてきた。ノルデン王ヴィルヘルム三世。屈強な体躯を持つ壮年の王が、まるで抜け殻のように歩いている。足は震え、目は虚ろで、どこを見ているのかもわからない。
何があったのだろう。
いや、聞くまでもない。お嬢様が何かしたのだ。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
私は深く頭を下げた。
「ただいま、エマ。待っていてくれたのね」
「はい。……予定通りですね」
「ええ。少し面倒だったけど」
その会話を聞いて、ヴィルヘルム王の体がびくりと震えた。
その目は、もう何も映していないようだった。
本陣に着くと、将軍たちが飛び出してきた。
「摂政殿下! ご無事で……」
ヴェルナー将軍が叫び、そして固まった。
「…………え?」
「なぜノルデン王がここに!?」
お嬢様は涼しい顔で答えた。
「連れてきたの。捕虜よ」
「ほ、捕虜……? 敵陣から……お一人で……?」
将軍はヴィルヘルム王の顔を見て、言葉を失った。あの虚ろな目。放心した表情。昨日まで二万の軍を率いていた王とは思えない姿だった。
兵士たちも呆然としている。誰も状況を理解できていない。ざわめきが広がり、やがて陣営全体が騒然となった。
その中で、私だけが静かに微笑んでいた。
目に涙が浮かんでいた。
お嬢様……本当に、戻ってきてくれた。
お嬢様は言っていた——
◆
それは、出陣の三日前のことだった。
宮殿の執務室。お嬢様は紅茶を飲みながら、何でもないことのように言った。
「これから私は敵に捕まる」
「……はい?」
私は自分の耳を疑った。
「わざとよ」
「わ、わざと……?」
お嬢様はカップをソーサーに置いた。
「ノルデン軍は二万。こちらは八千。正面からぶつかれば負ける」
「……はい」
「でも、敵の王さえ討てば終わる。兵が何万いようと、指揮官を失えば軍は動けない」
それは正しい。けれど——
「でも、お嬢様。ノルデン王は本陣の奥深くにいるはずです。二万の兵に守られて。どうやって近づくんですか」
お嬢様は薄く微笑んだ。
「簡単よ。捕虜として連れていかれれば、敵陣の中に入れる」
私は言葉を失った。
「お嬢様が……わざと捕まる、と?」
「ええ。私が捕まれば、ノルデンは勝ったと思う」
お嬢様は窓の外を見ながら続けた。
「油断する。帝国の弱みを捕らえたのだもの。宴会でも開くでしょうね」
「……」
「酔いつぶれた頃に動く。見張りも緩んでいるはず」
お嬢様は振り返り、私の目を見つめた。
「次の朝には、必ず戻るわ。安心なさい」
あの時の、お嬢様の目を覚えている。
冷たい青。氷のような光。
その奥に、確かな自信があった。
◆
私は目を閉じ、そして開いた。
全部、お嬢様の計画通りだった。
捕まったのも、脱出するのも、王を連れてくるのも。
最初から、全部。
ヴィルヘルム王は呆然と立ち尽くしている。将軍たちの騒ぎも、兵士たちの視線も、何も目に入っていないようだった。
王の拳が震えていた。怒りなのか、恐怖なのか、それすらもわからない震え方だった。
◆
お嬢様は使者を送った。
「ノルデン軍に告ぐ。貴国の王は我が軍の手にある。直ちに撤退せよ」
ノルデンの将軍たちがやってきた。王の姿を確認するために。
「へ、陛下……!」
将軍の一人が声を上げた。それは、困惑に満ちた声だった。
昨夜まで勝利を祝っていたであろう王。その王が今、虚ろな目で立っている。
「陛下、ご無事ですか……? 一晩で、何があったのですか……?」
ヴィルヘルム王は答えなかった。
「陛下! 我々にはまだ二万の兵が……!」
「撤退しろ」
王の声が震えていた。
「し、しかし……!」
「命令だ」
将軍は王の目を見た。そして、それ以上何も言えなくなった。
その目には、何も映っていなかった。
ノルデン軍は撤退を始めた。二万の軍勢が、戦わずして退いていく。兵士たちは王の変貌に困惑しながらも、従うしかなかった。
私はその光景を、お嬢様の隣で見ていた。
本陣の天幕。
簡素な机を挟んで、お嬢様とヴィルヘルム王が向かい合っていた。私は少し離れた場所に控えている。
「条件は一つ。三年間の停戦」
お嬢様の声は淡々としていた。
沈黙が落ちた。
ヴィルヘルム王は続きを待っているようだった。当然だろう。賠償金の額、割譲する領土、人質の要求——敗者に突きつける条件は山ほどあるはずだ。
だが、お嬢様は何も言わない。
紅茶を一口含み、カップを置く。それだけだった。
「……」
「……」
沈黙が続く。
私はヴィルヘルム王の顔を見ていた。眉が寄り、困惑が浮かんでいく。
「……それだけか?」
かすれた声だった。
「ええ」
「賠償金は。領土は。何も要求しないと?」
「いらないわ」
王の目が見開かれた。
「……何を企んでいる」
その目に、恐怖が浮かんでいるのが見えた。
お嬢様は微かに口の端を上げた。
「さあ。いずれわかるんじゃないかしら?」
「……」
「停戦が終わったらまた来なさい。決着をつけましょう」
王の顔が青ざめた。
唇が震えている。何か言おうとして、言葉が出てこないようだった。
その顔を見ていて、私には王の心が読めた気がした。
——二度とこの化け物とは関わりたくない。
きっと、そう思っているのだろう。
「では、帰りなさい。無条件で解放してあげる。送ってあげなさい」
お嬢様は立ち上がった。
ヴィルヘルム王は何も言わなかった。何も言えなかった。
ゆっくりと立ち上がり、背を向け、天幕を出ていく。
その背中を、私は黙って見送った。
ヴィルヘルム王が去った後、お嬢様は私を見た。
「エマ、二人で話があるわ」
「……はい、お嬢様」
私は頷いた。
陣営の外では、まだざわめきが続いている。摂政殿下が敵の王を連れ帰った。その噂はもう全軍に広まっているだろう。
でも、誰も本当のことは知らない。
お嬢様がわざと捕まったこと。最初から全て計画だったこと。
知っているのは、私だけだ。
お嬢様の目には、いつもの冷たい光があった。
でも、その奥に何かがあるような気がした。いつもとは違う何かが。
三年間の停戦。賠償金も領土も求めない。
あれほど圧倒的な勝利を収めたのに、お嬢様は何も奪わなかった。
なぜ?
私はお嬢様の後について、天幕の奥へと歩いていった。




