第23話 脱出~ヴィルヘルム三世視点~
ふと、目が覚めた。
酔いが残っている。頭が重い。勝利の宴で飲みすぎたか。
何か、違和感がある。
首筋に、冷たいものが当たっていた。
「ひっ……!!」
目を見開いた。
暗闘の中、小さな影が俺を見下ろしている。
プラチナブロンドの髪。氷のような淡い青の瞳。
あの捕虜だ。帝国の摂政。6歳の小娘。
その手には、ナイフが握られていた。
「おはよう」
少女が言った。
昼間とは、まるで違う声だった。俯いて怯えていたはずの小娘が、冷たい目で俺を見下ろしている。
「貴様……! どうやって……! 見張りは……!」
「寝てるわ。永遠にではないけど」
淡々とした声。まるで天気の話でもするように。
「確かに縛ったはずだ! どうやって抜け出した!?」
「捕まる時にちょっと工夫するのと、関節を外せばぬるっと抜けるのよ」
少女は手首をコキコキと鳴らしながら、俺を見下ろした。
「知らなかった?」
その口調には、明らかな嘲りが混じっていた。
「そのナイフは……!」
「スカートの中。身体検査が甘かったわね」
少女は小さく肩をすくめた。
「まあ、ナイフなんてない方が強いんだけど、まあ演出ね」
「……は?」
「なんでもないわ。気にしないで」
意味がわからなかった。この状況が理解できない。
「お、おい……! 誰か……!」
「呼んでいいわよ」
少女は微笑んだ。6歳の幼い顔に、似つかわしくない笑み。
「好きなだけ呼びなさい」
「誰かある!! 侵入者だ!!」
俺は叫んだ。
すぐに足音が聞こえてきた。天幕の入り口が開き、兵士たちが雪崩れ込んでくる。10人以上はいる。
「陛下! 何事……って、あの捕虜!?」
「取り押さえろ!」
これで終わりだ。
6歳の小娘が、10人の兵士に勝てるはずがない。ナイフ1本で何ができる。
少女が動いた。
一人目の兵士が、膝から崩れ落ちた。何が起きたのか分からなかった。少女の足が一瞬動いたように見えた。それだけだ。
二人目。喉を押さえてうずくまる。声が出ないようだ。
三人目。剣を抜こうとした腕を取られ、次の瞬間には床に転がっていた。
「あはははは!」
少女が笑った。
「弱い! 弱すぎるわ、あなたたち!」
6歳の幼い声が、天幕の中に響き渡る。
「な……」
少女は踊っているようだった。
6歳の小さな体が、大人の兵士たちの間をすり抜けていく。誰も触れられない。誰も止められない。
四人目。五人目。六人目。
次々と兵士が倒れていく。
「くそっ! 囲め! 囲め!」
兵士たちが叫ぶ。だが、囲もうとした時にはもう遅い。少女はその輪の中心にはいない。
「遅い遅い遅い!」
笑い声が響く。狂気じみた、幼い笑い声が。
七人目。八人目。
剣が振り下ろされる。少女はそれを紙一重でかわし、兵士の懐に入り込む。次の瞬間、兵士は床に転がっている。
「ほら、次は? もっと来なさいよ!」
九人目。十人目。
天幕の中には、呻き声だけが響いていた。
俺は呆然と立ち尽くしていた。
……なんだ、これは。
ふと、気づいた。
誰も死んでいない。
床に転がった兵士たちは、みな呻いている。苦しんでいる。だが、息はある。血も流れていない。
「次は?」
少女が振り返った。息一つ乱れていない。
天幕の外から、さらに足音が聞こえてきた。騒ぎを聞きつけた兵士たちが集まってくる。
「陛下! ご無事ですか!」
「何があった!」
兵士たちが次々と天幕に飛び込んでくる。
「もっとよ! もっと来なさい!」
少女が両手を広げて叫んだ。まるで歓迎するように。
少女は再び動いた。
15人。20人。
「あはは! 全然足りないわ!」
全員が床に転がった。生きたまま。
「な……なんだ……お前は……」
声が震えていた。
「あの怯えていた小娘は……演技だったのか……!? お前は誰だ……!?」
少女が俺を見た。氷のような瞳。
「皇帝カールの許婚、シャルロッテよ」
◆
天幕の外から、さらに多くの足音が聞こえてきた。今度は数が違う。50人、いや100人はいるだろう。
「いい加減、面倒ね。大して強いのも来る気配ないし」
少女はため息をついた。そして、俺の腰を掴んだ。
「何を……」
言い終わる前だった。
跳んだ。
視界が回転した。次の瞬間、俺は天幕の屋根の上にいた。
少女に抱えられたまま。
「静かにして。落とすわよ」
少女が言った。俺を片手で抱えながら、まるで重さを感じていないように。
「どこだ! どこに消えた!」
「陛下ーー!!」
下で兵士たちが騒いでいる。だが、誰も上を見ない。まさか屋根の上とは思わないのだろう。
少女が走り出した。
天幕から天幕へ。屋根を蹴って、跳ぶ。俺を抱えたまま、軽々と。
「……」
声が出なかった。
俺は王だ。ノルデンの王だ。
30年、父の言葉を胸に生きてきた。5年前の敗北を糧にした。1年かけて準備を整えた。100年の屈辱を晴らすために。
それが今、6歳の少女に抱えられている。
天幕の屋根を跳んでいる。
荷物のように。
「哀れな小娘」と思っていた。「捕まってみれば、ただのガキ」と笑った。
それが今、俺を荷物のように抱えて跳んでいる。
屈辱とか、怒りとか、そういう次元ではなかった。
何が起きているのか、わからなかった。
どれくらい跳んだのか。
気づけば、陣営を抜け出していた。
少女は森の中を駆け抜け、丘を越え、さらに走り続けた。俺を抱えたまま。一度も休むことなく。
空が白み始めた頃、少女は足を止めた。
「着いたわ」
前方に、陣営が見える。帝国軍の旗が翻っている。
少女は俺を地面に下ろした。
「……」
俺は何も言えなかった。
足が震えている。膝が笑っている。
6歳の少女に抱えられて、敵陣から味方の陣営まで運ばれた。
その事実が、頭の中でぐるぐると回っていた。
「さて」
少女が俺を見下ろした。
「交渉を始めましょうか」
冷たい笑みが、朝日に照らされていた。




