第21話 好機~ヴィルヘルム三世視点~
俺の名はヴィルヘルム3世。ノルデン王国の王だ。
父の背中を、今も覚えている。
幼い頃、父王に連れられて城の最上階に登った。北の大地を見渡せるその場所で、父は静かに語った。
「ヴィルヘルム。我が国はかつて、帝国に膝を屈した」
父の声には、押し殺した怒りがあった。
「100年前、我が祖先は帝国に敗れた」
父は拳を握りしめた。
「莫大な賠償金を取られた。国庫は空になり、民は飢えた。それでも足りぬと、帝国は我が国の宝物庫から財宝を根こそぎ奪っていった」
父の声が震えている。俺は怖くなって、父の服の裾を握った。
「王族の女たちは人質として連れ去られた。俺の曾祖母も、その一人だ」
知らなかった。そんなことがあったなんて。
「極めつけは、降伏の儀式だ。我が祖先は、帝国の皇帝の前で地に額をつけさせられた。王が、だ。それを帝国の貴族どもは指差して笑った。『北の蛮族の王は、犬のように地を這うのがお似合いだ』とな」
父の目に、涙が光っていた。怒りの涙だった。
「その屈辱を、忘れるな」
幼い俺には、すべてを理解することはできなかった。
だが、父の横顔に刻まれた苦しみだけは、はっきりと覚えている。
「だが、いずれ好機が来る。その時を待て」
「はい、父上」
俺は小さく頷いた。
父上、見ていてください。
あれから30年。俺はノルデン王国の王となった。
即位した日、父の墓前で誓った。「父上、見ていてください。私の代で、必ず」と。
それから10年、俺は国を強くすることに全力を注いだ。軍備を増強し、国内を改革し、いつしか「名君」と呼ばれるようになった。
だが、帝国には手を出せなかった。5年前に一度、国境で戦を仕掛けたが、結果は惨敗。帝国軍は強く、多くの兵と将軍を失った。
3年前には大飢饉が起きた。俺は軍備を削ってでも民を救う道を選び、自ら城下で粥を配った。帝国への侵攻はさらに遠のいた。
それでも俺は待ち続けた。父の言葉を信じて。いつか好機が来ると。
◆
その報せは、突然やってきた。
「陛下! 帝国で大事件です!」
側近が血相を変えて駆け込んできた。俺は書類から顔を上げた。
「何事だ」
「王族が全滅しました。食中毒だそうです」
「……なんだと?」
俺は耳を疑った。帝国の王族が、全滅?
「生き残ったのは2歳の幼帝と、その許婚のみ。許婚が実権を握っているとか。しかもその許婚はまだ5歳の幼子との情報も」
「…………ふ」
笑いが込み上げてきた。
「ははははは!!」
止められなかった。30年待ち続けた。5年前に敗北を味わった。3年前に民のために軍備を削った。
そのすべてが、今この瞬間のためにあったのだと悟った。
「来たぞ! ついに来た!!」
俺は立ち上がり、両手を広げた。
「父上! 好機が来ました!!」
その日のうちに、軍議が開かれた。
「陛下、すぐにでも攻め込みましょう!」
「今なら帝国は混乱の最中です!」
「この機を逃せば、二度と——」
将軍たちが口々に叫ぶ。俺の心臓も高鳴っていた。今すぐにでも馬に跨り、国境を越えたい。30年待った好機が、目の前にある。
だが、俺は目を閉じた。
5年前の光景が蘇る。勝てると思った。数で勝っていた。士気も高かった。それでも負けた。帝国軍の練度は想像以上で、こちらが二人倒される間に敵は一人しか倒れなかった。
優秀な将軍が何人も死んだ。俺を庇って死んだ者もいた。
あの夜、一人で杯を傾けながら誓ったのだ。次こそは、確実に勝てる時を待つと。
「……いや、待て」
俺は静かに言った。
「好機とはいえ、帝国は強い。焦れば5年前の二の舞だ」
将軍たちがざわめく。だが、俺は構わなかった。
「万全を期す。兵を集め、物資を蓄え、敵の動向を見極める。それからだ」
それから1年をかけて、俺は慎重に準備を進めた。
数ヶ月後、側近が報告してきた。
「陛下、帝国では5歳の摂政が政務を執っているとか」
「5歳が政務? 馬鹿な。傀儡だろう。真の権力者が誰か見極めろ」
当然だ。5歳の子供に何ができる。背後に誰かいるはずだ。大臣か、将軍か、あるいは別の貴族か。そいつを見極めねばならない。
だが、数ヶ月が過ぎても、「真の権力者」は見つからなかった。
「陛下、不可解なことに……摂政殿下が、本当に政務を執っているようです」
「何を馬鹿な。5歳だぞ? 文字が読めるかも怪しい歳だ」
「はい。ですが、複数の間者から同じ報告が……」
俺は苛立った。間者どもは何を見ているのだ。子供が玉座に座っているだけで、実権は別の誰かが握っているに決まっている。
「調べ直せ。必ず誰かいるはずだ」
さらに数ヶ月が過ぎた。
「陛下……帝国が安定し始めています」
側近の声が困惑に満ちていた。
「道路整備、税制改革、領地経営の効率化……間者たちの報告によれば、すべて摂政殿下の指示だそうです。民の支持も集まっているとか」
「……ありえん」
5歳のガキが道路整備? 税制改革? そんな馬鹿な話があるか。
だが、間者は一人ではない。複数の、互いに面識のない者たちが、同じことを報告している。全員が嘘をついているとは考えにくい。
俺は頭を抱えた。
認めたくなかった。5歳の子供が、俺よりも上手く国を治めているなど。俺は10年かけて「名君」と呼ばれるようになった。それを5歳のガキが、わずか数ヶ月で?
ありえない。常識で考えればありえない。
……ありえんのだ。
俺は首を振った。誰かが裏にいる。誰かは分からんが、5歳の幼子を傀儡にして、巧みに帝国を操っている者がいるに違いない。
だが、それが誰であろうと関係ない。
俺は拳を握りしめた。
「これ以上、奴らに時間を与えるわけにはいかん」
2万の兵を召集し、物資を調達し、兵站を確保した。これ以上は待てない。
◆
286年、秋。
俺は国境付近の軍営に立っていた。目の前には2万の軍勢が整列している。
傍らの将軍に報告を求める。
「帝国北部の守備は8千程度との報告です」
「2万対8千。勝負にならんな」
俺は馬上から軍勢を見渡した。秋の陽光が、無数の槍先を輝かせている。
「冬前に決着をつけるぞ!」
「御意!」
将軍たちが一斉に頭を下げた。
俺は空を見上げた。澄み切った秋空が、どこまでも広がっている。
「父上、見ていてください」
声は風に溶けていく。
「祖先の屈辱、今こそ晴らす時だ」
号令と共に、2万の軍勢が動き出した。
軍旗が秋の陽光を受けて翻る。地響きのような行軍の足音が、大地を揺らす。
俺は馬上から振り返らなかった。前だけを見つめていた。
その視線の先には——まだ見ぬ「5歳のガキ」が待っている。
勝利を確信していた。
30年待った。5年前の敗北を糧にした。1年かけて万全の準備を整えた。
負けるはずがない。
俺はそう信じていた。




