第16話 【科学回】世界は粒でできている~ヨハン視点~
※作者の趣味で科学蘊蓄が延々と続きます。興味ない方は遠慮なく飛ばしてください。
馬車が王宮の門をくぐった。
俺がこんな立派なところに入れるとはな。
窓の外を見ながら思った。壁には絵画が飾られ、床は磨き上げられた大理石だ。鉱山の小屋とは何もかもが違う。
「こちらへどうぞ」
馬車を降りると、エマが案内してくれた。
「おう」
執務室に入ると、師匠が待っていた。窓際の椅子に座り、こちらを見ている。6歳だというが、その目はどう見ても子供のそれではない。
「座りなさい」
「おう、師匠」
用意された椅子に腰を下ろした。机の上には黒板が置かれ、白墨がいくつか転がっている。
「さっきの続きよ」
「待ってました!」
思わず身を乗り出す。馬車の中で聞いた話の続きだ。原子。分子。並び方で性質が変わる。もっと知りたい。もっと教えてほしい。
「まず、万物の基礎から」
師匠が立ち上がり、黒板の前に立った。
「ヨハン、1メートルってわかる?」
「ああ、だいたいこれくらいだろ」
俺は両手を広げた。
「そう。じゃあ、その100分の1は?」
「100分の1……」
「センチメートルよ。指の太さくらい」
「ああ、なるほど」
「その10分の1は?」
「えーと……」
「ミリメートル。針の太さくらいね」
師匠が黒板に書いていく。1m、1cm、1mm。
「じゃあ、その1000分の1は?」
「……考えたことねえな」
「マイクロメートルというの。髪の毛の太さくらい」
「へえ……」
「さらにその1000分の1がナノメートル。その1000分の1がピコメートル。その1000分の1がフェムトメートル」
師匠が次々と書き連ねていく。数字がどんどん小さくなる。
「ちょっと待ってくれ、頭がついていかねえ」
「いいのよ、感覚だけ掴んで」
師匠は白墨を一本手に取った。
「じゃあ質問。この白墨を半分に割る。さらにその半分に割る。それを繰り返していったら、どうなると思う?」
「どうなる……って、どんどん小さくなるだろ」
「無限に続けられると思う?」
「……できるんじゃねえの?」
「できないの」
師匠は断言した。
「どこかで、これ以上割れないっていう限界がくる。その最小の単位が——まあ、本当はもう少し複雑なんだけど、一旦『原子』と考えてちょうだい」
「原子……」
「原子のサイズは、約1オングストローム。1メートルの100億分の1よ」
「100億分の1!?」
想像もつかない小ささだ。
「この世界の全ては、その小さな粒でできている」
師匠の声が響く。
「石も、水も、空気も、あなたの体も。全て原子の集まりよ」
「……すげえ」
言葉が漏れた。
この世界の全てが、目に見えないほど小さな粒でできている。石も、水も、空気も。俺自身も。
「原子には種類がある。100種類以上」
「100種類……」
「それぞれ性質が違う。鉄の原子、金の原子、酸素の原子……」
師匠が黒板に元素の名前を書き連ねていく。
「俺が集めてた石も、全部原子でできてるのか」
「そうよ」
10年かけて集めた石たち。あれは全て、100億分の1メートルの粒の集まりだった。
なんでそんな大事なことを、誰も教えてくれなかったんだ。
◆
「原子同士がくっつくと分子になる——馬車の中で言ったわね」
「ああ、覚えてる」
「例えば水」
師匠が黒板に新しい図を描いた。二つの小さな丸と、一つの大きな丸が線で繋がれている。
「水素の原子2つと、酸素の原子1つがくっついてできる。これが水の分子」
「へえ……」
「同じ原子でも、くっつき方が違うと別の物になる」
師匠が白墨を持ち替えた。
「炭素の原子だけでも、並び方で石墨やダイヤモンドになる」
「!」
思わず立ち上がった。
「だから同じ成分でも硬さが違うのか!」
「そう。覚えてたのね」
師匠が黒板に図を描き始めた。
「石墨——正確にはグラファイトね——は、こう」
六角形が連なった平面の図。
「炭素が平面上に広がっている。そして、その平面が何層も積み重なっているの」
「積み重なってる……」
「だから剥がれやすい。層と層の間は弱い力でくっついているだけだから」
なるほど、あの黒い石が簡単に崩れるのはそういうことか。
「でも師匠、剥がれやすいとはいえ、繋がってはいるんだよな?」
「ええ」
「ってことは、平面同士にも何かしらの力が働いてるってことだろ?」
師匠の目が少し見開かれた。
「いいところに目をつけたわね」
「へへ」
「それが『ファンデルワールス力』と呼ばれる力よ」
「ふぁんでる……?」
「共有結合や金属結合——後で教えるけど——に比べると、とても弱い力よ。だから層同士は剥がれやすい。でも確かに存在するから、完全にバラバラにはならない」
「なるほど……」
「一方でダイヤモンドは、こう」
師匠が別の図を描いた。立体的な格子構造。
「四方八方に強力に繋がっている。だから非常に硬いわ」
「すげえ……同じ炭素なのに、並び方だけでこんなに違うのか」
「この硬さのことをモース硬度というんだけど……まあ、忘れて構わないわ」
「いや、覚えとく。もーすこうど」
師匠が少しだけ目を細めた。笑っているのかもしれない。
◆
「原子のくっつき方には種類がある」
講義は続く。
「大きく分けて3つ」
師匠が黒板に「1」と書いた。
「1つ目は『共有結合』。手を繋ぐように、お互いの……小さな何かを共有してくっつく」
「小さな何か?」
「今は気にしなくていいわ。とにかく、とても強い結合よ。ダイヤモンドがこれ」
「だから硬いのか……」
あの透明で硬い石。あれは原子同士が手を繋いでいるから、あんなに硬いのか。
師匠が「2」と書いた。
「2つ目は『イオン結合』。片方がもう片方に何かを渡してくっつく」
「何かを渡す……」
「塩がこれ」
「塩……」
「水に溶けやすいわ」
確かに、塩は水に溶ける。石は溶けない。その違いは、くっつき方の違いだったのか。
師匠が「3」と書いた。
「3つ目は『金属結合』。金属特有のくっつき方」
「金属特有?」
「叩くと伸びるのはこれのおかげ」
頭に、鍛冶場の光景が浮かんだ。真っ赤に熱した鉄を、職人が槌で叩く。叩くたびに鉄は伸び、形を変えていく。
「鍛冶で鉄を叩くと伸びるのは……」
「金属結合の性質よ」
「すげえ……!」
全部繋がっていく。石の硬さも、塩が溶けることも、鉄が伸びることも。全部、原子のくっつき方で説明できる。
◆
「……」
俺は黙り込んでいた。
「どうしたの?」
師匠が首を傾げる。
「師匠……」
言葉を探す。この胸の中にある感動を、どう伝えればいいのかわからない。
「俺、今まで石を集めてただけだった」
「……」
「きれいだな、変わった形だな、って。それだけだった」
10年間、周りから変人と呼ばれながら石を集め続けた。でもそれは、ただ集めていただけだ。なぜ石が硬いのか、なぜ色が違うのか、何も知らなかった。
「でも今は違う」
俺は自分の手を見た。この手も、原子でできている。
「石の中に、原子が見える。結合が見える」
師匠を見上げる。
「世界の見え方が変わった」
師匠は何も言わなかった。しばらくして、小さく息を吐いた。
「……良い生徒ね」
「へへ、褒められた」
「調子に乗らないの。まだ基礎の基礎よ」
「おう! もっと教えてくれ!」




