第12話 お嬢様が詳しすぎる~複式簿記~(後編)
秋が深まっていた。
教科書の木版刷りが完了してから、数日が経った。窓から見える木々は紅葉し、落ち葉が風に舞っている。
王城の会議室。
『エマ式簿記入門』——私の名前がついた教科書が、山のように積まれている。
見るたびに胃が痛くなる。
「え、えー、本日より複式簿記の講習を始めます……」
私は大臣たちの前に立っていた。
なぜ。
なぜ私がここに立っているのか。
「メイド風情が我々に講義だと?」
大臣の一人が、露骨に眉をひそめた。
私だってそう思う。
「シャルロッテ様のご命令です」
私がそう言うと、大臣たちは黙った。
シャルロッテ様の名前を出すと、みんな黙る。便利だけど、なんか複雑だ。
部屋の隅で、お嬢様が紅茶を飲んでいる。足をぶらぶらさせながら、こちらを見ていた。
「何か問題でも?」
お嬢様が言った。
「い、いえ……」
大臣たちは目を逸らした。
お嬢様の冷たい視線に、誰も逆らえない。
「で、では始めます……」
◆
「全ての取引は、二つの勘定に記録します」
私は黒板に図を描いた。
「左側を借方、右側を貸方といいます」
「かりかた? かしかた?」
大臣の一人が首を傾げた。
「は、はい。例えば金貨100枚で物資を購入した場合……」
私は図を指した。
「借方に『物資』、貸方に『現金』と記入します」
大臣たちが困惑した顔をしている。
「こうすることで、必ず左右の合計が一致します」
「一致しないとどうなる?」
別の大臣が尋ねた。
「……どこかに誤りがある、ということです」
「誤り……」
「もしくは、不正です」
会議室がざわついた。
何人かの大臣の顔色が変わった。あ、心当たりがある人たちだ。
部屋の隅で、お嬢様がにっこりと笑っている。
……怖い。お嬢様も、この状況も。
◆
講習は数週間続いた。
毎日が地獄だった。
「エマとやら、もう一度説明しろ」
「は、はい。借方は左側で……」
「だからなぜ左なのだ!」
「それは……そういう決まりで……」
私だって知らない。お嬢様に教わった通りにやっているだけだ。
「メイドに教わるなど屈辱だ」
「ですから、シャルロッテ様のご命令で……」
何度同じ説明をしただろう。
大臣たちは、最初は露骨に私を見下していた。メイド風情が、と。
でも、少しずつ変わっていった。
「……なるほど、こう書けば確かに整合性が取れるな」
「エマ殿、この場合はどちらに記入すれば?」
エマ殿。
いつの間にか、そう呼ばれるようになっていた。
最初は「メイド風情」と言っていた人たちが、今は「エマ殿」。
出世……したのだろうか。
いや、違う。私はメイドなのに。
◆
講習の最終日。
「皆さん、覚えが早くて助かります」
「そりゃそうでしょう。覚えないと困るもの」
お嬢様が言った。
「え?」
「次は、過去の帳簿を複式で整理し直しなさい」
「過去の……?」
「5年分くらいでいいわ」
「5年分!?」
「大臣たちにやらせて。いい実習になるでしょう?」
お嬢様は平然と言った。
5年分の帳簿を、複式で整理し直す。
とんでもない作業量だ。
「……わかりました」
◆
さらに数週間後。
会議室が騒然としていた。
「こ、これは……」
「数字が……合わない……」
「どこがですか?」
私は大臣の一人に尋ねた。
「3年前の鉱山収入が……記録より実際の入金が少ない……」
「……」
「こっちも合わない! 税収の記録と実際の金額が……」
「軍事費も……支出記録と実際の購入量が一致しない……」
次から次へと、声が上がった。
私は黙ってそれを見ていた。
これは——横流しの証拠が、次々と出てきている。
「ほら、なんだか楽しくなってきたでしょう?」
ニコニコと微笑むお嬢様に、貴族たちは俯くばかりだった。
◆
会議が終わった後。
私はお嬢様の言いつけで、書類を届けに廊下を歩いていた。
すると、角の向こうから声が聞こえてきた。
「まずいぞ……このままでは我々の不正が……」
私は足を止めた。
「あの小娘……いや、シャルロッテ様を何とかできないか」
「馬鹿を言うな。王族の死に暗殺の疑いが残る今だぞ。我々が動けば疑われる」
「だが、このままでは……」
「……待つしかない。今は」
「3年間の減税を約束された。その間は大人しくしているしかあるまい」
「3年後には……」
「それまでに、証拠を隠滅するか、あるいは……」
貴族たちは、重い足取りで去っていった。
私は壁に背をつけたまま、息を殺していた。
……お嬢様に報告しないと。
◆
その夜。
執務室で、私はお嬢様に報告した。
「お嬢様、帳簿の精査で多くの不正が見つかりました」
「知ってるわ」
「それと……貴族たちが密談しているのを聞いてしまいました」
私は廊下で聞いた内容を伝えた。
お嬢様は表情を変えなかった。
「……最初からわかっていたんですか?」
「当然でしょう? だから複式を入れたのよ」
やはり。
お嬢様は最初から、これを狙っていたのだ。
「では、これから彼らを処罰……」
「まだよ」
「え?」
「今動いたら国が回らなくなる。代わりの人材がいないもの」
お嬢様は窓の外を見た。
「それに、まだ証拠集めの途中よ。複式簿記はそのための道具」
「道具……」
「帳簿を整えれば、不正は自然と浮かび上がる。焦る必要はないわ」
私は背筋が寒くなった。
お嬢様は——どこまで先を見ているんだろう……。
◆
半年後。
『エマ式簿記入門』は、全国の役所に配布された。
「エマ殿、各地から報告が届いております」
侍従が私に声をかけてきた。
「エマ殿って呼ばないでください……私はただのメイドです……」
「しかし、全国の帳簿制度を変えた方ですし……」
「変えてません! お嬢様が変えたんです!」
「そうおっしゃられましても、教科書には『エマ式』と……」
「うぐっ」
「『エマ式簿記入門』、全国の役所に配布完了したとのことです」
「……」
「今後、帝国の全ての帳簿はこの方式で記録されるそうです」
「……」
「歴史的な改革だと、皆感心しております」
「私はメイドです……」
「はあ?」
「なんでもないです……」
私はため息をついた。
歴史的な改革。
メイドが書いた教科書が、国の標準になる。
普通じゃない。
絶対に普通じゃない。
執務室。
お嬢様が私に声をかけた。
「エマ、よくやったわね」
「いえ、お嬢様のおかげです……」
「革命よ」
「え?」
「この国の帳簿制度を根本から変えた。これは革命」
お嬢様は言った。
「あなたが起こしたの」
「私は何も……お嬢様に言われた通りにしただけで……」
「それを革命と言うの」
「言わないと思います!」
「言うわ」
「言いません!」
「言うの」
「……」
お嬢様には勝てない。
「どんな言い訳をしても、あなたの名前が残る」
お嬢様は窓の外を見た。
「『エマ式簿記入門』——何百年経っても、あなたの名前は消えないわ」
何百年。
私は黙った。
何百年も残る。
私の名前が。
メイドの名前が。
「……」
「褒めてるのよ」
「はい……ありがとうございます……」
私は頭を下げた。
嬉しいはずなのに、胃が痛い。
その夜。
「革命……」
お嬢様の言葉を思い返す。
私が起こした革命。
「私はメイドなのに……」
窓の外を見た。月が静かに輝いている。
半年前、私はただのメイドだった。
今は——革命を起こした人間、らしい。
「メイドです」
そう、私はメイドだ。
メイドなんだ。
どんな大層なことをやらされても、私はメイド。
「……がんばろう」
ため息をついて、私は横になった。
胃が痛い。




