第11話 お嬢様が詳しすぎる~複式簿記~(前編)
九月になっていた。
夏の暑さが和らぎ、朝晩は涼しい風が吹くようになった。窓から見える木々の葉が、少しずつ色づき始めている。
新しい紙とインクが完成してから、数週間が経った。
製紙工房は王都に設立され、各地にも広がり始めている。没食子インクも量産体制に入った。
そして私は——執務室でお嬢様にお茶を淹れている。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
「……」
返事がない。
お嬢様は新しい紙で作り直された帳簿をめくっていた。
窓から差し込む光が、プラチナブロンドの髪を銀色に輝かせている。白磁のような肌、長い睫毛、小さな唇。人形のように整った横顔が、真剣な表情で帳簿を見つめている。
足が床に届かず、ぶらぶらと揺れている。白いレースの靴下に包まれた小さな足。
時折、細い指が紙をめくる。その仕草さえも、どこか優雅だった。
アイスブルーの瞳が、紙の上を滑っていく。
……見惚れてしまう。
こうして静かにしていると、本当に天使のようなお嬢様なのに。中身は——いや、考えないでおこう。
「お嬢様?」
「エマ」
「はい」
「そういえば、帳簿はまだ単式のままだったわね」
「はい……新しい紙で作り直しましたが、記帳の方式までは変えていません」
「ええ、紙とインクが揃ったから、やっと複式簿記への移行に手がつけられるわ」
お嬢様は帳簿を閉じた。
「これじゃ資産がいくらあるかわからない。負債も把握できない。利益も正確に出せない」
「……」
正直、まだピンとこない。あの時も説明を聞いたけど、紙の話に移ってしまって詳しくは理解できなかった。
「複式簿記を導入するわ。今度こそ、ちゃんと教えてあげる」
「全ての取引を、二つの面から記録するの」
お嬢様は立ち上がった。椅子の上で。
「例えば、金貨100枚で馬を買ったら」
「はい」
「『馬』という資産が増えて、『現金』という資産が減る」
「……」
「両方を記録することで、必ず帳尻が合う」
「帳尻が合う……」
「逆に言えば、合わなかったら不正があるってこと」
「不正……」
正直、まだピンとこない。
「例えばね」
お嬢様は足をぶらぶらさせながら続けた。
「税として金貨1000枚を集めたとする。でも帳簿には『800枚』と書く」
「……!」
「差額の200枚はどこへ行ったのかしら?」
「それは……」
私は思わず黙った。
聞いたことがある。いや、聞いたことがあるどころではない。
王城で働いていれば、そういう噂は嫌でも耳に入る。税を着服した役人の話。帳簿を書き換えて私腹を肥やした大臣の話。
「今の帳簿は、数字を書き換えれば済む。誤魔化し放題よ」
「確かに……」
今度は心から頷けた。
「複式なら、一箇所直しても他と整合性が取れなくなる」
「他と……?」
「金貨1000枚を集めたなら、『現金が1000枚増えた』と書く。同時に『税収が1000枚増えた』とも書く」
「両方に書く……」
「片方だけ800枚に変えても、もう片方と合わなくなる」
「あ……」
私はようやく理解した。
「つまり、嘘をつくなら両方書き換えないといけない……」
「そう。そして、帳簿は何十箇所も繋がってる。全部を矛盾なく書き換えるのは——」
「無理ですね」
「そういうこと」
お嬢様は小さく頷いた。
なるほど。これなら、わかる。
数字の理屈はまだ曖昧だけど、「嘘がつきにくくなる」ということは理解できた。
「というわけで、これを全国に広めるわ」
「全国……」
「まず教科書が必要ね」
「教科書ですか」
また教科書だ。紙の作り方、インクの作り方、そして今度は帳簿の付け方。
「ええ。エマ、あなたが書きなさい」
「……は?」
「今教えたことをまとめればいいだけよ」
「私が!? 教科書を!?」
「そうよ」
「私はメイドです!」
「知ってるわ」
「教科書を書くのはメイドの仕事じゃないです!」
「じゃあ誰が書くの?」
「学者とか、大臣とか……」
「この国に複式簿記を知っている人間が何人いると思う?」
「……」
「今のところ、私とあなただけよ」
私は言葉を失った。
確かに、お嬢様の言う通りだ。複式簿記を詳しく理解しているのは、私とお嬢様だけ。他の誰にも書けるはずがない。
「でも、お嬢様が直接お教えになれば……」
「5歳児が教えたら角が立つでしょう?」
「あ……」
確かに。
大臣たちが、5歳の少女に帳簿の付け方を教わる。想像しただけで、彼らの顔が歪むのが見える。
「大臣たちが素直に学ぶと思う?」
「……思いません」
あのプライドの塊みたいな人たちが、5歳児に頭を下げて教えを請う。想像しただけで胃が痛くなる。彼らの胃も痛くなるだろう。
「メイドが教える分には、『お嬢様の命令で』で済む」
「なるほど……」
「彼らの面子も保てる」
お嬢様は言った。
「それに、あなたなら信用できるもの」
「……」
「私の言葉を正確に伝えてくれる」
信用……されている?
道具として?
それとも……。
◆
その夜。
私は自室の机に向かっていた。
「複式簿記……」
お嬢様の言葉を思い出しながら、紙に書いていく。
「全ての取引を、二つの面から記録する……」
何度も書き直す。
「これでいいのかな……」
気づけば深夜になっていた。
窓の外を見る。月が高い位置にある。
「……私、何やってるんだろう」
メイドなのに、教科書を書いている。
メイドなのに、国の帳簿制度を変えようとしている。
「でも……」
お嬢様に頼まれたんだから、やるしかない。
私は、お嬢様のメイドなんだから。
◆
数日後。
私は執務室でお嬢様に草稿を提出した。
「お嬢様、できました」
「見せて」
お嬢様がぱらぱらとめくる。
足をぶらぶらさせながら、真剣な目で読んでいる。
「……」
「あの、いかがでしょうか……」
「悪くないわね」
「!」
「いくつか直すところはあるけど、基本はこれでいい」
よかった……。
私はほっと息をついた。
「これを『エマ式簿記入門』として全国に配布するわ」
「え」
「名前も決まりね」
「ちょっと待ってください!? エマ式!?」
「あなたが書いたんでしょう?」
「お嬢様に教えていただいたんです! シャルロッテ式とかにしてください!」
「5歳児の名前がついた教科書を誰が使うの?」
「うっ……」
確かに。「シャルロッテ式簿記入門」。5歳児が作った帳簿術。誰も信用しない。
「でも、メイドの名前でもおかしいですよ!?」
「メイドが書いたのは事実でしょう?」
「事実ですけど!」
「じゃあ問題ないわね」
「問題だらけです!」
「はい、決まり」
「聞いてます!?」
お嬢様は完全に聞き流している。私はがっくりと肩を落とした。
「私はメイドなのに……」
「さて、これを全国に配布するわ。彫り師はもう手配してあるでしょう?」
「はい……以前お嬢様に言われた通り、増員しています」
「よろしい。これで複式簿記が全国に広まれば、不正はずっと難しくなる」
お嬢様は満足そうに頷いた。
「あなたの名前がついた教科書で、この国の帳簿制度が変わるのよ」
「……私はメイドなのに」
「知ってるわ」
お嬢様はくすりと笑った。
◆
その夜。
私は自室のベッドに座り込んでいた。
「エマ式簿記入門……」
今日のことを思い返す。
私が書いた教科書が、全国に配布される。
私の名前がついた教科書が。
「……普通じゃない」
私はメイドだ。
メイドが教科書を書くなんて、普通じゃない。
でも——
「お嬢様についていくって、決めたから」
窓の外を見た。月が静かに輝いている。
「……がんばろう」
ため息をついて、私は横になった。
胃が痛い。




