第10話 お嬢様が詳しすぎる~インク~
新しい紙の試作が成功してから、数日が経った。
夏の盛りだった。窓を開けても熱気が流れ込んでくるだけで、涼しくはならない。
王城の会議室に、今度はインク職人が集められた。
職人が二人。どちらも緊張した顔で座っている。
「な、なんで俺たちが王城に……」
「何か粗相でもしたのか……?」
紙職人のときと同じだ。
私は彼らを宥めながら、お嬢様の到着を待った。
扉が開いて、お嬢様が入ってきた。
プラチナブロンドの髪が、窓からの光を受けて輝いている。白いドレスが、小さな体を包んでいる。
お嬢様は椅子によじ登って座った。足が床に届かず、ぶらぶらと揺れている。
「……ガキ?」
職人の一人が、小声で呟いた。
紙職人のときと同じだ。みんな同じ反応をする。
私は内心でため息をついた。これで何回目だろう。
「シャルロッテ様です」
「え!? この子が!?」
「ええ」
「嘘だろ!?」
「嘘じゃないわ」
お嬢様が答えた。氷のような目で。
職人たちの顔が一瞬で青ざめた。
「失礼しました!」
慌てて平伏する。
……紙職人のときと全く同じ流れだ。学習しないのかな、この国の大人たちは。
「いいわ。顔を上げなさい」
お嬢様は足をぶらぶらさせながら言った。
その目は、五歳児のものではなかった。
◆
「今のインクは何を使ってる?」
お嬢様が尋ねた。
「煤と膠を混ぜて……」
「それじゃダメよ」
職人が固まった。
「え?」
「煤のインクは紙の表面に乗ってるだけ。擦れば消えるし、水をかけたら流れるでしょう?」
「そ、そうですが……普通はそういうもので……」
「普通じゃ困るの」
お嬢様は言った。
「帳簿は何十年、何百年と保存するものよ」
何百年。
また、途方もない数字が出てきた。紙のときもそうだった。
お嬢様の視点は、私には想像もつかない遠くを見ている。
「没食子インクを作りなさい」
「ぼっしょくし……?」
「樫の木を見たことある?」
「は、はい……」
「幹や枝に、丸い瘤ができてることがあるでしょう。虫こぶよ」
「ああ、あの……虫が巣を作るやつ……」
「そう。あれが没食子。タンニンがたっぷり含まれてるの」
「たんにん……?」
「渋みの成分よ。革を鞣すのにも使うでしょう?」
「あ、はい……」
「没食子を砕いて、水に浸して、タンニンを抽出する」
お嬢様は続けた。
「そこに緑礬——鉄の錆を溶かしたものを加えるの」
「鉄の錆……?」
「タンニンと鉄が反応して、黒い色素ができる」
「反応……?」
「これが紙の繊維に染み込んで、化学反応を起こすの」
「化学……?」
職人の顔が困惑に染まっていく。
紙のときと同じだ。お嬢様の言葉は、私にも半分くらいしかわからない。
いや、正直に言うと三割くらいかもしれない。
でも、職人さんはもっとわからなそうだ。完全に目が死んでいる。
「あの……」
私は思わず口を挟んだ。
「つまり、渋みの成分と鉄の錆を混ぜると、黒い色ができる……ということでしょうか?」
職人がこちらを見た。
「お、おう……それなら……」
「空気に触れると変わる、というのは、干物が色が変わるようなものかと」
「ああ、なるほど……」
職人の顔に、少しだけ理解の色が浮かんだ。
お嬢様は私をちらりと見た。何か言いたそうだったが、何も言わなかった。
「いいから聞きなさい」
お嬢様は構わず続けた。
「書いた直後は薄い灰色よ」
「灰色……」
「でも、空気に触れると酸化して、どんどん黒くなる」
「酸化……」
「一度染み込んだら、削っても消えない。水をかけても流れない」
職人は黙った。
「何百年経っても読める。そういうインクよ」
「何百年……」
お嬢様は平然としている。
何百年後の世界を見ているかのように。
「最後に膠かアラビアゴムを加えて、粘度を調整する。それで完成」
膠はともかくアラビアゴムってなんだろう。
「……本当に、そんなインクが……」
「疑うなら試しなさい」
お嬢様はそう言って、紅茶を一口飲んだ。足をぶらぶらさせながら。
私は心の中で溜息をついた。
タンニン、緑礬、酸化……。
お嬢様の言葉の半分も理解できない。
でも、職人さんはもっとわからなそうな顔をしている。
「なぜそんなことを知っているんですか?」
職人の一人が、恐る恐る尋ねた。
「……」
お嬢様は答えなかった。
しばらくの沈黙。
「夢で見たのよ」
職人が目を丸くした。
「夢……?」
「そう。長い、長い夢」
それだけ言って、お嬢様は椅子から降りた。
紙のときと同じだ。お嬢様は「夢で見た」としか言わない。
私は——もう、それ以上聞かないことにしている。
「試作品ができたら報告しなさい」
「は、はい……!」
職人たちが頭を下げる。私たちは会議室を後にした。
◆
数週間後。
私たちは職人たちの工房を訪れた。
「で、できました……」
インク職人が、小瓶を差し出した。
お嬢様は新しい紙を取り出した。あの職人たちが作った、植物繊維の紙だ。
「試すわ」
お嬢様は筆を取り、紙に文字を書いた。
書いた直後は、確かに薄い灰色だった。
しばらく待つ。
文字が、少しずつ黒くなっていく。
お嬢様は紙を手に取り、指で擦った。
消えない。
水をかけた。
消えない。
「合格」
お嬢様は小さく頷いた。
「やった……!」
職人が歓声を上げた。
私は思った。
五歳児に褒められて喜ぶ職人たち……。
私も人のことは言えないけど。
「やった……やりました……!」
「何ヶ月もかかりましたが……ついに……!」
職人たちが抱き合って泣いている。
お嬢様は「合格」の一言だけで、もう紅茶を飲んでいる。
温度差がすごい。
◆
王城に戻る馬車の中。
お嬢様は窓の外を眺めていた。
夕日が、プラチナブロンドの髪を染めている。
「これで紙とインクが揃ったわ」
「はい」
「次は印刷ね」
「印刷……?」
「教科書を量産するのよ。活版印刷が使えればいいんだけど……」
お嬢様は眉をひそめた。
「この国の技術じゃ、まだ無理ね」
「活版印刷とは?」
「金属の文字を並べて、インクをつけて、紙に押し付けるの。一度版を組めば何百部でも刷れる」
「……はい?」
金属の文字? 並べる? 押し付ける?
「……すみません、お嬢様。もう一度お願いできますか」
「だから、金属で文字の形を作って、それを並べて、インクを塗って、紙に押し付けるの」
「……」
わからない。全くわからない。
「まあいいわ。とにかく、金属加工の精度が足りないの」
お嬢様は溜息をついた。
「はあ……イライラする」
「お嬢様……」
「いいわ。とりあえず木版刷りで」
「もくはんずり、ですか?」
「木の板に文字を彫って刷るの。手間はかかるけど、手書きよりはマシでしょう」
「なるほど……」
「活版印刷は……3年後くらいかしら」
また、長期計画だ。
「彫り師を集めなさい。教科書の版木を作らせるわ」
「……はい」
「それから——」
お嬢様は私を見た。
「あなた、教科書を書きなさい」
「……は?」
◆
「私が? 教科書を?」
「そうよ」
「私はメイドです!」
「知ってるわ」
「教科書を書くのはメイドの仕事じゃないです!」
「じゃあ誰が書くの?」
「学者とか、大臣とか……」
「この国に、私が教えたことを理解している人間が何人いると思う?」
「……」
「今のところ、あなただけよ」
私は言葉を失った。
「紙の作り方も、インクの作り方も、あなたは聞いていたでしょう?」
「は、はい……」
「職人に通訳もしてた」
「通訳?」
「私の言葉を、わかりやすく言い換えてた」
そういえば、そうかもしれない。
「タンニン」を「渋み」と言い換えたり、「酸化」を「空気に触れると変わる」と説明したり。
無意識にやっていた。
そうしないと職人さんが気絶しそうだったから。
「あなたには才能があるのよ。難しいことを簡単に伝える才能が」
「……」
「だから、あなたが書きなさい」
才能……?
そんなもの、あるのかな……。
◆
その夜。
私は自室のベッドに座り込んでいた。
「教科書……」
今日のことを思い返す。
紙とインクの改良が終わった。
次は印刷と、教科書作成。
「……私が、教科書を書く」
信じられない。
私はメイドだ。字は読めるけど、学者じゃない。
でも——
「お嬢様に頼まれたんだから……」
やるしかない。
私はお嬢様のメイドなんだから。
窓の外を見た。月が高い位置にある。
「……がんばろう」
ため息をついて、私は横になった。
胃が痛い。




