エピローグ
あれから、十年近い歳月が流れた。
王都を去った俺は、歴史の教科書に「偉大なる改革者」として名を刻まれることもなく、ただの「ベルクナー卿」として、アイゼンヴァルト領で静かに暮らしている。
「――以上が、来期の予算案です。各部長は、これに基づき、事業計画を再提出してください」
領主の館で開かれている定例報告会議。議長席でテキパキと場を仕切っているのは、俺の妻であり、この領地の事実上の最高責任者であるリーゼだ。彼女の周りには、王立アカデミーを卒業した、優秀な若き官僚たちが控えている。
俺はといえば、会議室の後ろの隅に置かれた「特別顧問席」で、あくびを噛み殺しながら、その様子を眺めているだけだ。もはや、俺が口を出すような問題は、この領地にはほとんど存在しない。
会議が終わり、俺は一人、午後の散歩に出ることにした。
石畳が敷かれた道を歩く。道端の家々には、ガラス窓がはめ込まれ、暖かい陽光を室内に取り込んでいる。すれ違う人々は、皆、身なりも良く、その表情は明るい。
アカデミーの前を通りかかると、子供たちの元気な声が聞こえてきた。校庭のベンチでは、若い男女が、製紙所が作った安価な紙の本を広げ、楽しそうに語らっている。
鍛冶場からは、鋼を打つリズミカルな音が聞こえる。診療所からは、消毒液の清潔な匂いがした。
それは、俺が一つずつ、必死で築き上げてきた、「当たり前の平和」の風景だった。
俺は、かつてリーゼと二人でよく訪れた、領地を見下ろす丘の上に登った。
ベンチに腰掛けて、眼下に広がる豊かな土地を眺める。赤茶色の屋根、緑の畑、そして、遠くには白煙を上げる高炉の姿。
「お疲れ様です、あなた」
いつの間にか隣に来ていたリーゼが、水筒から淹れたての紅茶を、ガラスのコップに注いでくれた。彼女の薬指には、アイゼンヴァルト鋼で作られた、シンプルな指輪が輝いている。
「ああ。今日も、平和な一日だった」
俺は、紅茶の温かい湯気を感じながら、答える。
「ようやく、本当に、スローライフが実現できましたね」
リーゼが、俺の肩にそっと頭を預けながら、幸せそうに呟いた。
俺は、彼女の言葉に、穏やかに微笑んで頷く。
英雄ではない。王でもない。ただ、愛する人の隣で、人々の幸福な営みを静かに眺めている。
過労死した元・公務員が、異世界でようやく手に入れた、理想の「仕事」と「生活」の最終形が、確かに、そこにはあった。




