第 30 話:スローライフの始まり
権限の委譲から、数年の月日が流れた。
アイゼンヴァルト領は、見違えるように変わっていた。
定例報告会議では、各部長たちが、活発な議論を交わしている。
「ゲルト部長、新しい農具の量産計画ですが、そのためにはロルフ部長の鉱山からの鉄鉱石増産が不可欠です」
「うむ。それについては、アカデミーの卒業生が考案した新しい採掘法を試している。来期には、生産量が三割増える見込みだ」
アカデミー。それは、かつて納屋だった小さな教室が発展した、領地の最高学府だ。卒業生たちは、今や各部門の中核を担う存在となっていた。
俺とリーゼは、その会議を、後部座席から静かに見守っている。もはや、俺たちが口を出す幕はない。この領地は、俺たちがいなくても、自分たちの力で力強く回り始めている。
会議が終わり、俺はリーゼと共に執務室の窓辺に立った。
窓の外には、活気ある町並みが広がっている。ガラス窓のついた家々。石畳の道を行き交う人々。子供たちの笑い声。
それは、俺が夢見た光景そのものだった。
「……少しは、スローライフに近づいたかな」
俺がぽつりと呟くと、隣に立つリーゼが、俺の腕にそっと自分の腕を絡めてきた。
「はい。ようやく、ですね。クラウス様」
彼女の薬指には、アイゼンヴァルト鋼で作られた、シンプルな指輪が輝いている。
俺は、愛する妻となった彼女の肩を抱き寄せ、穏やかな午後の光に満ちた領地を、静かに眺める。
過労死した元・公務員が、異世界でようやく手に入れた、本当のスローライフ。
俺たちの物語は、まだ始まったばかりだ。




