プロローグ
意識が途切れる最後の瞬間、俺は自分が死ぬことを理解した。
蛍光灯が明滅する深夜のオフィス。積み上げられた書類の山。冷え切ったコーヒー。鳴りやまない電話の幻聴。それが、地方公務員、田中健司(享年四十五)の人生の終着点だった。
(ああ、疲れた……)
もっと、こう、穏やかに生きたかった。窓の外の景色を眺めたり、土をいじったり、そういう人間らしい生活に憧れていた。だが、現実はどうだ。予算折衝、陳情対応、終わらない事務処理。住民のため、地域のためと自分に言い聞かせ、身を粉にして働いた結果がこれだ。過労死。あまりにもあっけない。
次に意識が戻った時、俺は真っ白な空間にいた。目の前には、性別も年齢も判然としない、ただ「光」としか表現できない存在がいた。
『お疲れ様でした、田中健司。あなたの勤勉さは、徳として積みあがっています』
神様、というやつだろうか。あまりに非現実的な光景に、俺は妙に冷静だった。
「はあ……それで、俺は地獄行きですかね。大して良いこともしてませんし」
『いいえ。あなたは次の生を受ける資格があります。何か望みはありますか?』
望み。即答だった。
「スローライフがしたいです。静かな場所で、穏やかに暮らしたい。もう書類の山は見たくない」
『ふむ。承知しました。では、あなたの知識が少しだけ喜ばれる世界で、静かに暮らせるように取り計らいましょう』
知識が喜ばれる? その言葉に少し引っかかりを覚えたが、眠気に似た抗いがたい感覚に意識が遠のいていく。まあいい。スローライフが送れるなら、それで。
次に目覚めた時、俺は「クラウス・フォン・ベルクナー」という二十代前半の青年になっていた。
騎士爵家の次男。そう聞かされた時、俺は神に感謝した。長男ではない。家督争いとは無縁の、自由な次男坊。これ以上ないスローライフ向けのポジションじゃないか。
だが、その安息は半日も持たなかった。
当主である父は流行り病で床に伏し、数年前に唯一の跡継ぎだった兄も同じ病で亡くなっていた。つまり、このアイゼンヴァルト領を率いる者が、俺しかいない。
「……話が、違うじゃないですか」
天を仰いで呟いた言葉は、誰に届くでもなく虚しく消えた。
領主代行として初めて足を踏み入れた執務室。そこには、一人の少女が待っていた。亜麻色の髪を三つ編みにした、大きな眼鏡が印象的な少女。書記官の娘で、父の代理を務めているというリーゼロッテ、愛称リーゼだ。
「クラウス様。こちらが、当期の収支報告です」
彼女が差し出した羊皮紙の束に目を通し、俺は眩暈を覚えた。収入の欄には雀の涙ほどの数字が並び、支出の欄はそれを遥かに上回る。備蓄食料、残り一月分。金庫、実質空。
これが、俺が治めることになった領地の現実。絶望、そのものだった。
スローライフ? 笑わせる。このままでは領民全員、冬を越せずに飢え死にだ。
俺は静かに帳簿を閉じた。だが、不思議と心は折れていなかった。むしろ、懐かしさすら覚えていた。そうだ。こういう絶望的な状況、前世で何度も経験したじゃないか。予算はない。人手も足りない。それでも、何とかするのが俺の仕事だった。
ワーカホリックの血が、公務員魂が、死んだはずの体で再び燃え上がるのを感じる。
俺は顔を上げ、目の前の少女に告げた。
「リーゼ。まずは現状を正確に把握しよう。領内の地図と、各村の生産状況がわかる資料をすべて集めてくれ」
俺の言葉に、リーゼが驚いたように目を見開く。
「……承知、いたしました」
こうして、俺のちっともスローじゃない異世界ライフが、静かに幕を開けたのだった。




