最初の理由 出会い
9月下旬の東京郊外。
残暑というにはあまりにも酷な暑さの中、紅林凪斗は額に汗をためながら大きなダンボールを慎重に運んでいた。
重さに腕が細かく震えるが、なんとか所定の位置までたどり着く。
彼がやっているのは、いわゆるスキマバイトというやつだ。
「ふぅ……」
最後の荷物を置き、アプリでQRコードを読み取って退勤手続きをする。
手には汗、顔には疲れが滲んでいた。
「助かったよ! お疲れさん!」
気のいいスタッフの声にも、凪斗は素っ気なく返す。
「ウッス……」
数歩歩いてから、銀行アプリを開く。
残高は二千七百三十六円。
財布の中には、三百円ほど。
(クソっ。交通費結構たくさんもらえるからって応募したけど、思ったよりキツかったな……)
腹が鳴る。
商店街を歩けば、焼き鳥とラーメンの匂いが空腹を刺激する。
ふと耳に届く声があった。
「献血にご協力お願いしまーす!」
「皆さんの血が、多くの人の命を救います!」
若い男性と中年の女性が呼びかけている。
視線を向けた凪斗の頭に、ある言葉が浮かぶ。
(献血ルームって、お菓子食べ放題で、飲み物も飲み放題だったよな……)
掲げられた看板に目をやると、さらに嬉しい一文。
(え、レトルトカレーまでついてくんの?)
気づけば足が動いていた。
スタッフに場所を尋ね、献血ルームの自動ドアの前に立つ。
スッと、ドアが開いた。
「こんにちは!ありがとうございます!」
入り口で明るい声がはじけ、受付の笑顔が目に入る。凪斗は少し呆気にとられ、間延びした返事をするしかなかった。
「あ、はい……」
初めての献血なので、血液型の確認や説明を受ける。手順は丁寧で、どこか事務的だが温かみもある。検査が終わると、採血室へ案内された。
ベッドの近くで待っていると、一人のスタッフが凪斗に声をかけた。
「よろしくお願いします。お手洗いは済ませましたか?」
ぱっ、と開いた大きな瞳。ゆったりした微笑み。身長は高めで、しなやかな体つき。制服の襟元から覗くネームプレートには、はっきりと「十文字 莉波」とあった。
凪斗は一瞬、呼吸が遅くなるのを感じた。それが意識の揺らぎだと気づかないふりをするために、ぎこちなく答えた。
「大丈夫です……」
莉波は手際よく準備を進める。消毒の匂い、ベッドのビニールの冷たさ、機械の低い作動音。針が当たる前の短い沈黙に、凪斗の心臓だけが大きく聞こえた。
「では、針、入りますね。少しチクッとしますよ」
言葉は穏やかなまま集中した眼差しになった。針先が皮膚に触れた瞬間、凪斗は顔に表情を出さないように、ぎゅっと唇を噛みしめた。莉波の視線がほんの少しだけ止まり、彼の手を軽く握きゅっと支えるような仕草をした。
「大丈夫? 指先に痺れはない?」
「あ、大丈夫です。平気です」
返答は早口になった。緊張を隠そうとする声はかすかに震え、莉波はそれを見逃さなかったはずだが、にっこりと微笑むだけで、余計な言葉は足さなかった。
そのまま凪斗の左側の椅子に腰かけた莉波。右側にある採血用の機械と凪斗をゆっくり交互にみる。少ししてから優しく話しかけた。
「学生さんなんだね。」
「はい。まぁ、」
「今日は学校帰り?」
「いえ、午前中の一コマで終わったんでバイトしてました。」
「へぇ、ちゃんと勉強もバイトもしてから来てくれたんだ。偉いね!」
何気ない会話が続く。最初緊張していた凪斗も莉波のその柔らかい雰囲気によって落ち着いていった。
ピィ〜
採血用の機械からアラームが鳴る。何事かと思って振り返ろうとする凪斗に莉波は優しく語りかける。
「大丈夫、1回目のお返しが始まっただけだから。」
「⁈」
事前に他のスタッフから説明は聞いていたものの初めてのことでよく理解できていなかった凪斗はここで再び莉波から説明を受ける。
「今あなたにしてもらってるのは成分献血っていってね。血の中の欲しいとこだけもらうの。それで要らないものは体の中に返すの。」
「そっ…そうなんですね。」
「全部終わるのに1時間くらいかかるから気になることがあったら教えてね。もうこの時間暇だし、あなたは1回目だからどんな体調の変化があるかわからない。だから私がここに座ってるの。」
その説明が腑に落ちた凪斗は落ち着きを取り戻す。莉波は相変わらず優しい微笑みを浮かべながら凪斗に話しかける。
「やっぱり歳が近いっていいね。普段は自分の親くらいの人たちの相手をすることが多いから新鮮だよ。」
「いや、俺もですよ。…こんなに話してくれるなんて思ってなかったんで。」
「今日はなんで献血しようって思ったの?」
「いや、あの…ジュース飲めるし、お菓子食べ放題だし、それに今日は協力したらレトルトのカレーも貰えるってあったから。」
「えー、そうなんだ!それでさ-」
こうした他愛のない会話を続けること約50分。とうとう終わりのアラームが鳴り、凪斗が採血室から出る時がきた。
「ありがとうございました。」
頭を下げる凪斗。視線を上げると莉波が笑顔で手を振っていた。
「今日はありがとう。お話できて楽しかったね。また来てね!」
人に手を振られた経験の少ない凪斗はどう返していいか分からず待合室に戻りながら軽く会釈をした。その後莉波がどこか儚げな表情を見せた時にはもう凪斗は待合室だった。
それから当時の目的通り、菓子と飲み物で腹を満たしてから受付スタッフにレトルトカレーをもらう凪斗。外に出るともう夕焼けが眩しかった。献血ルームに入る前より気温は落ち着いている。風もほのかに涼しい。にもかかわらず凪斗は入る前より自分の体が熱いのを感じながら家に戻っていった。




