ざまあみろ、と思ったはずなのに――壊れた私の復讐は、何も満たさなかった
ざまあみろ。
そう思ったはずなのに、胸の奥はひどく静かだった。
零落した彼女を見ても、何ひとつ満たされなかった。
そのときようやく気付いた。――あぁ、私は壊れていたのだ、と。
彼女――セレナ・アーヴィング。
辺境の子爵家から、交易で莫大な財を築き伯爵位を得た家の令嬢。
たった二代前の功績で成り上がったその家は、血統を重んじる家々からは軽んじられていたが、私から見れば、何もかもを持っていた。
“幼馴染”。
私と彼女を繋ぐ言葉はそれだが、実際には違う。
私は、セレナの所有物だった。
幼い彼女が「お友達がほしい」と口にしたから、私は彼女に与えられた。
しがない子爵家の次女である私が、セレナと友となれるのは光栄なこと。
裕福な家との繋がりを得られるのは利益でもあった。
両親は「お前のためだ」と言い、快く私を彼女のモノにした。
「ねぇマリエル、一緒にピアノを弾きましょう。あら、苦手なの? それなら教えてあげる!」
「ねぇマリエル、貴女にはもっと落ち着いた色の髪留めが似合うわ。これ、私には似合わなかったから、貴女にあげる」
「ねぇマリエル、お茶会ごっこをしましょう。このお菓子おいしいのよ、食べさせてあげる」
にこにこと笑うセレナを、皆お姫様のように可愛がった。
セレナと比べたら見窄らしい私に何かを与える彼女を、見た目同様に優しいと褒めそやした。
――それなら、私は?
好きでもないピアノを弾かされて。
好きでもない髪留めをつけられて。
好きでもないお菓子を食べさせられて。
彼女が与えたものを、ただ笑顔で受け取る私は、なぁに?
彼女の付属品ですらない。彼女を楽しませるためのおもちゃでもない。
私は、なぁに?
セレナは、皆が言うような“天使”じゃない。
別に、隠れて私をいじめていたわけじゃない。
ただ、空っぽな子だった。
だからなんでも欲しがり、なんでも与えた。
寂しくないように”お友達“を傍に置いたけれど、私が居ても、彼女は空っぽのままだった。
セレナは私を好きじゃなかった。
セレナは私に関心がなかった。
居ても居なくてもどうでもいい存在。
セレナにとってマリエル・トレンスは、部屋の片隅のぬいぐるみと同じ程度の価値しかなかった。
――私から、セレナの隣以外の場所を奪っておいて。
セレナは勉強も礼儀作法も、なんでもできた。
どれも家柄を思えば当然なのに、私は”できない子”として扱われた。
唯一セレナより先に手に入れたのは、婚約者だけ。
十歳の頃、父母に結ばれた縁だった。
年齢も近く、家柄も釣り合う。政治的にも都合がいい。
そんな理由で決まった、貴族の中でも早い方の婚約。
早いと言っても、貴族の子息令嬢は、十歳を過ぎれば“紳士”と“淑女”だ。
婚約者となった彼は跪き、私への愛を誓った。
男爵家の三男。
剣も勉強もそれなり、将来は領地で働くことが決まっている――つまらない男。
けれど彼は、私だけに与えられた、私だけの人だった。
彼が居れば、私の居場所はそこにもある。
そう思って、大切にした。
……セレナの、あの一言を聞くまでは。
「ねぇマリエル。貴女、婚約者ができたのでしょう? 今度、会わせてくれないかしら?」
お母様に言われたの。
二人はとても仲が良いから、将来の見本にしなさいって――と。
ただ『言われたから』という理由で、セレナは私の大切な婚約者を見たがった。
拒むことなどできない私は、笑顔で返した。
「もちろん、喜んで」
実はずっと、貴女に紹介したかったの。
そう言って、笑った。
「セレナ、彼が私の婚約者よ」
「は、はじめまして。アラン・フェルディットと申します」
ガチガチに緊張して挨拶する婚約者の姿は、いっそ滑稽にも見えた。
本来なら、男爵家の三男などが言葉を交わせる相手ではないからか。
それとも――セレナだから、か。
それが後者だと分かったのは、帰りの馬車の中でのこと。
「本当に愛らしい……物語の姫様のような方だ」
私という婚約者を前に、ほう、とため息のように漏らした声。
それに対して、思わず問いかけた。
「……好きになったの?」
「えっ?」
婚約者は、何を問われたのか分からないという顔をした。
「セレナのことが、好きになったのか訊いたの」
語尾が強くなったのが、自分でも分かった。
彼は驚いたように目を見開き、すぐに言った。
「まさか!」
両手のひらを向け、首を横に振る彼を見て、「よかった」と息を吐きかけた、そのとき。
「僕なんかじゃ、分不相応だ」
困ったように笑って、そう言った。
――それならば、私はなぁに?
それからは、婚約者と会っても楽しくなかった。
いつもセレナのことばかり。彼女と会っているか、仲良くしているか、大切にしているか。
彼も、お父様やお母様と同じことばかり言うようになってしまった。
私の前でセレナの話をしないのは、セレナだけ。
私を映さない瞳だけが、私のことを映している。
空っぽの彼女だけが、何も持たない私のそばにいる。
そう思うと、次第に、それでもいい気がしてきた。
――それなのに。
十二歳の、春のこと。
「ねぇマリエル! この前のお茶会に素敵な方がいたの!」
いつものように呼びつけられた伯爵家で、セレナは見たことのない瞳を私に向けた。
その薄水色の瞳がきらきらと輝いて、まるで澄んだ朝の湖のようだった。
「シュヴァリエ侯爵令息?」
そう返すと、セレナは驚いたように両手で顔を隠した。
その指の隙間からのぞく頬は薔薇色に染まっていて、「あぁ、この表情はまた皆を虜にするのだろうな」と思った。
「どうして分かったの?」
「私もこの前のお茶会にいたからよ、セレナ」
大きなお茶会で、多くの同年代の子女が集まっていた。
私は”セレナの幼馴染”として招かれた。
けれどすぐに、セレナが人に囲まれ、私は壁の花になった。
一言も話さずに終わったお茶会だった。
「あぁ、そうだったわね。それでね、実は、シュヴァリエ侯爵令息とお話しする機会があったの」
「見ていたわ。転びそうになったところを助けてもらったのよね」
シュヴァリエ侯爵令息は、セレナ以上に人に囲まれていた。
噂で聞いていた以上の美貌。
セレナ以上に”天使”の異名が似合う人を、私は初めて見た。
家格が上の侯爵家の令息に、セレナも挨拶に行った。
「取り囲む側」になるセレナを見るのは、初めてだった。
「シュヴァリエ侯爵令息――」
そう声をかけようとしたその瞬間、別の令息にぶつかって、セレナは転びかけた。
駆け出そうとした私の目の前で、彼が動いた。
「大丈夫ですか? レディ」
さらさらと流れる濃い金髪が、セレナの頬に影を落とした。
その姿は淡い光の中できらめき、まるで人ではなく、物語の頁から抜け出たようだった。
「は……い、ありがとうございます。シュヴァリエ侯爵令息……」
あぁ、このときも。今と同じように、頬を薔薇色に染めていた。
ぽわんとしたセレナを見て、シュヴァリエ侯爵令息は「気分が悪いのでは」と使用人を呼び、彼女は家に帰された。
セレナは覚えていないようだけれど、このとき私は付き添って帰ったのだ。
「本当に、素敵な方……」
あのときも、いまも。
セレナの瞳には私が映っていない。
けれどいままでと違い、彼女は確かに”誰か”を願っていた。
――その瞬間、思ってしまった。
なんでも持っていて、なんにも持たない彼女から、今なら奪えるかもしれないと。
「お名前で呼んでしまえば?」
「えっ?」
「いいじゃない、私と二人のときくらい。そんなに瞳を潤ませるほど想っているのでしょう? ……恋を、したのでしょう?」
与えればいい。
彼女に、与えてしまえばいい。
恋という宝物を与えて、それを破り捨てるの。
私がシュヴァリエ侯爵令息を射止めるだなんて言わないわ。そんなことできやしない。
でもセレナにも、できやしない。
彼は由緒ある侯爵家の令息。
歴史も、血統も、そして財もある。
セレナ以上に“なんでも持っている”彼は、貴族としての核を持つ人。
身分が下の、それも爵位を金で買ったような新興伯爵家の令嬢など、望むはずがない。
ねぇ、セレナ。
貴方はずっと、恋した人の“何にもなれない”の。
「……レオナルド、様」
甘い砂糖菓子を含んだような音で、セレナは彼の名を呼んだ。
「ねぇ、マリエル。レオナルド様は観劇がお好きらしいわ」
「ねぇ、マリエル。レオナルド様は蔵書をたくさんお持ちで、特に魔術書がお気に入りなんですって」
「ねぇ、マリエル。レオナルド様は髪の短い女性がお好きだという噂よ」
「まぁそうなの。それならセレナも同じ劇を観に行けばいいじゃない」
「まぁそうなの。それなら同じ本を取り寄せてみましょう」
「まぁそうなの。それなら髪を切ってしまえば? 貴女なら短いのもきっと似合うわ」
集めてしまえば、彼の噂などいくらでもあった。
真偽の怪しいものから、明らかな嘘まで。
それでもセレナは、その一つひとつを宝物のように扱った。
セレナの両親も、娘の恋心に気づいていた。
止めなかったのは、現実を知れば諦めると思ったから。
けれどセレナは、いつまでも熱病に浮かされたままだった。
「ねぇマリエル。お父様に『レオナルド様と結婚したい』って言ったの。でも無理だって……。それどころか、もうお名前を口にするのも駄目だって……」
「まぁそうなの。――それなら、これからは二人だけの秘密ね、セレナ」
「マリエル……!」
薄水色の瞳に映り込んだ私は、穏やかに、どこまでも優しく微笑んでいた。
十四歳になり、貴族学院に入学した。
彼の方と私たちは同い年。
だから学院でなら、いくらでも会えるとセレナは信じていた。
両親に反対されても、恋人になれれば結婚も許されると夢見ていた。
けれど現実は違った。
「レオナルド様、軍人学校にも通われるらしいの……。あちらの宿舎で生活して、学院にはたまにしか来ないのですって」
青ざめた顔で呟くセレナ。
「どうしましょう」と縋る声に、私は柔らかく言葉を置いた。
「アピールが必要ね。たくさん声をかけましょう?」
「そうよね、マリエル。あぁ、貴女だけが頼りだわ」
セレナは、相変わらず私を見ていない。
けれど彼女に届く声は、私のそれだけになっていった。
「シュヴァリエ侯爵令息、よろしければお昼を共にしても?」
「シュヴァリエ侯爵令息、私にも勉強を教えてくださいませ」
「シュヴァリエ侯爵令息、おいしいお茶が手に入ったのです。一緒にいかがですか?」
何度声をかけても、彼は笑って断る。
そのたびに傷ついた顔を見せるセレナ。
その表情が、私の胸の奥を甘い毒で満たしていった。
「シュヴァリエ侯爵令息はご友人が多いからお忙しいのよ」
「彼の方はお優しいから、きっと先の約束を断れないのね」
「みんなが気軽に声をかけなくなればいいのにね」
私の言葉に、セレナは大きな瞳を瞬かせて頷いた。
「私以外の人が、話しかけるのがいけないのだわ」
セレナはレオナルド様の友人や取り巻きに苦言を呈し、彼に好意を示した女生徒には、怒りをあらわにした。
「レオナルド様に近寄らないで」
そう言う彼女は、まるで物語の悪役だった。
「婚約者でもないくせに、何様のつもりかしら」
陰でも表でも、セレナは非難された。
昔セレナを慕っていた者たちも、次々と離れていった。
――かつて「お姫様のよう」と呼ばれた彼女の傍に、今も残っているのは、私だけだった。
ある日また、いつものようにセレナは彼に声をかけた。
「珍しいお茶を手に入れたのです。ぜひ、二人きりで飲みませんか」と。
いつものように断られると思っていた。
だから私は、彼女に付き添っていたのだ。
「構いませんよ」
その一言で、場の空気が凍りついた。
「レオナルド……」と心配げに名を呼ぶ友人に、彼は「大丈夫だよ」と穏やかに微笑んだ。
その後、彼は友人の耳元に何かを囁いた。
内容は聞こえなかったが、友人は納得したように頷いた。
私がどうしようかと考えている間に、彼は振り返り、再び微笑んだ。
その微笑みに、思わず息を呑んだ。
決して恋などしていないはずの私でさえ、頬が熱くなるほどの美しさだった。
だから――止めそびれたのだ。
「ただ、婚約もしていない男女が人目のないところで、というのは問題がありますね。サロンで構いませんか」
丁寧な問いかけの形をとりながら、反論の余地を与えぬ言葉。
「どうぞお手を」
その手が差し出された瞬間、セレナは夢見る姫のように彼の手のひらへと指を重ねた。
人々の視線を浴びながら。
サロンに着くと、セレナは私にお茶を淹れるよう命じた。
――これは、約束だった。
セレナが彼をお茶に誘えたなら、私がそれを淹れること。
そうでなければ、目的を果たせないから。
まさか、こんな形になるとは思わなかった。
潤んだ瞳で彼を見上げ、「レオナルド様はどんなお菓子がお好きですか」と問うセレナを横目に、私は震える手でポットを傾けた。
混乱と高揚が交互に胸を叩く。
“どうしよう”という恐怖と、“ついに来た”という想い。
震える手を叱咤して、二人の前にカップを置いた。
そのとき――
「あぁ、私にはそちらを。こちらのお茶は、貴女が飲んでください」
セレナと自分のカップを入れ替えるように、彼は静かに言った。
「え……?」
先ほどまで楽しげだったセレナの顔から、血の気が引いた。
許されないまま彼を名で呼び、恋に酔っていたその頬が、真っ白に冷えていく。
「どうしたのですか? ……やはり、飲めないのですね」
残念そうに眉を下げる。
その表情でさえ美しく、セレナが見惚れているのがわかった。
「レオナルド、先生を呼んできた」
先ほどの友人が、すぐに教師を連れて戻ってきた。
あぁ――彼は、最初からすべて分かっていたのだ。
「何があったのです、レオナルド君」
「おそらく、私のカップになんらかの薬が仕込まれているようです。ご確認いただけますか?」
その言葉で、セレナがハッと顔を上げた。
「そんなことしていません!」――そう言おうとしたのだろう。
けれど、言えなかった。
私がその言葉を塞ぐように、崩れ落ちたから。
「申し訳ありません……。私はいけないと言ったのです。でも、どうしても……彼女を止められなくて……」
「マリエル……?」
セレナの迷子のような声。
私はそれに、応えなかった。
「本当に、申し訳ありません!」
涙をこぼす。ぽろぽろと、同情を誘うように。
すると、遠くで見守っていたアランが、駆け寄ってきた。
「マリエルは悪くありません! 彼女は昔からアーヴィング伯爵令嬢に逆らえないのです! 僕が保証します!」
「……とにかく、一人ずつ話を聞こう。まずは――セレナ君、こちらへ」
逃げられないように、教師がセレナを連れて行く。
呆然とした顔。
空っぽなお姫様。私を映さなかったお姫様。
崩れゆくその姿を見て、確かに思った。
――ざまあみろ、と。
……それなのに。
「満たされない」
「マリエル? 何か言った?」
私を抱き寄せるアランに「いいえ」と首を振る。
そのとき、私たちの上に黒い影が落ちた。
「仮に自分の意思ではなかったとしても、私に薬を飲ませようとしたのは重罪だ」
顔を上げると、空色の瞳があった。
冷たく、透明で、底が見えない。
背筋が凍えた。
彼は”毒”ではなく”薬”と言った。
どうして、毒ではないとわかったのだろう。
私たちが仕込んだのは――ほんの少しの媚薬だった。
『これを入れれば、きっと胸を高鳴らせてくれるわ』
そんなふうに、私がセレナを誑かしたのだ。
もし”毒”と言われていたら、私たちは”殺人未遂”だった。
伯爵家や子爵家の人間が、侯爵家の――それも国政に大きな影響力を持つシュヴァリエ侯爵家の令息に毒を盛る。
死罪となっても、おかしくない。
下手をしたら、家ごと取り潰されてしまうだろう。
けれど”薬”なら、まだ生きられる。
重く長い処罰は受けるだろうし、二度と社交界に戻れないけれど、死にはしない。
それはきっと、娘を溺愛するアーヴィング伯爵家への”貸し”となる。
――アーヴィングは、二度とシュヴァリエに頭が上がらない。
この美しい人は、どこまで見抜いていたのだろう。
どこまで見越して、私にお茶を淹れさせたのだろう。
『仮に自分の意思ではなかったとしても、私に薬を飲ませようとしたのは重罪だ』
あぁ――この方は、“誰の意思か”を明言していない。
気付いているのだ。
セレナが、私に導かれただけだということを。
それでも、子爵家と伯爵家、どちらにより大きな貸しを与えるかを天秤にかけて、この裁きを選んだ。
きっとこの方は、本当の私にふさわしい罰を下す。
「巻き込まれただけ」なんて、優しい罰ではなく。
罪を共にした者としての、等しい罰を。
「ありがとう、ございます……」
小さな声が漏れた。
その瞬間、ようやく気付いた。
私は、セレナを壊したかったのではない。
――セレナと一緒に壊れたかったのだ。
だって私は、ずっと前から壊されてきた。
セレナの光に照らされながら、少しずつ、少しずつ。
壊され続けて、残ったのは、空っぽの私。
だからね、セレナ。
二人きりで、壊れてしまいましょう。
ぐちゃぐちゃに混ざって、何もかもなくなって。
そうしたら――その瞳は、きっと私を映してくれるでしょう?
――愛してるわ、私のセレナ。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
「いいな」と感じてくださった方は、ブクマや下の⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎を押して応援してもらえると嬉しいです。
ポイントが入ると、たくさんの方に読んでもらえるようになるので、とても励みになります。
また、長編小説『もしも、あの日に 〜違う選択をしていたら、今は変わっただろうか〜』では、レオナルドの物語を描いています。
よろしければ、そちらも覗いてみてください。




