終章: 負けヒロインが絶対に負けないラブコメ
「知らない天井だ……」
「知らない天井じゃないよ。ただの保健室の天井だよ」
ベッドの上でゆっくりと目を覚ました俺は、お約束のセリフを口にしようとしたところで奈月に即ツッコまれた。
「奈月……」
「奈月だよ~」
「舞台劇は? 無事にできたのか?」
「10分遅れで始まったけど、君のおかげで最後までうまくいったよ。あの時は……私を助けてくれて……ありがとう」
そうやって、まっすぐに感謝されると、心がちくりと痛んだ。だって背景板が倒れる直前まで、俺は彼女を助けるべきか迷っていたんだから。
「そ、そうか……怪我がなくてよかった……」
奈月は足首を捻らず、舞台劇は予定通り行われた。つまり真紀乃と優木の共演シーンは完全にぶち壊しだ。
起き上がろうとした瞬間、後頭部に鋭い痛みが走り、思わずその箇所を手で押さえた。
「まだ痛むの?! 保健の先生は軽い脳震盪だって言ってたけど、やっぱり病院で診てもらった方がいいよ……」
「板にぶつかっただけだし、大したケガじゃないよ」
「無理しないでね、何かあったらちゃんと言ってね?」
奈月は優しく微笑み、そっと近寄ってくる。繊細な指が私の髪を梳り、後頭部ををそっと撫でた。
「私が心配だから」
「……!や、やめろって……子供じゃないんだから……」
「あら、照れてる? かわいい~」
「おいたちバカ、見舞いに来てやったわよ……なんか邪魔した?」
バンッと保健室の扉を開けた真紀乃が、目に飛び込んできたのは奈月が俺の髪を優しく撫でる、いかにもラブコメ的な距離感のシーンだった。その親密な動作に時間が止まったように感じられ、奈月の手は空中で固まり、三人の間に気まずい空気が流れた。
「あ! ちがっ、これには深い意味……! ま、真紀乃ちゃん来てくれたし、私もうそろそろ行くね! また明日、橘くん!」
「ああ……また明日……」
そう言うと奈月は慌てて保健室を後にした。真紀乃はドアを閉めると、さっきまで奈月が座っていた椅子にどっかりと腰を下ろした。
「あんた、もしかして催眠術でも使った?」
「は? 何言ってんだよ?」
「冬美は公演が終わってからずっとここにいたのよ。頭ぶつけただけで奈月のお世話が受けられるなんて、ずるいわ」
「そうか……ずっと付き添っててくれたんだ……」
ホント、いつも彼女に世話になってばっかだな。家に来てくれたときも、今回も……感謝すべきなのは、俺の方なのに。
真紀乃にも、ちゃんと伝えなきゃ。
「わざわざ来てくれてありがとな。それと……ごめん」
「なんで謝るのよ?」
「俺が余計なことしちゃったから……奈月を助けたせいで、お前が優木と共演できるチャンス、台無しにしちまった」
「はあ……あんたって人はほんと……」
真紀乃は深くため息をつくと、さっきの奈月のように俺のそばへ寄ってきて――次の瞬間、俺の頬をグイッと思い切りつねった。
「いっ……痛っ痛っ!」
「あんた、やっぱり頭やられたのね。優木との共演より、冬美の安全の方が大切でしょ」
真紀乃の目は不機嫌そうに俺を睨みつけた。
「もしあんたが、あたしのために冬美を見殺しにしてたら、絶対軽蔑するわ」
そう言い終えると、ようやく指の力を緩めてくれた。俺の頬はすでに赤くなっていた。
「でも……」
あれが小説の本来の展開で、俺がそれをぶち壊したんだ。
「それに今回なんて初めての舞台劇よ。これから共演する機会なんて山ほどあるでしょ?このあたしを誰だと思ってんの。こんなことで挫けるわけないわよ」
「……!」
その瞬間の真紀乃は眩しいほど輝いて見えた。まさか彼女からこんな王道ヒロインのような台詞を聞けるとは。
確かにそうだ。この負け犬ヒロインは不器用で、素直じゃない。恋の道は茨の道だけど、それでも諦めずに戦い続ける。
それが、俺が彼女の背中を押したいと思った理由だった。
「それに……これからも……協力してくれるんでしょ?」
真紀乃は照れくさそうにそう言った。保健室の薄暗い光の中でも、彼女の頬が少し赤らんでいるのがわかった。
「……ああ、もちろん」
「……! ふ、ふん! 今回全然役に立たなかったんだから、次はちゃんしっかりしてよね!」
真紀乃は目を逸らし、口元を手で隠しながら、右手を差し出した。
「これからも、よろしく……」
「お前も結構恥ずかしいことするんだな」
「うるさいわよ、ぶん殴るからね」
「はいはい……」
私も右手を伸ばし、彼女の熱くなった小さな手を握った。
「これからもよろしくな、真紀――じゃなくて、水宮……」
「……空気台無しにしないでよ。もう……呼びたいなら、好きに呼びなさいよ、別に嫌じゃないから……」
「……! じゃあ、仕切り直して――」
「これからもよろしくな、真紀乃」
◇
翌日、いつも通りの登校日。こっちの世界に来てから、もうそれなりに時間が経ったけど――早起きだけは一生慣れそうにない。
「ふわぁ~……」
「おはよう、橘くん」
登校途中、肩をトンと叩かれ、振り返った瞬間、指先が俺の頬を突いた。
「奈月……おはよう」
「今日ちゃんと登校してえらいえらい~」
からかうように笑う奈月。
「当たり前だろ?俺は品行方正・真面目優等生、不登校なんてするわけないじゃん」
「ははっ、そうでしたね、元不良君! あ、今日は私が日直だから先に行くね!」
そう言うと奈月は先に学校へと向かっていった。彼女の後ろ姿を見送っていると、突然背中に鞄がぶつかった。
「おはよう」
「痛いんたけど……そんな挨拶するやついるか?」
「朝っぱらいちゃついてんの見せられて、あんたのせいで朝からイラッときたんだけど」
「お前のイライラに休日なんてないだろ……ぐふっ!」
真紀乃は追い討ちをかけるように、今度は腹部に鞄をぶつけてきた。
「ご、ごめんなさい……俺が悪かったです……」
「ふん、わかってるならいい。ほら、ボーッとしてないで早く行くわよ、辰哉」
「……はいはい、今行きます」
俺は「まったくしょうがないな」って顔で、わがままて拗ねっぱなしの負けヒロインを見やり、置いていかれないよう急いで歩調を合わせた。
物語の最終章までは、まだまだ長い。途中で誤解もするだろうし、すれ違いもあるだろう。
でもゴールにたどり着くその日まで、俺は――
この、不器用で、わがままで、気まぐれで、それでいて世界一可愛い負けヒロインのそばにいて、
彼女に、最高の笑顔を咲かせたいと思うんだ。
だって――
負けヒロインが勝利する瞬間を、この目で見届けたいから。




