Interlude:《僕の冴えないラブコメ Fine》
『ピッ、ピッ――ピ――』
ホルター心電図のモニターに映るのは、不規則な心拍。点滴スタンドには生理食塩水と鎮痛用のモルヒネが吊るされている。今の彼女は、酸素マスクを着けてやっと血中酸素濃度を維持できている状態だった。
すでに通常病棟から、集中治療室へと移されていた。
「やあ、今日は調子良さそうね」
ラファエルはまだ仕事を終えていなかったが、早々とここへサボりに来ていた。
こんな時間も、もうそう長くは続かないと分かっていたから
もしかすると、今日が――最後かもしれない。
「どこを……見て……そんなこと……」
「無理に話すなよ。忘れたか? 私は聞こえるんだから」
【ああ……そうだったね。あなたの前ではプライバシーなんてなかったわね】
「まあまあ、そう言うないよ。本を返しに来ただけ。最終巻も読み終わったよ」
ラファエルは四次元ポケットから分厚い本の山を取り出し、ベッドのテーブルにそっと置いた。
【どうだった?】
「奈月エンドだったのは予想外だったけど、それ以外はすごく良かった。特に後半に進むにつれて、文章がどんどん洗練されていって、キャラクターの感情も繊細に描かれるようになって……まるで作者自身も一緒に成長していってるみたいで、ちょっと感動しちゃった」
【ほら、私の薦め通りでしょ?】
「他の天使たちにも勧めちゃった。今や天界で大人気のシリーズだよ」
【そう……作者が知ったら、きっと喜ぶだろうね】
……
「ねえ」
【なに?】
「叶えてほしい願いとかある?」
【急に? ええと……じゃあ『僕の冴えないラブコメ』の作者のサインもらってきて?】
「……それだけ? もっとでかい願いでもいいんだよ?」
【うーん……じゃあ異世界転生に加えてチート能力つきで?】
「おいおい、いきなり難易度が跳ね上がったじゃん」
【えー、制限多すぎでしょ……じゃあ――】
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
突然の呼吸困難。モニターの血中酸素濃度が急降下する。医師や看護師が駆け込んでくる中、ラファエルは指を弾いて透明のバリアを展開し、自分だけを彼らの視界から消した。
「酸素流量を15リットルに上げて。気管支拡張剤の静注も」
医師の指示で看護師たちが素早く動く。だが、容態は好転する気配がない。
【それじゃあ……彼に会わせてくれない?】
「『彼』って、誰のこと?」
【とぼけないの。全知全能のあなたにはわかるでしょ】
「ふふ、ちょっとからかっただけ」
【ねえ……私を治すことはできないの?】
「……それができるなら、もうやってるよ」
【そう……】
ラファエルは必死に処置する医療スタッフを見やり、無力感に苛まれる。だが彼女は驚いていない。だって、最初からこうなると分かっていたから。
「わかったよ……君の願い、確かに受け取った。我が名にかけて、必ず叶えてみせる。サインも取ってくる。異世界転生は……まぁ、なるべく努力するってことで」
「良かった……これでようやく……彼に、と言える……」
かすかに伸ばした左手がラファエルに届く前に力なく落ち、意識を失う。
ラファエルの耳に、彼女の心の声は、もう届かない。
「君と過ごした時間、すごく楽しかったよ。君の願い、必ず叶えるからね――牧野ちゃん」
ラファエルは白い立方体を空中に出現させ、彼女の左手に触れさせた。立方体は微かに輝いた。
『ピ――――――』
◇
私は――本当に最低な人だと思う。
私の存在は、結局周りの人を傷つけるだけ。
それが「奈月冬美」でも、「牧野春香」でも。
最初は本当に些細なことだった。
転んで擦りむいた膝、泣きじゃくる子供。行き交う人々の駅で、誰もが「誰かが助けるだろう」と思い、その子に目を留める者はいなかった。遅刻しそうだった私も例外ではなかった。
しかし、彼だけは足を止めた。
「大丈夫?お父さんかお母さんは?」
カバンから絆創膏を取り出し、優しく膝の傷に貼ってくれる。
「あ、ありがとう、お兄ちゃん……」
子供は涙をこらえ、震える声で答えた。彼は子供の手を引き、駅の案内所まで連れて行ってあげた。
2時間目のチャイムが鳴る直前、彼は慌てて教室に飛び込んできた。きっと、子供の親が迎えに来るまで待っていたのだろう。
その日から、彼のことが気になり始めた。
彼はクラスの影の存在、いわゆる「陰キャ」だった。教室では寝ているか、隅で静かに本を読んでいるか。
あれ、『星の影』を読んでる? 海外ではそこそこ有名な作品なのに、周りに話せる友達がいなくて。ちょっと話しかけてみたいな……
「『星の影』、読んでるの?」
◇
私たちは、友達になった。
出会った頃と比べ、彼は大きく変わった。努力して、少しずつ自分を変えて、明るくなって、自信もつけていって……その姿を見て、私は誇らしく思った。
最初はただの興味だったけど、一緒に過ごす時間の中で、気づけば彼のことを――好きになっていた。
「ねぇ牧野、最近放課後全然遊ばないじゃん。もしかして男できた?」
「そんなことないよ……大会が近いから、部活の練習で忙しくて……」
「本当? 最近あの陰キャばっか一緒にいるみたいだけど」
「一条くんのこと?」
「名前なんてどうでもいいよ。てか、まさかとは思うけど、あの陰キャのこと好きなの?」
「えっ!? 違うよ、私たち……ただの友達……」
突然の質問に言葉に詰まり、咄嗟に否定してしまった。
「でしょ?あーびっくりした~まさか本気で陰キャに恋してるわけないよね~」
「暇つぶしで相手してるだけだよね~牧野っちなら」
「え……それは……」
違う。
「じゃあ今日放課後カラオケ行こうよ! みんな行くよね~」
「いいね~行こ行こー!」
「久々に牧野っちと歌えるの楽しみ~」
「ご、ごめん……今日も部活があって……」
「え~部活なんて一回くらいサボってもいいでしょ? それとも……あたしたちより部活の方が大事ってこと?」
「え~ひどいよ~」
「牧野っち、また陰キャ君と遊びに行くじゃないよね?」
笑顔の裏に、冷たい視線が潜んでいる。
一人が親しげに私の肩に手を回すが、その指先には不自然な力がこもっていた。
「ねぇ牧野っち……もしかして、あたしたちと一緒じゃつまらないのかな?」
空気が固まった。
心臓の音だけが耳に響く。
彼女たちは親しげに囲んでいるようで、実は見えない檻を作り、私の逃げ場を奪っていた。
「ち……ちがうよ、そんなことない……」
「よかったぁ~じゃあ放課後決まりね~」
「あたしたち、牧野のためを思ってるんだから――」
もう一人が私の髪の先を指でくるりと巻きながら、耳元で甘い香水の香りと共に囁く。
「あんな陰キャ、あたしたちの可愛い牧野ちゃんに釣り合うわけないもんね」
「……」
――どうして、私は素直に気持ちを伝えられないんだろう。
ホームルームの時間、彼は自信満々に書いた脚本をクラスのみんなに配った。しかし現実は残酷で、彼が得たのは容赦ない批判の嵐だった。
脚本を嘲笑され、心ない言葉で罵倒される彼の表情は、もう限界だと訴えていた。助けを求めるような目で私を見てた。この教室で、私だけが彼の味方だったはずなのに――
『まさかとは思うけど、あの陰キャのこと好きなの?』
……!
ちらりと彼女たちを見ると、すでに鋭い視線で私を睨みつけ、無言の圧力をかけていた。
「わ、わからない……」
彼の目を避け、冷たく俯いてしまった。
彼と向き合う勇気がなかった。
「そういえば牧野、あいつと仲良かったよね?今めっちゃ可哀想だから慰めてきてよ、超うけるんだけど」
とどめを刺すように、彼を追い詰めようとする。教室全体が「誰も彼の味方をするな」という空気に包まれ、衆目と彼女たちの圧力の中で、私は――言ってはいけない一言を、口にしてしまった。
「別に……私たち、そんなに親しいわけじゃない……」
違う。
あなたは何もおかしくない――それが本当に伝えたかった言葉だった。
彼は私の大切な友達で、大好きな人なのに、私は深く彼を傷つけ、信頼を裏切ってしまった。
ただの臆病者で、他人の目が怖くて、自分の恋心がバレるのが怖くて。
『私は、自分で関わりたい人を選んだの。周りがどう思おうと関係ないよ。大事なのは、あなたと私がどう思っているかだけ』
──きれいごとばかり並べて。
◇
「いや……ただ先生に二人の喧嘩を止めてほしくて……」
……ん?
小説の冒頭って、こんな感じだったっけ? 記憶と少し違うような……
これはこの世界に来て初めての「異常」だった。
「橘辰哉……?そんなキャラ、小説にいたっけ?」
ノートに書かれた名前を読み上げながら、私は必死に小説の記憶を掘り起こそうとしたけど、どうしても思い出せなかった。
クラスの他の子に聞いて、彼が学校の不良グループのリーダーだと知った。
先生の頼みで、分厚いノートとプリントを屋上にいる彼に届けることになり、初めて話した。
「真面目すぎるだろ……どうせ先生が面倒くさがって押しつけただけだろ。
それに、今日じゃなくても良かったじゃん」
一条君に似てる……話し方も、人と話す時に無意識に目を逸らす癖も、全部昔の彼にそっくりだった。
でも――まそんなわけないよね……
◇
「真紀乃ちゃん大丈夫?! 誘拐されたって聞いて心配したよ!」
私は真紀乃を抱きしめ、胸の奥から込み上げる感情を抑えきれなかった。
「ちょっと怖かったけど……助けてくれた人がいて……だから、大丈夫……」
ああ、確かに小説にそんなシーンがあったよね。主人公が誘拐された彼女を救出する場面。
「憂司くん、やるわね」
「優木? あいつがどうしたの?」
「え? 助けてくれたのって、彼じゃないの?」
「違うわ。あの金髪チンピ……橘が助けてくれたの」
「そうなんだ……でも、無事でよかった」
「うん……それよりいつまで抱きついてるの? 恥ずかしいってば……」
「はは、ごめんごめん……」
ありえないよね……
◇
「彼って、真紀乃のことが好きなのかな……?」
誘拐された彼女を助けて、今度はこっそり彼女と憂司くんの会話を覗き見している(私も今彼を覗き見しているけど)。もう明らかじゃない?
彼と話すたび、一条くんと重なって見えてしまう。でも、そんなことを思ってしまう自分自身が嫌になる。
現実は小説じゃない。橘くんは一条くんじゃない。彼を助けたって、あの時の過ちは償えない。
本心からか、自己満足のためか、あるいはその両方か。どうであれ、今の私が彼を助けたいと思うのは、ただ自分の心を少し楽にしたいだけかもしれない。
彼と真紀乃の距離を縮めるため、演劇部への入部を勧めた。二人を結びつけられるように。
でも歴史は繰り返した。私は彼を傷つけ、また身近な人を傷つけてしまった。どこで間違えたんだろう? それともこれが神様が私に与えた罰なのか?
もう嫌だ……最初から誘わなきゃよかった……それで誰も傷つかずに済んだのに……
もう、大切な人を傷つけたくない。
二日連続で欠席した彼にプリントとノートを届けると偽り、先生に住所を聞き出した。
「無理しなくていいよ? 橘君、ちょっと怖いし、行かなくても誰も責めないから」
「いいえ、大丈夫です。私がやりたいことです」
今度こそ、絶対彼を助ける。
たとえただの自己満足だとしても、あんな思いはもう誰にもさせたくない。
◇
「……その変更は全部却下だ。まだ問題があるならまた俺に相談してくれ、以上だ」
……やった。
彼は、自分の言葉で、ちゃんと伝えられた。
彼の横顔を見ていると、目頭が熱くなった。気づけば涙が頬をつたっていた。慌てて拭った――彼にも、他の誰にも見られたくなかった。
次は――私の番だ。
あの時、言えなかった言葉を、今度こそ伝えよう。
「彼は今回の公演の脚本担当です。この脚本も彼が書いたもので……」
……
「ママのおかげだよ」
「誰がママよ。ふふっ……」
私がどれだけ嬉しかったか、彼にはきっと想像もつかないだろう。
「本当に……よかった……」
これで私も少し、前に進めたかな?
ねえ、一條くん。
そっちの世界では、元気にしてる?小説は順調? ラファエルが楽しみにしていた真紀乃IFルートは書けるかな?
私はね、こっちの世界で、結構うまくやってるよ。ヒロイン待遇だし、君にそっくりな友達もできた。
真紀乃IFルートも読みたいけど、私にはもう無理かもね。
あの時のこと、今でもずっと後悔してる。
もし今、謝ったら――まだちゃんと、君の胸に届くかな?
「ごめんね……」
もし神様がもう一度君と出会う機会をくれたら、今度こそ――
絶対離さない。
その手を、ちゃんと握って――伝えるんだ。
「好きだよ」
ずっと、ずっと前から、君のことが、好きでした。




