第四章:デート・ア・ヒロイン(2)
「お邪魔します……」
「麦茶でいい?」
「うん、ありがとう」
絵梨花はキッチンの冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、コップに注いでからリビングに座る真紀乃に差し出した。
「じゃ、私は受験勉強あるから。おにい、ちゃんと接客してね」
「は? お前が呼んだ客だろ?」
「というわけで、水宮さん、また今度ゆっくりおしゃべりしましょうね!」
俺のツッコミは完全に無視され、絵梨花は二階の自室へと消えていった。
リビングには、俺と真紀乃、二人きり。エアコンの稼働音がやけに耳に響く。
……
コップの外側に浮いた水滴がぽたぽたとテーブルに落ち、壁の時計の秒針の音までが妙に大きく聞こえた。
お互い、相手が先に口を開くのを待っているような沈黙が続く。
こういう時、やっぱり男の俺が先に話しかけるべき……だよな?
「あの――」
「あの――」
ちょうど俺が口を開いた瞬間、同時に真紀乃も声を出した。この偶然の重なりに、再び沈黙が訪れる。
「ど、どうぞ……」
麦茶を一口飲んだ真紀乃が、言葉の主導権を俺に渡した。
正直、彼女に言いたいことは山ほどあありすぎて、何から話せばいいかわからない。
誘拐事件のことで心に傷を負ってないかとか、謝罪とか、中村たちが学校で絡んでないかとか……
頭の中をぐるぐる回って、でも口から出たのは――
「……優木とは仲直りした?」
言ってすぐ後悔した。あれだけ他に聞くべきことがあるのに、なんでそれが一番に出てくるんだ、俺。
「……あんたってやっぱりバカね。心配して損したわ」
真紀乃がため息をつき、いつもの口調に戻った。
「心配?」
「別にあんたのことを心配してたわけじゃないだからね! ただ、あんたの取り巻きが学校で『アニキがすごく気に病んでる』とか、『全部自分のせいだと思ってる』とかうるさくて、それでちょっとだけ、ほんの少しだけ気になっただけだから!」
「めちゃ心配してくれてたじゃん」
「そ・れ・は・重・要・じゃ・な・いっ! 言いたいのは、あたしが誘拐されたのは完全にあの加害者たちが悪いのであって、同じ被害者のあんたには一ミリも非がないってこと!だから――」
真紀乃がテーブルを「バンッ」と叩き、ぐっと俺に顔を近づけた。柑橘系のシャンプーの香りが鼻先をくすぐるほどの距離。
「勝手に罪悪感背負うのはもうやめなさい、わかった?」
「でも、実際俺のせいで――」
「あ・た・し・は・平・気!こんなことでへこたれるほど弱くないし、あんたのせいだなんて思ってもいないわ」
「……俺のこと、嫌いじゃないの?俺、あんな目に遭わせた上に、変態ストーカー誘拐魔だぞ」
「あーもう!本当面倒くさいから!ちょっとそこに立ってなさい!」
真紀乃の一声で、俺の足は勝手に立ち上がった。
「こっち来て、ここで動かないで」
真紀乃は立ち上がり、テーブル横のスペースを指差した。言われた通りに近づくと、距離が近すぎて、相手の息遣いすら聞こえる。女の子特有の甘い香りが鼻を刺激し、思わず顔を背けそうになったが、真紀乃から目を離すことができなかった。
真紀乃はゆっくりと一歩、距離を詰めてきた。
まさか……え? ちょっ、絵梨花がすぐ上にいるのに!? いや、まだ心の準備が――
思考が巡る中、激しい痛みが現実に引き戻した。真紀乃が全力で俺の足の指を踏みつけている。
「いってえええ!!」
「業界ではこれはご褒美」とか言う人もいるかもしれないが、そんなことはない。小指を角にぶつけた時と同じ、ただただ痛いだけだ。
……俺、さっき何を期待してたんだろう。
「痛い?」
「痛い」
「金属バットで殴られるより痛い?」
「そこまではないけど……」
「そう」──真紀乃は冷たく返し、再び俺の足を強く踏んだ。
「あんたのせいで拉致されたから、この仕返し。これでチャラよ。過去のことは水に流す」
「それだけでいいの?他に、何か俺にできることは――」
真紀乃が受けた苦しみを考えれば、足を踏まれるだけですむなんて、俺にとってはむしろお得だ。
「何度も言ってるでしょ、あたしは平気だって。あなたが償う必要なんてこれっぽっちもないの」
真紀乃は足を離し、元の位置に座った。
「それと、あんたの取り巻きに言っといて。学校で『水宮姉さん』って呼ぶのはやめなさいよ!まるであたしがヤンキーみたいじゃない!あんたも、あいつらも、妹さんも、普通に名前で呼べないの!?」
「でも、お前も俺のこと変態ストーカー誘拐魔って……」
「何か言った?」
呟きが真紀乃に聞こえたのか、彼女の声は急に氷のように冷たくなった。
「え、いや、しっかり対処します……」
「ふん。あなたもね、調子に乗って『真紀乃』って呼ぶのやめて。あたしたちそこまで親しくないんだから」
「了解……」
いつもの調子に戻った真紀乃を見て、張り詰めていた心がようやく緩む。
「あと……その……ありがとう……」
真紀乃はうつむきながら髪の先をいじり、かすかな声と少し照れた表情で呟いた。
ぶっ!──この180度ツンからデレに転換されると、心臓に本当によくない。鼓動が一瞬止まりそうになった。
「ま、まあ、一応あんたが不良からあたしを助けてくれたし……礼儀としてお礼言っておいただけだから、別に深い意味はないからね!」
わかってる、わかってるさ。真紀乃は優木のことが好きなんだ。深く考えちゃいけない。でも、この照れた顔を見ていると、どうしても考えてしまう。
「あ、ああ、どういたしまして……」
「もう──とにかくこの話は終わり!」
真紀乃はテーブルの麦茶をぐいっと飲み、自分をクールダウンさせようとしている。
そうだ、この流れ、この空気、今なら「あのこと」を聞く絶好の機会かもしれない。生死を共にした仲間同士だし、大丈夫だ。今更断られても、三度目の失恋くらいで俺の心が折れるわけない……!
……
正直、今回もダメだったら、本当に泣きそうになるかもしれない。
よし……!聞くぞ、今聞くぞ?
心の奥底に残っていた最後の勇気を振り絞って、麦茶を飲んでいる真紀乃に尋ねた。
「あのさ……補償とかいらないって言ってたけど、やっぱりどうしても気が引けてるんだ。俺にできることって、何かないかなって。例えば、あの……」
言葉がもごもごしてしまい、最初は真紀乃も首を傾げて不思議そうな顔をしていた。しかし数秒ほど考え込んだあと、「はあ」とため息をついた。
「またそれ?本当にしつこいわね。あたしの恋愛に他人の手助けなんていらないってば」
「そ、そうか……」
やっぱりダメか。何度も断られるうちに、心がどんどん擦り切れていくのがわかる。




