第二章:俺の負けヒロインがこんなに可愛いわけがない (7)
「会計、急いで」
レジを済ませて急いで外へ出ると、彼女はコンビニの明かりの下、建物の端で雨宿りしていた。
俯いていて、俺が横に立っても気づかない。
「あの嘘つき……ちゃんと約束したのに……」
彼女はしゃくりあげながら呟く。
すでに長い時間泣いていたのだろう、目は赤く腫れ、涙と雨水が混ざって頬を伝っていた。
何があったのか、だいたい察しはつく。どうせ優木絡みのことだろう。
原作では、雨が降るシーンなんてそんなに多くなかったし、特に序盤の時点ではごくわずか。
おそらくこれは、桐山が重い風邪をひいて、優木が看病に行ったあのエピソードの裏側……だろう。
原作では優木と真紀乃が約束していたことは軽く触れられていたが、そのとき真紀乃がどうしていたか、詳細は描かれていない。ただ後から謝って、事情を聞いて納得して――それだけだった。
「やっぱり……あたしなんかより、あの子の方が大事なのね……」
真紀乃の嗚咽交じりの言葉が、雨音に混じって聞こえてきた。
なぜか俺はその場から動けず、体が勝手に固まっているようだった。
真紀乃のすすり泣く姿を見て、胸がぎゅっと苦しくなる。
心の底に押し込んでいた衝動が、気づかぬうちにゆっくりと浮かび上がってくる。
「運命の赤い糸は……やっぱり、あたしとは繋がってなかったんだ……はは……勝手に好きになって、勝手に期待して……バカみたい……っ」
待て待て、何をしようとしているんだアイツ?!
次の瞬間、真紀乃は突然土砂降りの雨の中に飛び出した。
「どうして……どうしてあたしじゃダメなのよぉぉぉっ!」
灰色の空に向かって、彼女は叫んだ。
天に、世界に、自分の怒り、悲しみ、悔しさをぶつけるように。
しかし、空はその涙に応えてはくれない。
雨は止むことなく降り続き、彼女はその場にうずくまり、声を上げて泣き崩れた。
その泣き声を聞いていたのは、この場にいる俺と彼女だけだった。
この二週間、彼女がどれほど努力してきたか、俺は知っている。
勇気を出して声をかけ、素直になろうとして……それでも、うまくいかないなんてあんまりだ。
……ダメだ、橘辰哉。ここで情に流されるな。
さっきも情に流されて、痛い目見ただろ? もう忘れたのか?
そもそも俺はモブキャラだ。主人公たちに関わるべきじゃない。
俺みたいな奴が、いったい何ができるっていうんだ?
自分の運命さえ、コントロールできないくせに。
動け、俺の足、なぜ動かん!さっさと帰らないと、また妹に文句言われるぞ。
今の出来事は、なかったことにすればいいんだ。
『真紀乃ちゃんが不器用ながらも恋のために頑張る姿を見て、自然と応援したくなっちゃうじゃない?』
――ちくしょう、なんでこんなときにラファエルのセリフを思い出すんだよ。
見て見ぬふりをするほうが、動くよりも難しいって、こういうことを言うんだろうな。
気づけば、体が勝手に動いていた。
長い間、凍りついていた脚が、ようやく第一歩を踏み出す。
傘を差し、俺はずぶ濡れの真紀乃のもとへ駆け寄った。
傘をそっと彼女の頭上に差し出す。
俺には何もできないかもしれない。それでもせめて、少しだけでも彼女の背中を押してやりたい。
もう、女の子が泣いている姿なんて見たくないんだ。
傘の下の狭い空間で、彼女が顔を上げた。
俺は慌ててキャップを深く被り、顔をそらす。
「これ……貸すよ。そ、それじゃ、じゃあな」
「え……?」
真紀乃が状況を飲み込む前に、俺は傘を手渡して背を向け、ずぶ濡れのまま走り出す。
何をやってんだ、俺……
激しい雨の中を家まで全力で走り、勢いで傘を渡したことを少し後悔し始めていた。当然ながら、家に着いた時には頭のてっぺんからつま先までびしょ濡れだった。
「おかえり、待ってたよ……わあ!なんで全身濡れてんの!傘持ってったじゃん!あたしのアイスは大丈夫?!」
「一番気になるのはやっぱアイスかよ……ほら」
「ふう……溶けてなくてよかった。で? なにがあったの?」
包装を剥がしながら、絵梨花はアイスをくわえた。
「困ってる人を助けに行った」
「は? なにそれ、意味わかんない。まぁいいや。アイス食べられたし」
首をかしげながらも、それ以上詮索する様子はなかった。
気を遣ってくれたのか、ただ興味がないのかは不明だが。
テレビを見ながら、絵梨花はアイスをペロペロ舐め続けている。
受験生のくせに、テレビ見てる暇あったら勉強しろよ、まったく。
「はあ……」
髪も服もびしょ濡れ。まずは風呂に入るか。
◇
風呂から出て、少し気分が落ち着いた。タオルで髪を拭きながらキッチンに行き、冷蔵庫からさっき買った「神爪」を取り出した。
落ち着いてから、さっきの出来事を思い返すと、猛烈な羞恥心が襲ってきた。
「これ……貸すよ。そ、それじゃ、じゃあな」ってなんだよ……
あの状況でいきなり傘渡すとか、、どう考えても不気味だろ?
しかも全力ダッシュでその場を離れるとか、絶対変な奴だと思われている。
あぁぁぁぁぁ~~~!!!
恥ずかしすぎて穴があったら入りたいっっっ!!!
『この傘、君にあげるよ。僕は走って帰るから』
――ちょうどテレビの中で、絵梨花が見ていたドラマも、似たようなシーンをやっていた。
男が傘を差し出し、自分はカバンで頭を覆って雨の中へ――まるで俺じゃん!!
絵梨花は夢中で見入っているが、俺にはこれがさっきの自分の行動を思い出させるようで、死ぬほど恥ずかしくなった。右手が無意識にキッチンの壁を叩いている。
それに、ドラマの主人公はせめてカバンで頭を守ってるのに、俺はそれ以下かよ。
「何してんの、うるさいだけど」
「あ、悪い……続き見てていいよ……」
どうせもう俺は見てられねぇ。飲み物だけ持って自分の部屋に戻る。
恥ずかしいが、後悔はしていない。あのとき真紀乃を助けたいって思ったのは、本当だった。
だから、俺は決めた。いや、もう一つのことも決めたんだ。
ペンを取り、原稿用紙の上にタイトルを書く。
《僕の冴えないラブコメ:負けヒロインだって勝ちたい》