次に恋するときはきっとうまくいくだろう
未完成です
日曜の朝、約束の時間になっても、成瀬千夏は二階の自室でごろごろしていた。
窓の外は秋晴れ。
涼しい風が色づいた庭木を揺らしている。
成瀬の元々茶色っぽいふわふわした髪も一緒に揺れていた。
階段の下から、母親の声が聞こえてくる。
「ちーなつーっ、準備出来た? もうすぐ要平ちゃん来ちゃうわよ」
成瀬は大声で言い返す。
「やーだよー。休みの日がもったいない」
「何言ってんの。要平ちゃんがせっかく連れてってくれるんだから有難く思いなさい」
「ひっでー。何で母さんが勝手にオレの予定決めてんだよ」
成瀬は気立ての良い大型犬のような顔立ちを歪めて、ぶつぶつ文句を言った。
要平ちゃんというのは、三軒隣に住んでいる久保要平という高校生のことだった。成瀬とは子供の頃から遊んでいる仲だったが、彼は頭の出来が良く、都内でも有名な進学校に通っている。生憎、成瀬はそれほど勉強が得意ではないので、家から近い公立中学でのんびりすごしている。夏休みを過ぎてもまだ、受験生だという自覚がなかった。
それを心配している母親は、何かと息子をやる気にさせようと日々画策している。今日も久保の学校の文化祭に成瀬を連れて行ってほしいという約束を独断で取り付けていたのだった。環境の整った有名校を目にすれば、良い刺激になるのじゃないだろうかと、淡い期待を抱いていた。
当の成瀬は、家でぼうっと過ごす予定だった日曜日を潰されてとても不機嫌だった。
そこへ、玄関からチャイムの音が聞こえてきた。
「こんちわー」
久保の陽気な声が聞こえてくる。
「いらっしゃい、要ちゃん。ごめんなさいねぇ、あの子ったらグズグズしてて」
母親と二人で階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
「成瀬、要ちゃん来たわよ」
ノックもなく、成瀬の部屋のドアが開けられた。
「やだって言ったじゃん」
床の上に転がって駄々をこねる成瀬に、久保はにやりと笑顔を浮かべた。
「おばさん、オレがやりますよ」
そう言って彼は、成瀬の背中を足で踏みつける。
「ぐぁっ」
「おい、起きろ」
「ひでー、要平兄ちゃんが苛める」
「中三にもなってナニ子供みてーなこと言ってんだ。行くぞ」
「イテテテテ」
ぐいぐい体重をかけられて、成瀬は呻いた。
「わかった。わかったって」
しぶしぶ立ち上がる。
久保は外見だけではとても頭が良いようには見えない。大柄で眉が太いせいか、気の良い兄貴という容貌だった。
成瀬はTシャツの上に薄いパーカを引っ掛けて、家を出た。
久保の通う稜家高校までは電車とバスを乗り継いで通学する。時間がかかるので、彼は毎朝早く家を出ている。成瀬とは生活時間帯がずれているため、小学校を卒業してからここ数年はそれほど会う機会がなかった。それでも、昔と変わらず成瀬を小さい子供扱いする久保の態度が、成瀬には照れくさかった。
「こっちこっち。早く来いよ」
「わかってるよ」
有楽町線の駅からバスで十分ほど、神社の前のバス停で二人は降りた。
普段は洒落ッ気ひとつない男子校だが、文化祭の日だけは、通学路からすでに近隣の女子高生で溢れていた。
ゆるやかな斜面の上に建つ校舎には、学校のキャッチフレーズが盛り込まれた大掛かりな入場門が飾られていた。何度も改装を重ねられた後が残る校舎の中の壁面も、生徒達によって工夫を凝らして彩られている。
各教室で、クラスや部活動の出し物や展示の呼び込みが行われている廊下を久保の後について歩いていた成瀬は、往生際悪く文句を言う。
「あーぁ、何が悲しくて男子校の文化祭なんか来なきゃいけないんだよ」
久保は冷たく返す。
「おばさんはオレみたいなエリートコースを歩ませたがってんのに、息子がこれじゃ不憫だね」
「そっちこそ、どこがエリートだか」
成瀬は憎まれ口を叩いた。
「ねぇねぇ、腹減った。朝からなんも食ってない」
階段を昇りながら久保は顎に指を当てる。
「んー、うちのクラスは食品やってないからなぁ。三組がやってる女装喫茶でいいか」
「げっ。なにそれ」
聞きなれない単語を聞いて、成瀬は呻いた。
確かに母親の言うとおり、名門校の設備は違う。各教室に空調もプロジェクターもそろっている。けれど、やはり男子校なんかロクなものじゃないと思った。
「ははは。昨日行ってみたけど、食いもんはまともだったぜ。けっこう似合うやついるんだよな」
そのあたりの感覚が麻痺しているのか、久保は気にせず笑い飛ばした。
「要平兄ちゃんのクラスは何やってんの?」
「演劇」
「えっ。要平兄ちゃんも?」
「おう、主人公の恋敵の騎士役をダブルキャストでやってるぜ。これがPTAのお母様方に大喜びされちゃってさぁ」
「えっ。もしかしてそれも男子だけでやってるわけだよね……サムイなぁ。他になんか面白いことないの?」
成瀬はうんざりしつつ聞いた。
「あとは部活のほうがあるけど」
「部活って何やってるだっけ?」
そういえば、今まで彼から部活の話を聞いた記憶がない。入っていないのか、それほど熱心に参加していないのだと思っていた。
「……写真部」
久保は、何故か一瞬の間を置いて答えた。
「写真部ぅ? へーぇ、地味だね」
意外な答えに成瀬は笑った。
「余計なお世話だ」
久保は軽く応じて、差し掛かった階段の上を指差した。
「せっかくだから見ていけよ」
「いいけど」
連れて行かれた教室は、東校舎の端にあった。模造紙に「写真部」とそっけなく書かれた教室は、作品展示という目立たない企画だけに閑散としていた。
受付の机では二人の生徒が暇そうに、どこかの出店から買ってきたらしいクッキーを食べていた。
「よ、はよー」
「おはようございます」
久保に向かって丁寧に挨拶したところを見ると彼らは後輩のようだ。学年章の色が違う。三年の久保は赤、彼らは青だった。
「おじゃましまーっす」
成瀬は彼らの前を通り過ぎて教室の中へ入って行った。
仕切りパネルで作られた道に沿って、大きく引き伸ばした写真がフレームに入れて掛けられて展示してある。それぞれの写真の下には撮影者の名前が貼ってあり、一人で複数展示している生徒もいた。
風景もあれば、人物もある。
特にテーマはなく自由課題となっていた。
「要平兄ちゃんの作品はどれ?」
成瀬は久保を振り向いて聞いた。
「あー、これこれ」
彼が指差した作品は入り口から近いところにある、気持ち良さそうに寝ているゴールデンレトリバーを写したものだった。
「あっ、これ、大田さんちのリタじゃん。手抜きしてんなぁ」
「うっせぇ」
久保の文句を背に、成瀬は端から順にパネルを眺めていった。
しょせん素人たちの未熟な写真には、取り立てて何の感動もわいてこなかった。
ある一枚の写真の前に立つまでは。
そこには、校舎の屋上ではしゃぐ稜家の生徒達が映っていた。
学年章がバラバラだが、仲良さそうに笑っている彼らのその中央に、ひと際、きれいな顔の生徒いた。
稜家のストイックな制服がすらっとした体つきに良く似合っている。
さらさらの黒髪に大きな黒目。細い顎。
パネルの前に立っていた成瀬は、体ごと吸い込まれそうな感覚を覚えた。
「お、いいセンスしてんじゃん」
後ろから久保に声をかけられて、成瀬はびくっと背筋を伸ばした。ドキドキして聞く。
「な、なんで?」
彼は答える。
「これ撮ったヤツ、けっこう有名な賞取ったりしてさ、卒業後は写真で食っていけるんじゃないのって言われてるくらいなんだぜ」
「ふぅん?」
パネルの下には「三年五組/桧山遙」と撮影者の名前が記されていた。
しかし、成瀬に写真の良し悪しは分からない。撮影者にも興味はない。
被写体が気になっただけだ。
「ここに写ってる人は?」
「それ? 全員うちの部員だな」
「今いる?」
聞くと、久保は受付の二人に声を掛けた。
「おーい。他の奴らはどこ行ったんだ?」
彼らは首を傾げる。
「さぁ。みんな昼飯はここで食うって言ってましたけど」
「桧山先輩なら実行委員会にいると思いますよ。あの人、いろいろ掛け持ちしてっから」
「あーそう」
「探してきましょうか?」
「いや、いい。いい」
久保は手を振った。
会話を聞いていた成瀬はがっかりしたけれど、もしこの場にこの人がいたとしてもどうもできない。
久保の横でひそかに拳を握り締める。
「決めた。オレ、この学校にしよ」
「しよって、お前、自分の成績わかっていってんのか?」
久保は面食らって聞いた。
いくらまだ秋とはいえ、成瀬の成績がな成瀬か厳しいことくらい、成瀬の母親から聞かされていた。
しかし、彼は根拠のない自信を見せる。
「いいじゃん。目標決めたんだから。願書出すのはこれからだし、志望校決めるのは自由でしょ?」
突然の心変わりに久保は呆れる。
「まぁ、やる気になったのはいいことか。もしかしたら奇跡が起こるかもしれないしな」
「でしょ?」
「必死で勉強したらの話だぞ」
久保は冗談半分といったところで言った。
「さて、と。腹が減ってたんだったろ? 女装喫茶行くか」
「えー、やだぁ」
「いいから来いって」
いつまでもその写真の前から動こうとしない成瀬は久保に引きずられ、呼び込みで賑わう廊下を歩き出した。
二
入学式の頃は満開だった桜も散って、窓から見える桜並木はぽつぽつと黄緑色の新芽が吹いている。
担任からも無理だと言われていた稜家高校に成瀬は、まわりの心配をよそに奇跡的に合格した。スタートはだいぶ遅れていたが、真面目に塾に通った甲斐があったというものだ。
稜家高校の紺色のネクタイは、自分でも思っていたより似合っていた。
入学式、オリエンテーション期間と続き、ようやく通常授業一日目の放課後、打ち解け始めていたクラスの生徒たちから、放課後、成瀬は声をかけられた。
「なぁ、成瀬は見学行いかないのか?」
帰り支度を済ませ、教室を出ようとしていた成瀬は聞き返す。
「え? どこに?」
「部活だよ、部活見学」
級友らは、ひらひらと一枚のプリント用紙を掲げて見せる。
そういえば今朝、担任教師から入部届けを配られていた。新入生は二週間以内に提出することになっている。それまでどこの部を見学しようと自由になっていて、迎える先輩たちは各自趣向を凝らした企画を用意しているということだった。
しかし成瀬は興味なさそうに手を振った。
「オレはいいよ。決まってるもん」
「へぇ、どこに入るんだ?」
「写真部」
きっぱり答えた。
級友らは顔を見合わせる。
「えぇー、意外。地味なとこ選ぶなぁ」
「この学校に写真部なんかあったっけ?」
失礼なことを言われて成瀬は頬を膨らませる。
「あるよ。あるに決まってるじゃん」
言い切った彼の後ろで、ガタンと席を立つ音がした。
「あ、あの」
「ん?」
振り向くと、ぽっちゃりした気の弱そうな級友が立っていた。
「成瀬くん」
呼びかけられても、成瀬は咄嗟に彼の名前が出てこない。
「えっと、ごめん、まだ」
「藤井だよ、藤井」
級友の一人が素早く小声で耳打ちした。
藤井という名らしい彼は言う。
「成瀬くんも写真部に?」
「え。う、うん」
「良かった。オレもなんだ」
「あ、そうなんだ」
成瀬は今まで一言も喋ったことのない、印象に残っていない彼に突然親しげに言われて少し困った。
しかし、彼は熱心に言う。
「オレだけじゃ無理だって思ってたんだ。でも、二人だったらどうにかなるかもしれない」
「無理って、何が?」
「写真部を作ること」
「へ?」
成瀬はきょとんと聞き返す。
「何で。写真部ってあるじゃん」
「ないよ」
彼はあっさり答えた。
「え?」
「なくなっちゃったんだ。去年まではあったんだけど」
にわかには信じがたいことを聞いて、成瀬は叫ぶ。
「うそ!」
去年の文化祭に存在した部が今はないだなんて信じられない。
久保からも聞いていない。
「何で? どうして?」
成瀬は軽いパニックになりながら聞いた。
それには藤井も答えられない。
「わ、わかんない……でも……」
考え考え、彼は言う。
「顧問だった神原先生なら知ってるかも。オレもこれから職員室に新部設立届もらいにいこうと思ってるんだけど、良かったら成瀬君も一緒に」
「行く!」
成瀬は叫んだ。
ちゃんと自分で確かめるまで信じられない。
「う、うん」
肯く藤井を追い越し、成瀬は教室を飛び出して、二階にある職員室へと向かって駆け出した。
放課後の職員室の中は忙しなく教師が動き回っていた。誰一人、ひょっこりやってきた新入生には目もくれない。
「神原先生ってどこ?」
「えーっと、あ、あの人」
藤井は、スチール製のキャビネットが並んだ壁の奥のほうを指差した。そのあたりには、長い髪を夜会巻にした三十代の色っぽい女性教師がいて、他の生徒と何事か話し込んでいるところだった。
年を取った男性教師ばかりのこの学校では珍しいタイプだ。職員室を見回しても、彼女が一番若い女性のようだった。さぞかし生徒に人気があるだろう。
二人は近くまで行ってうろうろしながらしばらく待っていたが、彼女と生徒の話が終わる様子がない。
我慢できなくて、成瀬は呼びかけた。
「お話中すみません。神原先生」
彼らはぴたりと話を止めた。
「あら、私?」
彼女はようやく新入生二人に注意を向けた。
「あの、オレら一年なんですけど、ちょっとだけ質問してもいいですか?」
「いいわよ。なぁに」
「写真部、何でなくなっちゃったんですか」
思いも寄らなかった質問内容に、彼女は目を丸くした。
「あらあら、入部したかったの?」
「はい!」
成瀬と藤井は元気良く答えた。
藤井は言う。
「あの、オレ、中学でも写真部だったんで、ないんだったら新しく作りたいんですが」
隣で聞いていた成瀬は驚いて藤井を見る。
勝手なことを言わないで欲しい。
「じゃなくて、作るより前に、去年まであったじゃないですか。何でいきなりなくなっちゃったのか説明してください!」
すると、彼女は困惑して、隣にいた生徒に向かって尋ねる。
「どうする? 夏浦くん」
尋ねられた彼はあからさまに迷惑そうに眉を潜めた。
「オレに聞かないでくださいよ」
「だってアナタに関係あることじゃない」
「え?」
成瀬と藤井は顔を見合せる。
どういうことか意味がわからない。
その生徒は新入生を一瞥して言う。
「そんなん決まってるでしょ」
「決まってるって?」
聞いたのは成瀬だった。
彼は答える。
「この学校に写真部はもういらない」
「な」
成瀬は思わずカッとなった。
「そんなの、何でアンタが決めるんだよ!」
神原は苦笑して宥める。
「落ち着きなさい。あのね、最後の部長はここにいる夏浦司くんだったのよ」
「は?」
成瀬はぽかんと口を開けた。
夏浦は言う。
「そうだよ。写真部はオレがつぶしたんだ。だから、今さら復活させようなんて余計なことするな」
「はぁ? アンタ何言ってんの?」
傲慢な物言いに成瀬は怒り心頭だった。
彼はそれ以上議論する気はないというふうに、顔を背けて出入り口の方向へ歩き出していってしまった。
成瀬は、慌ててその後を追う。
「ちょっと待ってよ」
廊下に出て、彼の背中に向かって叫んだ。
そして、やっと思い出した。
あまりにも印象が違うからわからなかったけれど、あの顔は見覚えがある。
「アンタ、あの……!」
去年、あの写真に写っていた人だ。
成瀬は少なからずショックを受けた。
きれいな顔のつくりは同じだけれど、あの写真の中で笑っていた面影は何一つない。
「今年の一年は質が悪いんだな」
振り向いた彼は表情ひとつ動かさず言い捨てて、成瀬の目の前を去っていった。
本当のことを言えば、成瀬にとって写真部なんか、なくても困らないものだったのだ。
あの人に会いたかっただけだ。部活がダメなら直接探しに行くつもりだったけれど……。
大きく深いため息が出る。
あんな人だったなんて思わなかった。
せっかく見とれるくらいキレイな顔していても、冷たくて、意地が悪い。
何でオレはこうまでしてあの人に会いたかったのだろう?
ムカムカする気持ちを抱えて職員室の前へ戻って来た成瀬は、ドアの前でうなだれている藤井の姿を見つけた。
「藤井」
「あ、成瀬くん」
彼は無理をして、冴えない笑顔を浮かべた。
がっかりしているのは彼のほうも同じだ。写真部へのこだわりもまっとうな理由からなのだから。
成瀬は気の毒になって彼の丸い肩を叩いた。
「お前さぁ、こんなことであきらめんなよ。どうしても写真部やりたいんだろ?」
「う、うん」
「別にあの先生が顧問じゃなくたっていいんじゃねーの。かわりに探そうぜ。出来ることがあるなら、オレ、協力するから」
成瀬は力強く言った。
藤井は青白い顔をかぁっと赤くする。
「そうだよね。担任に相談してみる。あと、規定の人数集めるためにポスター貼ったり」
「うんうん。それいいな。やろうぜ!」
「やる! ありがとう!」
成瀬の激励に、藤井はとても感激したようだった。
けれども、成瀬の気持ちはおさまらない。
二人で教室へ戻ってカバンを取って、一目散に校舎を出た。
家へ帰ると久保が待っていた。
「おかえり」
彼は勝手に成瀬の部屋の中でCDをかけ、ベッドに腰掛けて雑誌を読んで、ゆったりくつろいでいた。
大学生になった彼は、今月から成瀬の家庭教師として雇われることになった。
稜家に入ってしまった後は、もう勉強なんかどうでもいい成瀬だったが、レベルの高い学校の授業についていけなくなることを心配して母親が頼み込んだのだ。
久保のほうも、バイトを探す手間が省けて好都合のようだった。週に二日は成瀬の帰宅時間に合わせてこの家にやって来ることになっていた。
「要平兄ちゃん!」
顔を見るなり、成瀬は叫んだ。
「何で黙ってたんだよ!」
「何が」
「写真部、なくなったって」
すると、久保は初耳とばかりに驚いた。
「え?」
「知らなかったの?」
久保は黙って頷く。
成瀬は力が抜けて、その場に座り込んだ。
「えー。何だよそれ」
「なくなったってどういうことだ?」
「二年の夏浦って人が部長で、つぶしちゃったって」
「……あぁ……」
それを聞いて、彼は難しい顔になった。
しばらく俯いて、それからしみじみ呟く。
「んー、まぁ、それもあるだろうな」
成瀬は呆れる。
「なにそれ。どうしてだよ」
「オレが卒業したあとの話は知らねーよ」
久保はさっぱり突き放した。
成瀬はむっと口を尖らせる。
「そんなんおかしくない? うちのクラスの奴なんか中学んときから写真部で、高校でも入ろうって決めてたんだって。かわいそうだと思うだろ?」
「うんまぁ」
「何なの? あの人。勝手に部をつぶしちゃうなんてさ」
「そういうなよ。まさかお前が写真部に入りたいとは思わなかったな。オレとしてはなくなってくれて良かったよ」
「はぁ?」
成瀬はわけがわからなかった。
久保の、珍しく煮え切らない態度が気落ち悪い。彼は、懐かしそうに、痛い場所を探られたように目を細めていた。
「あいつ、元気だったか?」
成瀬は答える。
「知るか。すっげ冷たい態度だったよ。性格悪そ」
「そうかぁ?」
久保は苦笑した。
「そんなことないだろ。夏浦はカワイイよ。お前なんかよりずっと」
「ひっで。要平兄ちゃん、どこでバイトしてると思ってんだよ。オレの味方してくれたっていいんじゃない?」
成瀬は思い切り舌を出した。
夏浦に違う面があることくらい彼だって知っている。あの写真の中の彼は今とは別人のように明るく笑っていた。
あの人に会いたかったのは、ひと目惚れみたいなものだ。
鮮やかな恋に似ていた。
そのためなら、勉強だって何だって出来るような気がしたんだ。
久保は言う。
「オレら三年が満場一致で部長を夏浦に任せたんだ。その後でつぶそうがどうしようが知ったことじゃない」
「でも、オレは納得いかねーよ! 別に、写真が好きとか写真部をどうしてもやりたいってわけじゃないけどあいつにジャマされるのはイヤだ」
「ジャマしてるわけじゃないだろうよ」
久保は面倒くさそうに髪をかき回す。
「夏浦には夏浦の理由があったんだろ」
「……?」
久保の言うことは最後までちっともわからなかったけれど、成瀬は覚悟を決めた。
あの人の思い通りになんか絶対なるもんか。
翌朝、成瀬は意気込んで三年の教室に向かった。最上階にある教室は無言の圧力を放っている。くたびれた制服の先輩たちが歩く廊下を、成瀬は緊張した面持ちで横切った。
三組の出入り口から中を覗こうとすると、すかさず背の高い生徒に見咎められた。
彼は真新しい制服と緑の学年章を見て言う。
「お、一年坊主じゃん。なんか用か?」
成瀬は大きく息を吸い込んだ。
「夏浦って人、呼んで下さい」
何か言われるかと思ったが、意外にあっさりと彼は窓際に向かって大声を出した。
「おーい、夏浦」
夏浦の席は窓際だった。
ぼんやり外を見ている彼の姿が見えた。
彼は成瀬の姿を見ると、不審そうな顔をしてまた顔を背けた。
「うわっ、無視された!」
ショックを受ける成瀬に、呼び出した生徒は吹き出した。
「呼んできてやろうか?」
「いいです。こっちが行きます」
成瀬は勇気を出して、三年の教室の中へ入っていった。
奇妙な闖入者に、生徒達はいっせいに彼に注目する。夏浦が一番最後に、成瀬のほうへ顔を向けた。
「夏浦……先輩!」
「何か用?」
「アンタが何て言おうと、オレら、やっぱり写真部作ることにしましたから」
成瀬は宣言した。
言ってしまうとすっきりした。先輩に向かって偉そうな口調に、級友たちはますます好奇心を込めた視線で二人を見ている。
成瀬は勝ち誇って、座っている夏浦を見下ろした。
「ふぅん」
彼はつまらなそうに尋ねる。
「お前、一人っ子?」
「は?」
成瀬は面食らった。
「そ、そうですけど」
夏浦は薄い唇の端を歪める。
「だろうね。いかにも甘やかされて育ったって感じ」
成瀬はむっとした。
「うるさいなぁ。アンタはどうなんだよ」
「オレは姉と妹がひとりずつ」
「あー、いかにも子供の頃おままごとしてたって感じっすね」
言い返して、成瀬はふんぞり返った。やりこめたつもりだったが、夏浦は少しも表情を変えずにさっきの級友を呼びつけた。
「吉田」
「なに?」
近寄ってきた彼に向かって言いつける。
「こいつ、つまみ出してよ」
彼は夏浦と成瀬の顔を見比べて聞いた。
「おいおい、一年。あの夏浦を怒らせるなんて何したんだぁ?」
犬の頭でも触るように、成瀬のふわふわした頭を軽くはたいた。
「触んなよっ」
成瀬は噛み付かんばかりの勢いで手を振り払う。
「おっ。カワイイ顔して凶悪だなぁ」
「イーっだ」
子供みたいな捨て台詞を残して教室を出て行った彼に、締められたドアの中から、どっと笑い声が聞こえて来た。
「くっそう」
床を蹴るように廊下を歩いて、成瀬は二年の教室に戻って来た。
教室の前で藤井が待っている。
「成瀬くん!」
仏頂面の成瀬に心配そうに駆け寄る。
「だ、大丈夫だった?」
「別に」
成瀬はぶっきらぼうに答えて教室の中へ入った。席についてもまだ藤井は着いてくる。机の横に立ったまま、何か言いたげにもじもじしていた。
「他に部員見つかりそう?」
成瀬が聞くと、藤井は首を横に振る。
「もう部活決めちゃってるって人多いみたい。あと、よそのクラスの人には声かけずらいし」
「まぁ、そうだよな」
気の弱い藤井じゃなくても、他のクラスは敷居が高い。同じクラスだってまだ顔と名前が一致してないのだから。
担任の佐々木に相談したところ、現在顧問を受け持っていない教師は殆どいないので頼むにしても兼任になり、快く引き受けてくれる教師は少ないだろうという。
佐々木自身も卓球部の顧問であり、兼任はあからさまに迷惑そうで、かわりに二年の授業で声をかけてみると言ってくれた。
道のりはかなり険しい。
気落ちしているだろう藤井は、黙り込んで立ちっぱなしだった。
「?」
まだ何か用があるのかと成瀬が見上げると、彼は、
「あ、あの、ちょっと待ってて!」
と、言って急いで自分の席へ戻っていった。そしてサブバックの中から見慣れない皮の袋を抱えて来て、成瀬に向かって差し出した。
「何これ?」
「これ、成瀬くんにあげる」
「え?」
成瀬は、袋を開けて驚いた。
有名なメーカーの、一眼レフカメラだった。
慌てて成瀬はそれを突き返す。
「何言ってんだ。こんなんもらえねーよ」
しかし藤井は決して受け取ろうとしない。
「いいんだ。たいしたもんじゃないから。オレは他にもたくさん持ってて、これは最近買ったけどあんまり使ってないやつだから」
「たいしたもんじゃないって……?」
成瀬は眉をひそめた。
新品同様のカメラは、いかにも高価そうだ。ボディがピカピカ光っている。
藤井は言う。
「こないだ、自分のカメラは持ってないって言ってただろ? これから部を作るんだったら必要だから」
「そうだけど」
成瀬は罪悪感にちくりと胸が痛む。
「……別に、お前のためにやってるわけじゃないから……」
小さくぼそっと付け加えた。彼の純粋な気持ちを利用しているようで、申し訳ない。
「フィルムの入れ方、わかる?」
そんなことなど知らないで、彼は聞いた。
「えっ、わかんない」
成瀬は素直に首を横に振る。
カメラといったら、携帯電話についているものか、簡単なデジタルカメラくらいしか触れたことがない。
「じゃあ、オレがやるから見てて」
藤井はそういって、丸くて柔らかそうな手のひらを広げた。
「あ、うん」
成瀬はカメラを渡す。藤井はカメラの裏の蓋を開けて、器用にフィルムを入れる。
「これはオートマチックだけど、オレがいつも使ってるのはマニュアルなんだ」
「マニュアルってもっと難しいのか?」
「うん。ちょっとコツがいるんだ。でも仕上がりが全然違って面白いよ」
「へーぇ」
成瀬は感心して、彼の器用な手つきを眺めていた。
「はい、出来た。成瀬くんの家ってどこなんだっけ?」
「うち? 東池袋」
「そうなんだ」
「お前は?」
「武蔵境。中央線」
「へぇ、学校までちょっと時間かかるな」
「うん。でももっと遠い人いるしね」
稜家高校は人気があるので県外から通ってくる生徒は多い。二時間かけて通っている生徒も珍しくなかった。
「今度、うちに来てくれる?」
彼は恐る恐る聞いた。
「え?」
「あの、無理だったら全然いいんだけど、その、今まで撮った写真とか見てもらえたら嬉しいなって」
恥ずかしそうに言う藤井に、成瀬は肯く。
「うん、行く。行くよ」
「ほんと? 良かった」
言葉どおり藤井は、本当に嬉しそうに笑っていた。
成瀬が三年の教室を出て行った後、吉田や他の同級生は笑いながら夏浦のまわりに寄ってきた。
「なんだあの一年生、元気だなぁ」
「仔犬みてー。かわいいじゃん」
夏浦はその整った容貌からひそかに人気があったものの、どこか近寄りがたい雰囲気があった。そこに軽々と踏み込む新入生の大胆さが彼らには羨ましく映った。
しかし、夏浦は眉を潜める。
「どこが。かわいくなんかねーよ」
確かに顔はカワイイかもしれないが、体の作りはたいして夏浦と変わらない。その上、中身はとても生意気だ。
吉田は笑う。
「夏浦は年下興味ないもんなぁ」
「どういう意味だよ」
「去年の三年とばっかつるんでたじゃん」
「そういえばそうだよなー。今でも先輩達と遊んだりしてんの?」
「……あんまり」
夏浦はひとこと答えて押し黙った。
吉田は慌てて言う。
「そりゃそうだよな。あんなことがあったんだから」
「あっ、ゴメン!」
急に級友たちは気まずい空気に固まる。
この場をどう切り抜けたものか困っていた夏浦に、他の生徒が声をかけた。
「夏浦。後で職員室来いって。神原ちゃんが呼んでた」
「オレ?」
何のことか思い当たらなかったが、夏浦は昼休みに職員室を訪れた。
彼女は近くの店からまとめて取っている出前の弁当に手をつけず、夏浦を待っていた。
「先生、オレに何か用ですか?」
「こないだ、一年生が来て、話続きになっちゃったじゃない」
神原は言った。
「桧山くんのことだけど、私のとこにご両親が度々連絡してくださるの。その度に話が出るのよ。北斗くん、なかなか家から出たがらないんですって」
「あぁ、知ってます」
夏浦は頷いた。
桧山北斗は遙の弟で、今年から高校生になったはずだった。兄とは違う、中高一貫教育の学校に通っているので受験をしなくとも進学しているのだが、殆ど登校していない問題児だった。
「でも、他人があんまり口出すことじゃ」
「知ってるって言うことは、話してるんでしょう? 」
「電話なら」
彼女はくだけた調子で言う。
「やっぱり。あの子は前からアナタにだけ懐いていたものね。たまには遊びに行ってあげてよ。交通費くらいだったら、先生、協力するから」
そう言って、財布から千円札を数枚出して夏浦に押し付けた。
「いや、それはいいですよ。あいつのところにはちゃんと行きますから」
夏浦は肩をすくめてそれを返した。
久保に見張られて参考書の問題を解いていた成瀬は、最後の問題を終えてシャーペンを放り出した。椅子の背もたれに寄りかかってぐいっと両腕を伸ばす。
「ふわー、つっかれたぁ」
早速久保は問題集を回答と照らし合わせる。
「どれ」
ノートに書いた解答を赤いボールペンでチェックしていく。
成瀬はそろそろ集中力が途切れたようで、ぐるぐる首をまわしたり、目をぎゅっと閉じたり開けたりしていた。
「目が疲れんだよね」
ふらふら椅子を立ち上がって、カバンの中を探り始めた。
今日、藤井からもらったカメラが入っている。帰って早々久保がいたので、今まで弄る時間がなかった。
改めてカバーをあけて、両手に持ってみる。
どっしりとした重さがあった。
答えあわせを終えた久保も目を向けた。
「どうしたんだ、それ。買ったのか?」
「もらったんだ」
成瀬は言った。
「もらったぁ?」
久保が派手なリアクションを取ったので、成瀬は少し不安になった。
「えっ。これそんなに高いモン?」
「そりゃけっこうするだろ」
久保が即答したので、成瀬は考え込む。
「あいつんち金持ちらしいんだよなぁ。確かにボンボンっぽいところあるし。だからまぁいいかと思って」
「いいのかぁ?」
久保は疑わしそうに真新しいカメラを見つめる。
「タダより高いものはないっていうぞ」
「えー、それは大袈裟だよ」
成瀬は笑った。
久保は大きな手のひらを向ける。
「寄越してみろ」
成瀬は素直に久保にカメラを渡した。
久保はレンズカバーをはずし、レンズを覗く。
「懐かしいな」
成瀬をファインダーの中に収めて、メモリを調節してピントを合わせる。
「フィルム入ってんのか?」
「うん。入れてもらった。撮ってみてもいいよ」
そう言われて、久保はシャッターに手をかけて半押しにしる。成瀬は撮られることを意識した笑顔を浮かべた。
しかし、すぐに久保はカメラを下ろしてしまった。
「やめた」
つまらなそうに、カバーを戻して成瀬に返す。そして机に向き直った。
「遊んでないで勉強すっぞ、勉強」
「はーい」
成瀬はしぶしぶ机に戻って、真っ赤に直されたノートを見て顔をしかめた。
知らないことを知るということは面白い。
最初はあまり興味がなかったけれど、藤井からカメラの使い方を教えてもらうことはなかなか楽しかった。
土曜日の授業が終わった昼過ぎ、彼らは屋上の出入り口に繋がる階段の踊り場に座り込んで喋っていた。
「部の話、なんか進展した?」
「ううん」
「そっか」
成瀬は眉間に深いシワを寄せた。
彼も知り合う同級生にはなるべく声をかけるようにしている。しかし一向に成果はない。完全に行き詰っていた。
ところが、藤井は妙に明るい声で言う。
「でも、オレはもういいかと思ってるんだ」
「いいって?」
成瀬は驚いた。
「写真撮るのは一人でも出来ることだから、部活っていう形にはこだわらなくてもいいような気がしてきたんだ」
「そう、なのか?」
「うん。それより……もっと大事なことがあるもん」
「え?」
「成瀬くん」
藤井は急に成瀬の正面に向き直った。いつも目を合わせないで喋る彼に珍しく見つめられて成瀬はうろたえる。
「な、何?」
「あのさ」
彼は、一生懸命言葉を探していたが、うまく見つからないようだった。
「あの……」
彼はとうとう諦めて、飲み込んだ言葉の代わりに成瀬の肩に手をかけた。
「?」
何をされるのかと、成瀬は驚いて固まる。
するとみるみるうちに彼の顔が傾いてきて、間近まで迫ったのは一瞬の出来事だった。
「うわっ!」
咄嗟に成瀬は片手で藤井の顔を押し返した。
「何してんだよ!」
「成瀬くん!」