9.王女の非難
俺はシャンヤ殿下に腕を引かれ、有無を言わさず宴会場の脇にある控室へと連行された。
室内は戦場のような慌ただしさだった。数人の従者が、白髭の国王陛下の豪奢な礼服を整えようと、てんやわんやしている。
「おや、ホッホッホ。勇者殿、楽しんでおられますかな?」
国王は俺の顔を見るなり、朗らかな笑みを向けた。
「ええ、今夜はユニークな方々と知り合えまして」
俺は心にもない返事をし、魂の抜けた社交辞令スマイルを貼り付ける。
貴方様が来るのがもう少し遅ければ、もっと楽しかったんですけどね。
「ハハッ、それは何より! この宴は他でもない、貴殿のためのものですからな」
「国王陛下、そろそろお時間です」
部屋の反対側からアデルが現れ、冷静に告げた。
「うむ」
国王は短く応じると、再び俺を振り返った。
「勇者殿、まずはワシが先陣を切って会場を温めてきますぞ。ワシがトップバッターとして場を盛り上げますゆえ、その後は貴殿の出番です」
「えっ? 俺も檀上に上がるんですか?」
「構わん構わん、皆が貴殿の勇姿を一目見たがっておるのですから!」
「うぇ……あ、あの、善処します……」
国王陛下は最後に王冠の位置を確認すると、くるりと背を向け、俺に向かって『任せろ』と言わんばかりに親指を立てた。
なんなんだよ、その『先頭打者は俺が出る、四番はお前に任せたぞ!』みたいな熱血スポ根スタイルは! こちとら全然燃え上がらないんですけど!?
宴会場で司会者が簡潔なアナウンスを流すと、国王陛下が高台の中央へと進み出た。
先ほどまで喧騒に包まれていたホールが、水を打ったように静まり返る。数百の視線が『バッ』と音を立てるように、サーチライトのごとく彼の一点に集中した。
国王は咳払いを一つ。その顔には、威厳と慈愛が同居した、完璧な君主の微笑みが浮かんでいた。
「皆の者、今宵はよい夜だ」
国王の声は重厚で明瞭だった。舞台裏で俺と冗談を言い合っていた好々爺とは別人のようだ。
「今夜、我らがこうして安らかに杯を交わせるのは、ある吉報のおかげである――そう、私がかつて、埃をかぶった古い予言書の中にしか存在しないと思っていた、あの大いなる吉報だ」
彼は一拍置き、鋭い眼光で聴衆を見渡した。
「正直に言おう」
国王は続け、その口調に自嘲めいたユーモアを滲ませる。
「シャンヤが初めて『勇者召喚の儀』などという胡散臭い提案をしてきた時、私の第一声はこうだ――『近頃の宮廷予算削減が厳しいからといって、そんな回りくどい方法で私の財布の紐を緩めさせようというのか?』とな」
会場からドッと笑いが起きる。空気が一瞬で和らいだ。
「何しろ、異世界から我々を救う英雄を招くなどと……パットン将軍とサミュエル司教を仲良くさせるより困難な話に聞こえるだろう?」
国王陛下がパットン将軍の方へウィンクを飛ばすと、将軍は苦笑して鼻をこすった。
「だが!」
国王の口調が劇的に反転する。そこには疑いようのない歓喜と誇りが満ちていた。彼は両手を広げ、言葉に熱を込める。
「奇跡は起きた! 我らが敬愛する聖女シャンヤ殿下が、その無比なる信仰と強大な魔力をもって、大陸の運命を変えうる重要人物を招くことに成功したのだ!」
彼が力強く腕を振り、俺のいる方向を指し示した。
「この方こそ、我が王国の召喚に応じ、久遠の時空を越えて来訪せし勇者――シラツカ・ウイラン殿である!」
雷鳴のような拍手が巻き起こる。
――やめてくれ! ハードルを上げないでくれ! 俺は魚一匹殺したことないんだぞ!
「ふぅ……実を言うと、儀式の準備をしていたこの一年で、ワシの白髪もだいぶ増えてしまいましてな」
国王が大げさに額を拭い、寂しくなった頭髪を撫でてみせる。
「しかし……これでようやく、枕を高くして眠れるというものだ!」
再び会場が笑いに包まれる。
「さて、皆が一番聞きたいのは、ワシのような老骨の世迷い言ではないだろう」
国王は茶目っ気たっぷりに瞬きをした。
「それでは、我らが真の希望、ペレシュの未来――勇者ウイラン殿より、お言葉を頂戴しようではないか!」
控室で、俺はガタガタと震えていた。
お言葉を頂戴?! 俺、クラスの自己紹介ですら二十文字以上喋れない陰キャなんですけど!? ていうか前フリが完璧すぎるだろ! 俺を『真の希望』とか持ち上げるのやめて!?
これ、マジで詰んだわ。
国王が檀上から降りてきた。先ほどよりもさらに熱烈な笑顔で俺の元へ歩み寄ると、『さあ行け、試合を決めるのはエースのお前だ!』と言わんばかりの顔で、俺の背中をバシッと叩いた。
シャンヤ王妃は静かに俺の傍らに立ち、その冷ややかなスミレ色の瞳で俺を見つめ、小さく頷いた。
その頷きはどういう意味だ? 『頑張れ』なのか、『恥をかかせたら殺す』なのか!?
俺は泣くよりも酷い引きつった笑みを浮かべ、覚悟を決めてステージへと足を踏み出した。
ついに、俺は高台の中央に立ってしまった。
眼下には黒山の人だかり。着飾った貴族、権力者、聖職者……無数の瞳が俺を凝視し、鎖のように縛り付ける。充満する酒と香水の匂いが、接着剤のように空気を固めて息苦しい。
吸血鬼でも緊張ってするのかよ? 体温も冷や汗も失ったくせに。
口を開こうとするが、喉が詰まったようだ。頭の中が真っ白になる。
深呼吸……深呼吸だ……。
「えっと……あ、あの……みなさん……こんばんは」
反応なし。
宴会場全体が、恐ろしいほどの静寂に包まれている。
――助けてくれ! お化け屋敷よりこの沈黙の方が怖い!
「お、俺は……シラツカ・ウイランです。ここに来られて……う、嬉しいです」
俺は誰とも目を合わせられず、ひたすら演台の角を睨みつけていた。
その時、視界の端に何かが映った。
最前列に、ビアンカが立っていた。
彼女は両手を胸の前で組み、キラキラとした期待と信頼に満ちた眼差しを俺に向けている。
――おいおいおい! そんな目で見ないでくれ! 俺は君が思ってるような凄いヤツじゃないんだよ!
その隣にはロクサナ団長がいた。俺の視線に気づくと、恥ずかしそうにふいっと顔を背けた。
……まださっきのことを照れてるのか?
だが不思議なことに、彼女たちのおかげで、爆発寸前だった緊張感がふっと霧散した。フリーズしていた脳内CPUが、0.5倍速ながら再起動を始める。
「……国王陛下の手厚い歓迎と、皆様の出迎えに感謝します」
「俺は……まだこの世界について無知ですが、学び、適応し、皆様の期待を裏切らぬよう全力を尽くすつもりです」
俺は顔を上げ、聴衆を見渡した。
後方にアンル夫人の姿が見えた。彼女は優しい笑顔で、こっそりと『がんばれ』と口パクで伝えてくれている。
俺は無意識に一歩前へ出た。声が、少しだけはっきりとした輪郭を帯びる。
「正直に言います。もし一週間前に、『お前は物語の中にしか存在しないような世界に来て、勇者と呼ばれることになる』なんて言われていたら……俺はそいつに、病院へ行くことを勧めたでしょう」
会場からクスクスと小さな笑いが漏れた。空気が緩む。
「俺はこの世界の歴史を知りません。複雑な政治もわからないし、魚料理にどのフォークを使えばいいのかさえ怪しい」
俺がテーブルの食器に視線をやると、貴婦人たちが口元を隠して上品に笑った。
「ですが、共通するものもあります。俺は、皆様の瞳にある期待を見ました。そして、皆様が背負っている重圧も感じています」
俺の視線はもう泳いでいなかった。会場全体をしっかりと見据える。
「俺は皆様に奇跡を約束することはできません。俺は神ではないし、予言書に出てくるような完璧な英雄でもない。皆様と同じように迷い、緊張し、時には恐怖することもある、ただの人間です」
そうだ……完璧な『勇者』を演じるんじゃない。『俺自身』として、やるべきことをやるんだ。
「ですが、一つだけ約束できることがあります――俺は、皆様と共に立ちます。今日から、皆様の戦いは俺の戦いです。皆様の希望は、俺が背負うべき責任です。俺が手を振るだけで闇を払うことはできないかもしれない、けれど、俺は決して退きはしません!」
「だから、その日が来たら。俺は物語の中の神話でも、冷たい記号でもなく――皆様の手にある剣となり、盾となります。共に血を流し、戦い、そして勝利の夜明けを迎えるでしょう!」
「自分の限界がどこにあるかはわかりません……ですが誓います。俺は持てるすべてを懸けて、皆様の大切なものを守り抜きます! 運命さえも道を譲るような未来を、一緒に創りましょう!」
言った。
言い切った。
もし吸血鬼が汗をかくなら、今頃俺は脱水症状で倒れていただろう。
俺は檀上で、酸欠気味の頭をフラフラとさせていた。
直後、台下から予想外の、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
え? もしかして……今の即興演説、意外と悪くなかった?
国王陛下もこちらを見て笑っている。よかった。
ふぅ、これでどうにか誤魔化せたかな。
「いい加減になさい! この詐欺師!」
鈴を転がすように清脆で、しかし煮えたぎるような怒りを孕んだ少女の声が、熱気を切り裂いた。
何の声だ? いよいよ俺の脳内ツッコミが反抗期を迎えて幻聴になったか?
「努力? 努力ですって? タダ飯を食らう努力の間違いじゃなくて?」
……タダ飯って言い草は酷くないか! 吸血鬼じゃなきゃ俺だって真面目に勇者をやりたかったよ。
「そのふざけた口上はおやめなさい! 『期待を裏切らない』ですって? 貴方の一番の期待は、その白髪の女の後ろに隠れて、その自信なさげで情けない本性を見抜かれないようにすることでしょう! お父様も目が曇ったものですわ、こんな紛い物に国の命運を賭けるなんて!」
……OK、幻聴じゃない。これは現実だ。百パーセント純度、貴族訛り付き、火力全開の現実だ。
すべての視線が、そして俺の再び挙動不審になり始めた目線が、声の主へと突き刺さる。
宴会場の中央、一つのテーブルの脇に、黒と金の鮮烈な配色のドレスを纏った少女が立っていた。両手を腰に当て、凄まじい剣幕だ。
高い位置で結われたツインテール。年齢相応の華やかさと愛らしさを備えた容姿――彼女が激怒していなければの話だが。今、その琥珀色の瞳は、宴会場を焼き尽くさんばかりの怒りと、隠そうともしない軽蔑で燃え上がっている。
「何をしているんだ!? エリアン!」
国王陛下が眉間に深い皺を刻み、舞台裏から飛び出してきた。「慎みたまえ!」
「私は認めませんわ! こいつが勇者だなんて!」
エリアンと呼ばれた少女は、さらに甲高い声を張り上げた。興奮で肩が震えている。
「素性の知れない女を王妃に据えたかと思えば、今度はどこの馬の骨とも知れない勇者ですって! お父様、一体何を考えておいでなのです!? ペレシュ王室の尊厳も、王国の未来も、ままごとの道具になさるおつもり!?」
国王陛下の顔色が瞬時に沈んだ。
「エリアン! 黙りなさい! 勇者殿に対し無礼であろう!」
国王の声には抑えきれない怒気が滲んでいた。
「直ちに勇者殿へ謝罪せよ!」
「お断りします!」
エリアンは国王の剣幕に怯むどころか、さらに頑なに顎を上げた。
「私は事実を申し上げただけです! 一年分の財力と人力と時間を費やして、結果がこれですの? こんな……こんな、見るからに役立たずで、口先だけのガラクタ小僧! これを成功と呼ぶのですか!?」
「無礼者ッ!」
国王が演台を拳で叩いた。ドンッ、と重い音が響く。
……いや、あそこまで言われると凹むけど、正直なところ、一般人の反応としては彼女の方が正しい気がする。
「衛兵! エリアン王女を部屋へ連れ戻せ! 頭を冷やさせろ!」
――待って、王女!? 彼女、プリンセスなの!?
しかし、エリアン王女は衛兵の手を借りるまでもなく、俺をキッと睨みつけた――その目は『覚えてなさいよ』と語っていた――そして、ドレスの裾を翻し、脇目も振らずに宴会場を飛び出していった。
彼女の傍らに控えていた金髪ポニーテールの少女が一人、躊躇いがちに俺と国王へ申し訳なさそうに一礼し、慌ててその後を追っていった。
エリアンの背中が見えなくなると、全員が息を吐いたような気がした。だが、空気は好転するどころか、より微妙なものになっていた――まるで棺桶の蓋を閉めた直後のような、心臓に悪い静寂だ。
「お見苦しいところを……」
国王陛下は顔面蒼白で、深く息を吐いた。声にはまだ怒りの余韻が残っている。
「小女の躾が行き届かず、勇者殿を驚かせ、皆の興を削いでしまった。宴の後、必ず厳しく言い聞かせ、本人から直接勇者殿へ詫びを入れさせよう」
彼は俺に向き直り、引きつった謝罪の笑みを浮かべた。
「勇者殿、誠に申し訳ない。私の教育不足だ」
「い、いえ……お気になさらず」
俺は曖昧に首を振る。平静を装うのに必死だった。
まさか衆人環視の中で『いや、娘さんの言う通りだと思います』なんて言えるわけがない。
台下からの視線が針のむしろだ。今すぐ穴を掘ってブラジルまで逃げたい。
人混みの中でビアンカが心配そうに俺を見つめている。アンル夫人に至っては、目に涙を浮かべてオロオロしている……自分が期待していた勇者が、王女に公然と罵倒された哀れな道化になってしまったのだ、見ている方も辛いだろう。
国王が気まずそうにグラスを掲げ、乾杯で場を締めようとする。だが、陸に上がった魚のように口を半開きにし、空虚な言葉を探してあぐねていた。
俺はただ、足が震えないよう踏ん張りながら、その横で立ち尽くすことしかできない。
この社交界の地獄、絶対零度の空気に、突如として銀色の影が差し込んだ。
――ロクサナだ。
彼女はいつの間にか、俺と国王のそばまで歩み寄っていた。魔導ランプの光を受け、その白銀の鎧が輝く防壁のように俺たちの前に立ちはだかる。
彼女はグラスを掲げた。余計な言葉はない。
黙ってグラスを掲げ、そして一気に煽った。
「勇者様に!」
声量は決して大きくはない。だがその声は、死に絶えた宴会場の空気を鮮やかに貫いた。
一瞬の空白の後、台下の面々が夢から覚めたように反応した。次々とグラスが掲げられる。拍手と歓声が、再び会場に満ちた。
「……ありがとう、キャロル団長」
俺は小声で礼を言った。
「騎士としての……義務、ですから」
彼女はわずかに顔を背け、聞き取れないほどの声で呟いた。
俺はそこで初めて気づいた。その凛々しい横顔が、酒のせいか、それとも別の理由か、薄っすらと朱に染まっていることに。
彼女が何を言ったのかはよく聞こえなかったが、今この瞬間、俺の目に映る彼女は、聖なる光を纏って降臨したヴァルキュリアそのものだった。
俺が檀上から降りると、シャンヤ王妃が変わらぬ様子で待っていた。表情は終始一貫して波一つない。まるで先ほどの騒劇など、微風ほどのことでもないと言わんばかりだ。
エリアン王女が言っていた『素性の知れない王妃』というのは、彼女のことなのだろうか……。
「勇者様、続けましょう」
彼女の冷ややかな声が、俺の推測を遮断した。
「宴はまだ終わっておりません」
音楽が再開され、給仕たちが酒と料理を運び始め、人々は再び談笑に戻る。まるで何事もなかったかのように。
ただ、俺に向けられる視線には、先ほどまでの感情に加え、言いようのない値踏みするような色が混じるようになった。
この歓迎晩餐会は、俺にとって、真夏の午後の日差しのように、残酷で終わりの見えない『公開処刑』へと変貌していた。




