8.聖騎士団の美少女
俺が脳内で、ありったけの語彙を駆使してこの世界の婚姻制度と、思春期の童貞男子には過酷すぎる現実を呪っていた、その時だ。
「あの、ウィラン様」
耳元で、砂糖菓子のように甘く優しい声がした。
振り返ると、ワイザー宰相はいつの間にか大臣たちに囲まれており、代わってアンル夫人が、ミルクセーキのような飲み物が入った二つのグラスを捧げ持ち、慎重にこちらへ歩いてくるところだった。まるで高難易度の運搬ミッションに挑んでいるかのような必死さだ。
「ど、どうぞ」
彼女は片方のグラスを俺に差し出すと、任務完了とばかりにほっとした笑顔を浮かべた。
これ、俺に飲めるのか……?
鼻を近づけてみる。グラスから漂うツンとした酸味が、吸血鬼の鋭敏な嗅覚を直撃した。
……オエッ。
「王宮での生活には……もう慣れましたか? やはり……何もかも勝手が違いますよね?」
彼女の口調は、先ほど宰相の隣にいた時よりもずっと自然だった。まるで午前中、書記処で話していた時のような、肩の力が抜けるような親密な空気が戻ってきている。
「慣れる、ですか……?」
俺は飲み物をそっと脇へ置き、一瞬言葉に詰まった。『新生活への適応』というフレーズに関連する記憶を脳内で検索してみる。
日当たりが良すぎて干物になりかけた『豪華客室』。
薄氷の上を歩くような緊張感を強いられる、この歓迎晩餐会。
ああ、そうだ。あと俺に『至れり尽くせり』なお節介焼きの三人娘と、神出鬼没に現れては俺をこき使う冷徹メイド長もいたな。
そして残るは、俺という『異界の危険物』が社交事故を起こさないよう、片時も離れず監視している聖女様だ。
「今のところは……まぁ、なんとか」
俺は曖昧に答え、彼女の慈愛に満ちた視線から照れ隠しに目を逸らした。
「『なんとか』、ですか?」
アンル夫人は綺麗な眉を寄せ、心底心配そうに俺を覗き込んだ。
「『なんとか』というのは、『あまり良くない』という意味に聞こえます……。誰かに休息を邪魔されたのですか? それともお食事がお口に合いませんでしたか? あ、わかりました、お部屋が明るすぎるとか?」
すみません、全部正解です。
アンル夫人は矢継ぎ早に言うと、俺の隣で沈黙を守っているシャンヤ王妃に向き直った。その声には焦りが滲んでいる。
「シャンヤ殿下、貴女は勇者様を召喚された聖女なのですから、彼の要望を一番理解されているはずでしょう? もっとウィラン様がくつろげるお部屋に変えるべきではありませんか? ふかふかのクッションも必要です! あ、それにお夜食も! 戦いは体力を消耗しますもの、夜にお腹が空いたらどうするんですか!」
彼女は思いついたことを片っ端から口にしているようだった。
シャンヤ殿下はゆっくりと瞼を上げ、その紫の瞳で静かにアンル夫人を見つめた。表情は能面のように動かず、声も凪いだ水面のように静かだ。
「夫人の仰る通りです。ですが勇者様に関する諸事は、国王陛下と私ですでに万全の配慮をしております。不手際はございません」
いや、貴女たちの勇者様、初日からあわや丸焼きになりかけましたけどね。
「私はもっと……ウィラン様に、実家にいるような安らぎを感じていただくべきだと思うんです」
「ご心配には及びません、夫人。陛下も私も、最高規格の礼遇をもって勇者様に接しております」
「で、でもぉ、ウィラン様はなんだか楽しそうじゃありません……」
……いえ、俺はただ自分の独身生活の終焉(予定)に黙祷を捧げていただけです。
「勇者様に明確なご要望があれば、国の聖女として全力を尽くす所存です」
シャンヤ殿下がこれ以上相手にする気がないと見て取ると、アンル夫人は少し悲しげに視線を俺に戻した。
「そうだわ……いつでも私を訪ねてらしてください! 私と主人は城西の屋敷に住んでいて、王宮からも近いんです! お菓子が食べたくなったり、服のほつれを直してほしかったりしたら、遠慮なく! わ、私、ケーキを焼くのは得意なんですよ!」
彼女は興奮気味に自らの豊かな胸をポンと叩く。その表情はどこまでも誠実で、温かい。
「貴方様がこのペレシュで心安らかに過ごせること、それが私の最大の願いですから!」
その言葉は、拒絶することなど不可能なほど優しかった。
「あ、ありがとうございます! アンル……さん、いえ、夫人」
うぅ……やばい、声が湿っぽくなってしまった。
泣きそうだ。
この世界にも、俺のことを心から案じてくれる人がいたんだ!
問答無用で勇者を押し付けてくる連中とは大違いだ!
ママって呼んでもいいですか?
俺が彼女の善意にどう応えようか迷っていた、その時だ。
「勇者様!」
凛とした女性の声が背後から響いた。微かに金属の触れ合う甲高い音が混じる。
振り返ると、白銀の騎士鎧に身を包んだ二人の女性が、こちらへ向かってくるところだった。
アンル夫人は知らない人を見た小動物のように、慌てて数歩後ずさり――
運悪く、ハイヒールの踵で自分のドレスの裾を踏んでしまった。
「きゃっ!」
彼女の体が傾く。転ぶ!
俺は反射的に手を伸ばし、彼女の体を支えた。
「あ、ありがとうございます……」
彼女は顔を赤らめて体勢を立て直すと、ぺこりと頭を下げ、慌ててスカートの裾を持ち上げて夫である宰相の元へと小走りで去っていった。
「勇者様、シャンヤ殿下」
二人の騎士が俺たちの前に立った。
先頭に立つ女性は長身で、プラチナブロンドのショートヘアが照明を浴びて柔らかな光沢を放っている。金と青のオッドアイが、凛々しくも神秘的な印象を与えていた。
彼女に続くもう一人は、さらさらとした栗色のロングヘアに、翡翠のような緑の瞳。陶器人形のように愛らしい顔立ちをしている。
アンルさんとはベクトルの違う、二種類の美少女だ。
おおおおお――いつか来るとは思ってたけど、ここでお姉さん系女騎士の登場か!
「ロクサナ・キャロル。王室聖騎士団団長を務めております」
プラチナブロンドの騎士が片膝をつき、流れるような動作で礼をした。声は落ち着いていて、知的だ。
「改めまして、ご挨拶申し上げます。勇者様」
「どうも、キャロル団長」
「お目にかかれて光栄です」
ロクサナ団長の口角がわずかに上がる。その笑みには、刃物のような鋭さと爽やかさが同居していた。
「そして、こちらが――」
「ふ、副団長! ビアンカ・ユーレス! 勇者様に着任のご挨拶を申し上げます!」
栗色の髪の騎士が突然前に出ると、ガチガチに硬直した動きで騎士の敬礼をした。
努めて冷静さを保とうとしているようだが、語尾が裏返りかけている。隣のロクサナ団長までビクッと肩を震わせていた。
「も、申し訳ありません! し、失礼いたしました!」
自分の声が上ずったことに気づいたのか、自称副団長のビアンカは顔を『ボンッ』と音がしそうなほど真っ赤にし、さらに深く頭を下げた。
「幼い頃より、『勇者』という存在にこれ以上ない憧れを抱いておりまして……今日こうして実物を拝見し、その……感激のあまり……」
そういうキャラだったの?
ていうか、君が子供の頃に想像してた勇者と、今の俺とじゃだいぶイメージ違うと思うけど。
「ビアンカ、まったくお前は……」
ロクサナ団長が呆れたように額を押さえ、相棒を一瞥してから俺に向き直る。
「申し訳ありません、勇者様。お見苦しいところを」
「あはは、大丈夫ですよ」
俺は頬をかいた。
「正直、俺もこういう場はガチガチに緊張してるんで」
「勇者様。ビアンカは今はこうですが」
ロクサナ団長の声色が少し柔らかくなった。
「普段は落ち着きのある優秀な子なんですよ。何しろ彼女は、聖剣に選ばれた勇……選ばれた騎士ですから」
聖剣?
俺の視線が、自然とビアンカの腰にある剣へと吸い寄せられる。
視線に気づいたビアンカは、驚いた鹿のように背筋を伸ばしたが、すぐに期待に満ちた目で俺を見て説明を始めた。
「勇者様、その……『暁』にご興味がおありですか?」
『暁』――聖剣の名前か。これまたド直球なネーミングだな。
「あ、大変申し訳ありません……。あの子が、今日の会場は人が多すぎてうるさいから嫌だと言うもので……団の宿舎に置いてきてしまいました」
剣が喋るのか?
「聖剣は主を選びます。聖剣に選ばれた者だけが、その声を聞くことができるのです。ビアンカは聖剣『暁』と意思疎通ができた最初の聖騎士であり、言わば……騎士団の中でも特別な存在なのです」
ロクサナ団長が補足してくれる。
「へえ? じゃあビアンカさんって、すげえ偉い人なんじゃないの?」
「い……いえ、滅相もございません!」
ビアンカは恥ずかしそうに首を振った。
「私はただ……たまたま『暁』の声が聞こえただけです。あの子が特別なのであって、私の手柄ではありません」
「そっか。伝説の聖剣、一度見てみたかったな」
「はい! 『暁』も、きっと勇者様のことを認めてくれるはずです!」
ビアンカは俺の言葉に異常なほど興奮している様子だ。
「ところで、聖騎士団とペレシュの軍隊は別系統なんですか?」
俺はふと、さっきパットン将軍が言っていたことを思い出した。
「正規軍とは異なります。王室聖騎士団は主に国内の治安維持と、王宮の警護を担っております」
隣のシャンヤ殿下が答えた。
「殿下の仰る通りです。聖騎士団はペレシュの正義と剣を象徴する存在。我々は王室に直属しており、軍部や教会の指揮下にはありません。主な任務は王都の秩序維持と、特殊な魔物の討伐です」
特殊な魔物、か。俺みたいなヤツのことじゃないといいけど。
とりあえず、ここは愛想良くしておこう。
「なるほど、大変なお仕事なんですね」
俺は引きつらないよう細心の注意を払って笑顔を作り、精一杯の敬意を込めたトーンで言った。
「王都の秩序を守り、特殊な魔物に対応する……聞いただけで苦労が忍ばれます。聖騎士団のような頼もしい守り手がいて、王都の皆さんもきっと安心しているでしょうね」
ロクサナ団長が少し目を見開いた。
次の瞬間、その金と青の瞳に柔らかな光が宿り、口元の笑みが先ほどよりもずっと優しげなものに変わった。
「はい! 勇者様にそのようなお言葉をいただけるとは、騎士冥利に尽きます」
彼女は胸に手を当て、真摯に言った。
「ペレシュの安寧を守ることこそ、我ら王室聖騎士団の永遠の誓いです」
彼女は本当に、俺が彼女たちの理念を認めたことを喜んでくれているようだ。
よしよし、これで万が一俺の吸血鬼バレが起きても、多少は見逃してもらえる可能性ができたかな。
それから俺は、聖騎士団の規律についていくつか質問してみた。
どうやら彼女たちは治安維持や魔物討伐といった実務に加え、ペレシュ王室の『顔』としての役割も担っているらしい。現実世界でいうところの儀仗隊のような側面もあるのだろう。そのため、入団選抜の際には容姿やスタイルといった外見的要素も考慮されるという。
おかげで、聖騎士団のメンバーは清一色の美少女軍団というわけだ。
待てよ……。
ということは……。
「キャロル団長、もう一つだけ、失礼な質問をしてもよろしいですか」
「おや、なんでしょう。何なりと」
「団長は、ご結婚されていますか?」
「…………」
シャンヤ殿下が隣で、ゴミを見るような目で俺を見ている。
「な……なんですって?」
ロクサナ団長の顔が、一瞬にして林檎のように赤く染まった。
「えええええええっ!?」
ビアンカが感電したように飛び上がった。
「だ、団長!? いつの間に私に隠れてそんな――」
「ち、違います! ビアンカ、私もまさか勇者様からそのような……」
ロクサナ団長は慌てて副団長に弁明し、それからもじもじと指を組んで俺の方を見た。
「その……私は、独身ですが……」
「おおおおおっ! それはよかった!」
ほら見ろ! この世界の美人が全員『売約済み』なんてこと、あるわけがないんだよ!
「ウィラン様、陛下がお着きになりました」
突然現れたアデルが、シャンヤ殿下の耳元で何かを囁いた。
次の瞬間、シャンヤ殿下は有無を言わさず俺の腕を掴み、二人の美しき騎士たちの間から強引に俺を引き剥がした。
ちょ、待って!
連絡先!
せめて連絡先だけでも交換させてくれ!
ていうか、この人なんでこんなに力が強いの!? 全然振りほどけないんだけど!
「勇者様! 『よかった』ってどういう意味ですかー!?」
背後から、ロクサナ団長の素っ頓狂な叫び声が聞こえてきた。




