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ギフト・オブ・ファングズ  作者: アルキム
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6.晩餐会の支度

「やっと逃げ切った……!」


 俺は犬に追われる野良猫のように、自室へと滑り込む。

 バタンッ!

 背手でドアを叩きつけるように閉めると、ようやく世界に静寂が戻ってきた。


 あぁ……生き返った心地だ。

 あの忌々しい登録用紙も、人間の脳みそをかりんとうみたいに捻じ曲げる複雑怪奇な行政手続きも、今は全部忘れてやる。


 部屋の中は相変わらず、心安らぐ静けさに満ちていた。

 分厚いベルベットのカーテンが午後の日差しをしっかりと遮断し、柔らかな薄闇が部屋全体を包み込んでいる。まるで暖かい毛布にくるまっているようだ。


「ふあぁぁぁ――」


 俺は野獣のように満足げな溜息を漏らし、ベッドへ大の字になってダイブした。

 ……最高だ。

 文書地獄から這い上がってきたばかりの吸血鬼にとって、この薄暗闇こそが至高の恩寵だ。


 泥のように脱力し、頭を空っぽにする。

 書記処で見た密っしりと並んだ文字の羅列がまだ脳裏をちらつくが、なぜだろう、アンルさんの優しい笑顔も時折浮かんでくる……。


 うぅむ……アンルさんか。


 俺はベッドからズルズルと絨毯へ滑り落ち、壁に掛かった年代物のタペストリーと睨めっこを始めた。

 ここ数日の経験はB級ホラー映画のマラソン上映にも匹敵する惨状だったが、アンルさんだけは確かに、俺に得難い安らぎをくれた。この冷ややかな異世界において、彼女の程よい優しさは砂漠のオアシスそのものだ……。


「今夜の宴会で、会えるかな」


 独り言が漏れる。頬が勝手に緩んで、ニヤけた笑みがこぼれてしまう。

 もう少しだけ、この貴重な平穏を味わわせてくれ――。


 コン、コン、コン。


 しかし、現実はいつだって背後から刺してくる。

 俺は枕に顔を埋め、ダチョウのように現実逃避を試みた。

 聞こえないフリ、ダメかな?


「勇者様?」


 俺が半日ほど(体感)黙り込んでいると、ドアの外から恐る恐る呼びかける声がした。

「はぁ」

 俺は観念して溜息をつき、力なく返事をした。

「……どうぞ」


 ドアが開く。

 現れたのは、今朝がた俺に『至れり尽くせり』だった三人のメイドさんたちだ。

 おや、今回は何やら“装備”を持参している。絹の布がかけられた巨大なトレイがいくつも。

 なんだ? ミシュラン級のフルコースでも運んできたのか?


「勇者様、お休みのところ失礼いたします」

 先頭に立つ年嵩のメイドが一礼する。顔にはプロらしい営業スマイルを張り付けているが、眼の奥にある興奮の輝きはどうしても隠しきれていない。

「国王陛下の歓迎の宴が日没後に執り行われますので、礼服の候補をお持ちいたしました」


 この人たち、絶対楽しんでるだろ。勇者着せ替え委員会でも発足させる気か?


「今の格好じゃダメ?」

「ドレスコードはございませんが、皆様、着飾って参加されますので。ね? 勇者様」


 メイドさんは「強制参加ではないが事実上の強制参加である部活動」を見るような目で俺を見てきた。

 ……わかったよ。どうせ晩餐会からは逃げられないんだ、ここは大人しく従っておこう。

 俺はカーテンを開けようとしたメイドを視線だけで必死に阻止した。


 残りの二人が優雅な手つきでカバーを取り払う。

 そして、プロの手際で数着の衣装が展開された。

 デザインも生地もこだわり抜かれた逸品揃いだ。見ただけで値段が可愛くないことがわかる。


 一着は、濃紺のベルベットに抽象的な刺繍が施されたタイトなジャケットと同色のパンツ。うん……これは荘重な感じで悪くない。

 一着は、淡い亜麻色のゆったりとしたローブ。縁には銀糸で複雑な蔦模様が描かれ、襟元には真珠がびっしり。おおっ! これはなんだか大魔導師っぽいぞ。

 そしてもう一着は深紅。胸元と袖口に金糸で猛獣――ライオンか何かだろうか――のトーテムが刺繍されている……えーっと、少年漫画の『バトルスーツ』的なアレだ。これを着たら即座に剣を抜いて何かを斬りに行かなきゃいけない気がする。


 メイドたちが横から口々に、デザインのコンセプトだのTPOだの、俺にとっては異次元の概念である『ファッション要素』だのを解説してくる。

 悪いけど、俺はただの男子高校生なんだ。そんなものは別次元の話だ。


 過剰に豪華で複雑な服を見ているだけで、体が痒くなってくる。これらの一着一着が、俺が過去十六年間で着てきた服の総額よりもフォーマル度が高い。


「えっと……じゃあ、これで」


 三人のメイドの熱っぽい視線に晒されながら、俺は震える指先で一番地味な、彩度の低いダークブルーの礼服を指差した。

 見た目は現代のスーツに近い。過剰なカッティングもなければ、目が潰れそうな装飾もない。同色系の糸で目立たない模様が刺繍されているだけだ。

 少なくともこれなら、歩く高級品展示ケースになった気分にはならないだろう。


「まあっ、勇者様はお目が高い!」

 優しげなメイドが目を輝かせ、早口でまくし立てる。

「こちらはペレシュ全土でも最も魔法親和性の高い生地なんです! 荘重かつ神秘的で、低位の元素魔法なら受けても傷一つつきません。勇者様にぴったりですわ!」


 俺はただ、一番まともに見えたから選んだだけなんだけど。


 そこから先は、もう俺の制御範囲外だった。

 俺はなすがままの人形となり、三人のメイドによって熟練の手つきで弄り回された。幾重にも重なるインナー、意味不明なほど複雑な紐の結び方、冷たくて硬い金属の留め具……。

 すべてが、俺をまな板の上の海苔巻きのような気分にさせる。


「うわっ! ちょ、優しく頼むって!」

「勇者様、動かないでくださいませ~」

「ここはこう結ぶのが正解なんです!」


 彼女たちの手際はプロそのものだが、俺の体はガチガチに強張っていた。手足の置き場さえわからない。

 鏡に映った姿は、普段Tシャツにジーパンの『白塚初嵐』とは完全に別人だった。濃い色の礼服が俺の顔色の悪さを際立たせているし、仕立ては完璧なのに、どう見ても違和感がある――親父の背広を盗んで着てきた子供が、大人のパーティーに迷い込んだみたいだ。


 カーテンの隙間から、外が暗くなっているのが見えた。俺が礼服と死闘を繰り広げている間に、夕日は山陰に沈み、部屋に灯された燭台がぼんやりとした光を放っている。

 俺が鏡に向かって、自分の葬式に出る幽霊に見えないよう必死に表情を作っていた、その時だ。


「コホン」


 ドアの外から、乾いた咳払いが二つ聞こえた。

 朝の、あのキレ者メイド長だ。


 彼女は相変わらず一分の隙もなく、背筋を伸ばしてそこに立っていた。

 一秒前までキャッキャと俺をからかっていた三人のメイドは、瞬時に恭しく厳粛な表情へと切り替わり、一斉に頭を垂れ、手を組み、部屋の隅に整列した。

 おい、彼女の手にお前らの操作リモコンでもあるのか?


「勇者様」

 彼女の声は、やはり法律の条文を読み上げるようにプロフェッショナルで平坦だった。

「国王陛下の歓迎晩餐会の準備が整いました。宴会場へご案内いたします」

「ん? この服……」


 メイド長が歩み寄ってくる。軍隊の教官が内務点検をするような目で、俺の礼服をチェックしていく。


「……概ね、よろしいかと」


 彼女はわずかに眉を動かすと、視線を俺の襟元に落とした。そして不意に手を伸ばし、なんの予告もなく俺の首に腕を回して、後ろから歪んだ襟を直した。


 ひいいいっ!?

 距離が! 距離が一瞬でゼロに! この異世界にはパーソナルスペースって概念はないのか!?

 彼女の漆黒の瞳に、俺のマヌケ面が映っているのが見える!


 ヤバい、脳内CPUがオーバーロードした。完全にブルースクリーンだ。

 俺のような純情な思春期男子にとって、氷山系美女のゼロ距離攻撃は、どんな石化魔法よりも効果覿面だ。

 というか、彼女、すごくいい匂いがする。甘ったるい香水じゃなくて、淡い石鹸の香りに古い書物の匂いが混じったような、清冽な気配。


「ぷっ」


 俺の背後で、見物を決め込んでいた某メイドが吹き出した。

 瞬間、メイド長様の眼光が鋭く光る。空気を真っ二つに切り裂くような鋭利な視線が、容赦なく笑い声の主へと放たれた。

 さっきの『クーデレ美少女』がさらに進化して、デレの部分が完全にフォーマットされてるぞ。

 あの……そんな至近距離で殺気立った視線を出さないでくれませんか? 怖すぎる。いっそあなたが勇者をやった方がいい。


「こちらへどうぞ、勇者様」


 彼女はようやく俺を解放すると、優雅に身を翻して歩き出した。去り際に、例のメイドたちへ氷のような警告の流し目をくれるのも忘れない。

 俺は首をカクカクと縦に振り、借りてきた猫のように大人しく後に続いた。

 俺の『異世界で一番怒らせたくない人ランキング』において、今、このメイド長がぶっちぎりの一位に躍り出た!


 王宮の回廊は広く、豪華だったが、今は恐ろしいほど静かだった。たぶん全員、宴会場へ行ってしまったのだろう。広大な廊下に、俺たちの足音だけが響く――彼女の一歩一歩は定規で測ったように正確で重厚だ。

 対する俺は、この慣れない礼服で不格好に見えないよう歩くのに必死だ。

 

 この沈黙、マジでキツイ。


「あの……メイド長さん」

 俺は勇気を振り絞り、最大限に人畜無害なトーンで話しかけた。

「お名前、まだ伺っていませんでしたね」


 彼女は振り返りもしない。辞書を読み上げるような平坦な声が返ってくる。

「アデルです」

「あ、はい……アデルさん」


 そして……会話終了。沈黙再臨。

 ダメだ! 何か考えろ、空気が気まずすぎる。

 俺は必死にさっきのやり取りを反芻し、距離を縮められそうな話題を探す。


「その……シャンヤ殿下は、えっと、聖女様は、普段からあんなに冷静なんですか? お二人は実は似ているとか、言われたことありません?」


 言った直後だった――。

 アデルが唐突に足を止める。不意打ちを食らった俺は、危うく彼女の背中に激突するところだった。

 彼女は振り返って俺を見つめる。その琥珀色の瞳には、うっすらと霜が降りていた。


「聖女様の品行方正につきましては、私の職分において論評する範囲にはございません……また、勇者様が現在気に掛けるべき重点でもございません」


 一拍置いて、彼女の声はさらに厳しさを増した。


「加えて、私は王室の方々と私との間に『類似性』を見出すようなご意見は受け入れませんし、そのような独断的な推測も致しかねます。勇者様、どうか言葉を慎まれますよう」


「ご……ごめんなさい!」


 俺は教師にイタズラがバレた生徒のように頭を下げた。

 どういうことだ? 選択肢を間違えたか? もしかして俺、嫌われてる?

 こんなことなら、元の世界でもっとギャルゲーをやり込んでおくんだった!

 俺は心の中で『彼女はもしかしたらツンデレタイプかも』という淡い幻想をビリビリに引き裂いた。


 アデルはそれ以上何も言わず、視線を戻して再び歩き出した。

 俺は慌ててついていく。夜の空気が、さっきより数段冷たくなった気がする……。


 前方から、微かな音楽と人々の話し声が聞こえてきた。

 宴会場に着いたようだ。

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