5.异世界の書類地獄
居住まいを正して座り直す。
背負ったばかりのマントが、椅子の脚まで垂れ下がっていた。
目の前には、冷酷なまでに巨大な執務机が鎮座している。
その上には干からびたインク瓶が二つ、羽の禿げ上がった羽根ペン、そして角の欠けた下敷きが並んでいた。
このオフィスの官僚主義を皮肉るように、壁一面の木製ファイル棚は床から天井までを埋め尽くしている。 部屋の隅には、中身を詰め込まれすぎたファイルたちが、今にも崩れそうな不安を煽る紙の塔を築いていた。
机の奥から、白髪の老人がゆっくりと顔を上げた。 骨董品店から発掘されたような真鍮の眼鏡をかけたその目は、ちらりと俺を一瞥する。
「勇者殿、ですな」
彼の声は見た目通りの老成ぶりで、まるで穴の開いたオルガンのようだった。
「これが登録用紙です。すべて記入してください。その後、次の手続きをご案内します」
老職員は手元の引き出しから、馬鹿みたいに分厚い羊皮紙の束を取り出し、イライラするほど緩慢な動作で俺の前に差し出した。
紙の上には、異世界の文字がびっしりと埋め尽くされている。 まるで無数のオタマジャクシが這い回っているかのようだ。
俺は一枚目をじっと見つめ——
うん……記号一つたりとも読めん。
(ふざけんな! 会話には全く支障がないのに、文字は一文字も読めないってどういうことだ!) (どこの手抜き異世界設定だよ、おい!)
「あの、すみません……」
俺は恐る恐る手を挙げた。 授業中に突然トイレに行きたくなった小学生のように、勇気を振り絞って目の前の堅物ジジイに告白しようとしたのだ。 『大変申し訳ありませんが、当方、異世界非識字者です』という残酷な事実を。
その時だ——。
ガタンッ——!
背後から小気味よい衝突音が響き、続いてバラバラと紙の散らばる音がした。
振り返ると、見知らぬ愛らしい少女が慌ててしゃがみ込み、床に散乱した書類を拾い集めているところだった。
「あぅ……もう、またぶつかっちゃいました……」
どうにか書類を胸に抱え直した彼女は、ようやく俺の視線に気づいたのか、小さな顔をシュッと赤く染めた。
——待て、これってまさか、『あの』お約束イベントか!?
彼女の身長は俺の胸あたりだろうか。 滑らかな白檀色の長髪を、後ろで緩くお洒落なシニヨンにまとめ、小さな象牙の櫛で留めている。 言うことを聞かない数本の後れ毛が頬の横で悪戯っぽく揺れ、彼女の動きに合わせてふわりと踊る。 そのせいで、キャラメル色の大きな瞳がいっそう透き通って見えた。 左目の下には、絶妙な位置に泣き黒子がある。
——ダメだ、可愛すぎる。 俺の理性が深刻な試練を受けている!
「あ、勇者様!?」
彼女は俺を知っていた。 慌ててお辞儀をした拍子に、抱えていた書類が再び「バサッ」と音を立てて半分ほど滑り落ちる。
彼女は新たなパニックに陥った。見ているこっちがハラハラする。
「あの……手を貸そうか?」 「い、いえ! 自分でできますから!」
彼女はブンブンと手を振り、大急ぎで書類を抱え直すと、小走りで俺の前にやってきて深々と頭を下げた。
「昨日、大殿で……わ、私、お見かけした時から、いつまたお会いできるかと……」 「まさかこんなに早いなんて……」
彼女は消え入りそうな声で言いながら、上目遣いでチラリと俺を見る。 悪いが、昨日の状況がカオスすぎて全く記憶にない。
少女はカウンターへ歩み寄って手元の書類を置くと、興味深そうに首を伸ばし、視線を俺の手元の羊皮紙に落とした。
「あら? 身分登録ですか? 勇者様もこういう事務仕事をなさるんですね」
そう言いながら、彼女は俺の手元の書類を覗き込む。 ちょこんとした鼻先が紙に触れそうな距離だ。
前かがみの姿勢になったせいで、もともとゆったりとした襟元が大きく開き、その奥にあるきめ細やかな雪のような白肌が……。
ま、マズい。 俺のいた世界じゃまずお目にかかれない絶景だぞ、これは……!
俺は照れくささから視線を逸らした。頬が熱くなるのを感じる。
「えっと……ああ、そうなんだ」
「勇者様のいた世界とは、勝手が違うことも多いですよね? 例えばこれ——」
彼女は表の一行を指差した。
「『潜在魔力適性あるいは異化能力の投射方向』とか。知らない人が見たら、高尚な魔法学の論文タイトルかと思いますよね、ふふ」 「私もペレシュに来たばかりの頃は、こういう複雑な手続きに頭を抱えました」
彼女は上体を起こし、白い指先を下唇に当てて、懸命に思い出そうとする仕草を見せる。
「ハハハ、そうだな。サッパリ読めないよ」
いや、レベルの違う「読めなさ」なんだけどな。
「私が代筆しましょうか? もし勇者様がよろしければ、ですが……」
彼女はそう言うと、自分の提案が恥ずかしかったのか、ポッと頬を染めた。 可愛いかよ。
「えっ、いいのか? それは本当に助かる」
俺は即答した。 救世主現る! この世界にもこんなに親切で優しい善人がいたのか。ちょっと天然っぽいけど。
とはいえ、係員的に問題はないのか? 俺は視線を上げて例のジジイを確認する……。
なんと、目を閉じてやがる。 チッ、勤務中に居眠りすんなよ。
「よ、よかった! 勇者様。私はアンルと申します。アンル・ワイザー。どうぞよろしくお願いします」
彼女は微笑んでスカートの裾をつまみ、再び俺に向かって優雅に一礼した。 おい、また見えそうになってるぞ!
◇
俺たちはオフィスの隅にある古いソファに移動し、肩を並べて座った。 色あせたベルベットのソファがわずかに沈み込み、俺たちの距離をさらに縮める。
「あ、あの、勇者様が仰ってくだされば、私が書きますので」
アンルは柔らかな声で言い、羊皮紙の下に下敷きを挟んだ。 俺は力強く頷く。
「じゃあ……まずは名前からですね」
彼女は落ちてきた髪の房を耳にかける。
「ああ……シラツカ・ウイランだ」 「ウイラン……シラツカ……」
彼女は小さく復唱しながら、羽根ペンを軽快に走らせる。 俺には全く読めない文字列が浮かび上がる。彼女の筆跡は異国情緒にあふれ、自然と優雅に見えた。
これが俺の名前の、この世界での書き方か。 意外とカッコいい字面じゃないか!
彼女の控えめな質問と丁寧な説明のおかげで、死にたくなるほど長かった登録作業が、意外にも楽しいものに変わっていった。 彼女は書きながら、世間話のようにこの世界の豆知識を教えてくれる——「潜在魔力偏差値」だの「地域魔法適応力」だの、「一族の職業系統樹」だのといったことだ。
俺たちは書類を埋めながら談笑した。 いつの間にか、退屈な事務手続きが、静かな午後の密会のような自然な時間に変わっていた。
もしかして、この異世界……俺が思っていたほど最悪じゃないかもな。
時間は彼女の声によって優しく解きほぐされていくようだった。 ほどなくして、羊皮紙の空欄はすべて埋まった。
彼女が最後の欄を書き終えようとした時、羽根ペンのインクが尽きた。
「あ、インクが……」
彼女はペン軸を振り、テーブルの上のインク瓶を取ろうとしたが、ほんの少し距離が足りない。 彼女は懸命に腕を伸ばし、上半身を乗り出した。
ポロリ。
羽根ペンが手から滑り落ち、床に転がってソファの下へ入ってしまった。 俺も慌てて身をかがめ、手伝おうとする。
「あ、ありました!」
彼女がペンに手を伸ばしたその時、薄暗がりの中で俺たちの指先が偶然触れ合った。
彼女はビクリとして、指先を震わせ、感電したかのように手を引っ込める。
「あ、ご、ごめんなさい……」 「いや、こっちこそ」
俺は少し慌ててペンを拾い上げた。 なんだこれ、心臓の鼓動が早くなった気がする。今の俺の体に心臓の鼓動があればの話だが。
「ウ、ウイラン様、手がとても冷たいですね……」
彼女は小さな声で言い、戸惑うように手を引っ込めたままだ。 そりゃそうだ、吸血鬼だからな。
「俺たちの世界の人種は……体温がだいたいこんなもんなんだ」 「えっ、そうなんですか?」
本当だ。
「というか、ワイザーさんの手は本当に温かいな。朝日みたいだ」 「えっ、そ、そんなこと言わないでください……」
ああ、照れてる。目をパチクリさせて、こちらを見ようとしない。 反則級の可愛さだ。
「そ、それではウイラン様、最後にここへ署名だけお願いします」
彼女は小声で付け加え、最後のページの空白部分を指差した。
「分かった」
俺は彼女の筆跡を真似て、見よう見まねで自分の名前を描いた。
「ん……それでは、私はこれで失礼しますね」
彼女は顔を赤らめたまま小鹿のように立ち上がり、スカートの裾を整えると、再び俺に一礼して、相変わらず半眼の老職員の方へと歩いていった。
彼女は身を乗り出して老職員と何か言葉を交わしている。 その口調は優しく丁寧で、よく聞こえなかったが、あの能面のようなジジイが珍しく彼女に頷き返しているのが見えた。
ほどなくして手続きを終えた彼女は、俺の横を通り過ぎる際にもう一度足を止めた。 スカートの裾を持ち上げて一礼するその姿は、水面が揺れるようだった。 そして、時間を忘れさせるような甘い笑顔を俺に向けた。
「では、ウイラン様——」 「今夜の晩餐会で、また」
晩餐会か? そういえば昨夜、国王陛下がそんなことを言っていた気がする。
「ウイラン様、ウイラン・シラツカ様……」
事務机の向こうから、壊れたオルガンのような老職員の声が響いた。
「次は伝染病検査と定期健康診断です……」
あーあ。 このクソ面倒な手続き、まだ終わらないのかよ……。




