14.同族の怪物
危険!
考える間もなかった。思考よりも先に肉体の本能が炸裂する。
俺は自分でも信じられないほどの爆発的な脚力で地面を蹴り、隣にいた王女の体をひったくるように抱え上げると、不吉な気配を放つ『ナニカ』から距離を取るべく、後方へと大きく跳躍した。
相手の顔に、微かな驚愕が走る。だが、それは瞬く間に陰湿な笑みへと変わり、口元に残酷な弧を描いた。
「ほう? 面白いものに気づいたようだな」
「ちょっ! な、なによ貴方、いきなり! 本王女に何をするつもり!?」
唐突な事態と、俺の乱暴な扱いに驚いたエリアンが、俺の腕の中で暴れながら喚いた。捕まったウサギのような声だ。
俺は彼女をそっと降ろす。悪いが王女殿下、今は痴話喧嘩に付き合っている余裕はないんだ。
「あいつ、一体……」
体勢を立て直したエリアンも、ようやく気づいたようだ。相手が放つ、人を人とも思わぬ禍々しい気配に。
同族。
俺の同類だ。
目が合っただけでわかる。視線の冷たさが骨髄まで浸透し、生存本能が警鐘を乱打している。目の前にいるのは、今の俺よりも遥かに『上位』の存在だ。
【Lumen Lancea.聖光の槍】
ジャンヌの魔法だ。
彼女が杖を掲げると、魔法の光が急速に収束し、一本の純粋な光の柱となって唸りを上げ、不気味な影へと直進した。
その吸血鬼は、眉一つ動かさなかった。
ただ一瞬、陽炎のようにその輪郭が揺らいだかと思うと、肉眼では追えない軌道で、事もなげに光の束を回避してみせた。
魔法は虚しく彼方の石畳を穿ち、砕石と粉塵を撒き散らして、地面に黒い焦げ跡を残すだけに終わった。
「ククッ、この程度の魔法か? 随分と舐められたものだ」
なんだ、今の動きは? 一瞬、身体が消えたのか?
「様子見だけのつもりだったが、まあいい……」
彼の視線がジャンヌを越え、真っ直ぐに俺を射抜いた。
次の瞬間、彼の姿が俺の瞳の中で急激に拡大する。速すぎる、残像しか見えない! 空気が引き裂かれる甲高い音が耳に届くより早く、嘔吐感を催すほどの圧迫感が目前に迫っていた。
クソッ、速えよ!
電光石火の刹那、俺の胸元へ伸びる彼の手が見えた――爪は人のそれではない。細長く、鋭利で、まるで五本のナイフだ。
俺は本能的に両腕を上げ、胸の前で交差させ、回避不能な一撃を防御した。
「ドォォォンッ!!」
予想していた激痛はすぐには来なかった。代わりに、全身を粉砕するような、抗いようのない圧倒的な衝撃が襲った。全速力の巨大獣と正面衝突したような感覚だ。俺の体は枯れ葉のように吹き飛ばされた。
「ガハッ!」
背中が通りの石壁に激突し、鈍く重い音が響く。
……痛ってぇ。腕、折れたな。
腕を振ってみると、砕けた骨が擦れ合う、歯が浮くような鋭い痛みが走った。だが数秒もしないうちに、その引き裂かれるような痛みは、奇妙な疼きとむず痒さに取って代わられた――。
治った?
もう一度動かしてみる。腕はすでに完治していた。
……これが、吸血鬼の再生能力か。
「おい、立てよ。あの程度で死んだ犬みたいに伸びてるわけじゃないだろうな?」
不意に、目の前にその顔があった。
俺は息を呑み、恐怖をねじ伏せ、ふらつきながらも再び立ち上がる。
「大丈夫なの、ウィラン・シラツカ!」
遠くでエリアンの震える悲鳴が聞こえた。
返事をする暇はない。なぜなら次の瞬間、俺を迎えたのは男の容赦ない追撃だったからだ。
「ガッ――!!」
今度は動作すら見えなかった。腹部に裂けるような激痛が走り、俺は糸の切れた凧のように、通りの端から端へと吹き飛ばされた。五臓六腑が裏返るような吐き気が込み上げ、中身をぶちまけそうになる。
俺が地面に叩きつけられるのとほぼ同時に、男は物理法則を無視した速度で、再び俺の目の前に現れていた。
彼は余裕たっぷりにしゃがみ込み、その蒼白な顔に嵌め込まれたルビーのような瞳で俺を見下ろした。
「貴様は誰だ? 見たことのない顔だが」
「……」
腹と胸の痛みが酷すぎて、言葉が出ない。
【Lumen Lancea.聖光の槍】
ジャンヌが再び魔法を放つ。明らかに焦りが混じっていた。
だが今回、吸血鬼は彼女にチャンスすら与えなかった。俺の目の前から姿を消したかと思うと、瞬きする間にジャンヌの眼前に現れ、軽く突き飛ばした――。
金髪の少女は、杖ごと吹き飛ばされ、路地へと転がった。
「ジャンヌ!」
エリアンが悲鳴を上げ、倒れたジャンヌの元へ駆け寄っていく。
吸血鬼は再び俺の前へ戻ってきた。長身のシルエットが俺の視界を覆い隠し、世界が彼の影の下で冷たく閉ざされる。
「もう一度聞く――貴様は何者だ?」
「……そっくりそのまま、お返しするよ」
俺は血反吐を吐き捨て、歯を食いしばって睨み返した。
彼は眉を顰める。
「俺以外に、こんな辺境のクソ溜めみたいな国へ『派遣』された同胞がいるとは聞いていないがな?」
「……単にアンタ一人が無能だと思われてるだけなんじゃないの」
「減らず口を叩くガキだ。最後のチャンスをやる。正体を明かせ。さもなくば、今ここで殺す」
言葉が終わるか終わらないか、その時だった――。
「ヒュンッ!」
凍てつくような冷気を纏った矢が、大気を切り裂く鋭い音と共に、死角とも言える角度から飛来し、男の心臓を狙った。
目の前の吸血鬼も、この不意打ちには意表を突かれたようだ。千一秒の反応で、彼は人体構造を無視した動きで身体をねじり、氷の矢を脊椎スレスレで回避した。
今だ!
傷はあらかた塞がった。痛みも引いている。
俺はバネのように地面から跳ね起き、彼がまだ無理な姿勢でバランスを崩している隙を突き、渾身の力で彼を横へと突き飛ばした。同時に、その反動を利用して後方へバックステップし、安全圏へと退避する。
俺は彼の視線を追い、氷の矢が放たれた方向を見た。そこには、あの人がいた――。
トレードマークの銀髪が冷ややかな光を反射し、スミレ色の瞳は湖面のように凪いでいる。
シャンヤだ。
彼女の細い指先には数本のガラス瓶が挟まれており、その姿は重力から解き放たれた本物の魔術師のように宙に浮いていた。
「チッ。邪魔が入ったか」
男は体勢を立て直し、不快そうに舌打ちした。
シャンヤが指先で軽く弾くと、ガラス瓶の一つが砕け散り、淡い青色の霧が彼女の指先から溢れ出し、意思を持つかのように彼女の周りを漂った。
【Glacies Spiculum.氷晶の棘】
言葉が落ちた瞬間、青い霧は急速に凝縮し、腕ほどの太さがある鋭利な氷の槍へと変貌した。切っ先は殺意に満ちた輝きを放ち、刺すような冷気を撒き散らす。
次の一瞬――氷槍は一斉に切っ先を揃え、暴風雨のごとく吸血鬼へと殺到した。
回避スペースなど存在しない飽和攻撃だ。
だが、怪物は再び俺の常識を覆した。
降り注ぐ氷の弾幕に対し、彼の身体は幻影のように揺らぎ、氷槍のわずかな隙間を縫うようにねじれ、潜り、折り畳まれ、致命傷となる攻撃のすべてを紙一重で回避していったのだ。
それでも数本の槍が不吉な黒衣を切り裂き、その病的なまでに白い肌に骨まで達する傷を刻んだ。
「フン」
彼が低く唸ると、傷口は見る間に蠢き、塞がり、一瞬で元通りになった。
シャンヤは間髪入れず、次のガラス瓶を砕いた。再び青い霧が舞う。
だが吸血鬼は、これ以上の詠唱を許すつもりはなかった。彼は姿勢を低くし、真紅の瞳で空中のシャンヤをロックオンする。その意識は完全に、最大の脅威であるシャンヤへと向けられ、俺のことなど視界の端にも入れていなかった。
チャンスだ。今しかない!
俺は拳を握りしめ、体内の力を練り上げる。奴がシャンヤに気を取られている今なら、側面から奇襲をかけられる。止めるんだ、今ここで――。
だが、俺の足は地面に縫い付けられたように動かなかった。鉛のように重く、あろうことか微かに震えている。
どうした? 動けない……俺は怖いのか? こんな時に? ……俺が!?
ふ、ふざけるな! ここで退いてどうする!
マズイ、奴が動いた!
ドンッ、という重い踏み込み音と共に、足元の石畳が爆ぜた。男は黒い矢となり、闇色の残像を残して空中のシャンヤへと肉薄する! 瞬きする間に数十メートルの距離をゼロにする、神速の突進だ!
機を逃した……いや、まだ……間に合う!
俺の両足はようやく恐怖の縛めを振りほどき、シャンヤに迫る黒い影へと全速力で走り出した。せめて! せめて奴がシャンヤに触れる前に!
俺は全身のバネを使い、力の限り跳躍した。右手を精一杯、空中へと伸ばす。
奴のような人間離れした跳躍ではない。だが……。
身体が放物線の頂点に達し、落下に転じようとしたその刹那――俺の指先が、高速で上昇していく奴の足首を、辛うじて捉えた!
掴んだ!
「邪魔だ、下等生物がッ!」
野郎は完全に振り返りもせず、空中で器用に腰を捻ると、フリーになったもう片方の足で、俺の頭上から踵落としを見舞ってきた。
嘘だろ!? 空中でそんな動きできるのかよ? 曲芸か!
「ぐわぁっ――!」
胸部にプレス機で潰されたような衝撃が走り、俺は再びコントロールを失って、冷たく硬い石畳へと叩きつけられた。
頼む……十分であってくれ。俺が稼いだ、このわずかな時間が……。
シャンヤの指が動き、残りのガラス瓶が一斉に砕け散った。濃密な深青の霧が爆発的に広がり、分厚い絹の布のように男を包み込む。
【Vinctum Glaciale.氷結の戒め】
極寒の魔力が解き放たれた。硬質な青い氷が狂ったように増殖し、蔓延り、瞬く間に男を周囲の空間ごと凍てつく牢獄へと封じ込めた。
「今です!」
シャンヤが叫ぶ。
【Lux Fallens.墜ちる聖光】
エリアンに支えられながら、ジャンヌが震える手で杖を掲げた。先端から眩い光が迸る。声は脱力で掠れていたが、そこには拒絶しがたい神聖な響きがあった。
ドゴォォォォォォンッ!!!
街区全体を揺るがす轟音が響き渡る。夜空を引き裂くような黄金の雷霆が、天神の怒りの矛となって、空中の氷結牢獄へと垂直に降り注いだ。
元素の力が激突し、爆ぜ、閃光が視界を白く染め上げる。暴風のような余波が吹き荒れ、目を開けていられない。
巨大な氷塊は雷光に撃ち砕かれ、黒焦げた破片となって飛散した。
男の身体が空中から無様に落下し、地面に転がる。黒いマントはボロボロに焼け焦げ、露出した肌には電撃の火傷と凍傷が刻まれていた。あの余裕綽々だった態度は見る影もない。
彼は片膝をつき、地面に手をついて激しく喘いでいた。その表情は恐ろしいほど険しい。血走った真紅の瞳が、俺たち一人一人をねめつけ、状況を再計算している。
「チッ……面倒な連中に絡まれたものだ」
見てしまった。奴の傷が、先ほどと同じ異常な速度で癒え始めているのを。
ヤバい。シャンヤの周りにあった青い霧はもう尽きている。一気に魔力を放出しすぎたのか、彼女の顔色は紙のように白い。ジャンヌに至っては、エリアンに支えられていなければ立っていることすらままならない状態だ。
戦えるのは……俺だけか?
不意に、男の紅い瞳が俺を捉えた。魂の在り処を抉り出すような、深く、鋭い視線。
彼はすぐには動かなかった。代わりに、擦れた不快な声で問いかけてきた。
「おい、新人……名前くらい教えておけ……」
答えるべきか? それとも、会話で時間を稼ぐか? だが、今の俺に奴を倒す術があるのか?
俺が逡巡していると、彼は急に興味を失ったように、つまらなそうに手を振った。
「まあいい。どうせ、すぐに……すぐにまた会うことになる」
言葉が終わる前に、彼の身体は唐突に輪郭を失った。
濃密な黒い霧へと変化し、人の形を捨て、生きた墨汁のように地面を這い、吐き気を催すような怨嗟の気配を残して路地の闇へと滑り込んでいった。
跡形もなく消え失せる。
彼が現れて以来、心臓を鷲掴みにしていた窒息しそうな圧迫感も、彼と共に霧散した。
俺は限界だった。膝から力が抜け、骨を抜かれたようにその場へへたり込む。喉がヒューヒューと鳴り、酸素を貪る。生還の安堵と、骨の髄まで沁みた疲労が、潮のように押し寄せてきた。
「シャンヤ・テオドール!!」
平穏を破る雷のような怒号が響いた。
エリアン王女だ。彼女は宙からふわりと降り立ったシャンヤに向かって、怒髪天を衝く勢いで大股に歩み寄っていく。美しい顔は怒りで真っ赤に染まり、瞳は燃え上がっていた。
「どこに隠れていたの!? 最初から見ていたんでしょう!?」
彼女は歯軋りしながら詰め寄る。その声は恐怖と怒りで震え、王女としての品位などかなぐり捨てていた。
「どこかの物陰から、私たちが怪物になぶり殺しにされるのを、喜劇でも見るように高みの見物をしていたんでしょう!?」
その非難は、根拠のない悪意と積年の怨恨に満ちていた。
「どこへ行っても救世主気取りで、皆に感謝されたいわけ? お父様に媚びを売った時もそうだったの!?」
「エリアン! 落ち着いて!」
ジャンヌが慌てて割って入った。自分もフラフラなのに、必死に両手を広げて二人の間に立ちはだかる。
「今日ばかりは、今日ばかりはダメです! シャンヤ殿下の助けがなければ……私たちは本当に、全員ここで死んでいました」
だが、エリアンの激情の中心にいるシャンヤは、まるで別世界にいるかのようだった。
彼女はエリアンの憎悪に満ちた視線も、ジャンヌの必死の弁護も無視し、悠然とした足取りで彼女たちを素通りし、へたり込んでいる俺の目の前まで歩いてきた。
彼女は俺を見下ろした。
さっきの激闘など、ただの退屈な茶番だったと言わんばかりの冷徹さだ。
「勇者様」
その瞳に非難の色はなく、憐憫もなく、疑問さえもなかった。
「お立ちになれますか?」
俺は何かを証明しようとするかのように、無様な格好で石畳に手をつき、身体を起こした。
シャンヤはわずかに視線をずらし、俺のボロボロになった服――血と埃にまみれた惨めな姿と、背後に広がる局地戦争の跡地のような惨状を一瞥した。
「王宮へ戻りましょう。今の貴方様は、人前に出るべき姿ではありません」
俺は釣られて通りの向こうを見た。
いつの間にか、固く閉ざされていた家々の窓やドアの隙間から、黒い頭がいくつも覗いていた。住人たちが、好奇心と畏怖、そして遠慮のない探求心をない交ぜにした視線で、遠巻きに俺たちを見つめている。
おい、こっち見んな。俺はあいつとは違うぞ。
俺は黙ってシャンヤに従った。
俺は……勇者としての責任を、少しは果たせただろうか。大したことはできなかったけど。
エリアンとジャンヌは互いに支え合いながら路肩に立っていた。シャンヤがエリアンの横を通り過ぎる時、王女の全身から嫌悪感が棘のように逆立っていた。
俺は見なかったことにして、彼女の横を通り過ぎようとした。
「ウィラン・シラツカ」
低く、名を呼ばれた。
俺は足を止めた。
エリアン王女はジャンヌに肩を貸しながら、さっきの激昂の余韻でまだ頬を紅潮させていた。
彼女は顔を背け、埃で汚れた自分のドレスの裾を睨みつけていた。言葉を選ぶように口ごもり、やがて大きな決心をしたかのように、歯の隙間から言葉を絞り出した。
「今日は……礼を言うわ」




