13.泳がせ捜査
空は灰色の幕を低く垂らし、鉛のように重い雲が、今にもこの街の肩にのしかかってきそうだった。
エリアンは無言でマントを俺に突き返すと、代わりにキャスケット帽を被った。古風なデザインの帽子を目深に被り、その鋭い視線を眉骨の下に隠す。動作は洗練されていて、一切の無駄がない。
ジャンヌは少し離れた場所にある雑貨店のショーウィンドウを覗いているフリをしていた。だが、彼女が足を止める位置は、常に周囲を見渡せる最適な観測ポイントだった。休日にウィンドウショッピングを楽しむ女子学生を装ってはいるが、その余裕のあるリズムが俺に告げている――彼女は見ているし、聞いているのだと。
「待ってなさい」
エリアンが街路樹の下にあるベンチに腰を下ろした。声量は絞られているが、正確に俺の耳へと届く。
時計塔の針が、遅々として、しかし確実に進んでいく。秒針の一刻みが細い針となって、俺の張り詰めた神経をチクチクと刺した。
俺は街角に立ち、周囲の全スキャンを開始した。目は一時も休まない。
通りの向かいのベンチには、老人が彫像のように座っている。時折、杖で地面をコツコツと叩き、石畳と木が擦れる乾いた音を立てる。あれは暗号かもしれない。
屋根瓦の上には黒猫が寝そべり、尻尾をゆらりと振っている。偶然には見えない。あの位置からは通り全体が見下ろせる。監視には理想的すぎる。
馬車の陰で男女が談笑している。口は動き、愛想の良い笑みを浮かべているが、その手は一度もポケットや袖から出てこない。彼らも何かを伝達しているのかもしれない。
俺は彼らを凝視し、あらゆる細部を脳内で照合し、分析する。
通りに異変はない。すべてが日常通りで、それが逆に毛が逆立つほど不気味だった。
時刻が十時へと迫る――。
俺は表層の下で暗流が渦巻き始めるのを感じた。古いビルの配管内を走る蒸気のように、ひとたび亀裂が入れば、熱湯と火花が噴き出すような圧力がそこにある。
今か? いや、まだだ。
俺はすべてを見つめ続ける――猫、老人、馬車、時計塔。
その時、エリアンが動いた。
彼女はベンチから立ち上がり、琥珀色の瞳を鋭く光らせた。
「いいわ……」
よし、来たか。
「あーあ、撤収撤収」
彼女はキャスケットをパッと脱ぎ捨てた。解き放たれた真紅のツインテールが、滝のようにバサリと背中に広がる。
うん、撤収。
……は? 撤収? 待て待て――取引は? 犯人は? ブツは?
「えっ? これで終わりですか? 現行犯逮捕しに来たんじゃないんですか? 何か見逃したんじゃ……」
「何を見逃したですって? 貴方がマヌケ面で猫を睨みつけている間に、自分が何を見落としていたか考えなさいよ」
なんだそれ! おままごとの方がまだ緊張感あるぞ? 今朝からずっと、この女の手のひらで踊らされている気分だ!
「チッ、こんなショボい任務なら、適当な部下に監視させれば済む話でしょうが」
こんなレベルの任務に、わざわざ勇者様(俺)を動員する必要があったのか? しかもあんな強引な『招待』方法で。
「他の連中は、貴方と同じでどいつもこいつも豚だからよ」
「はあ?」
「ジャンヌ」
エリアンが短く呼ぶ。
「はい」
ジャンヌが即座に応じ、エリアンの元へ歩み寄ると、ポケットから手帳を取り出した。
「接触相手は第三記録室の下級書記官、スティーブ・ベルマンと確認しました」
「誰だそいつ?」
いかにもモブっぽい名前だな。
「城内のネズミよ。書記局の事務員」
エリアンは遠慮のない蔑みの視線を俺に向けた。
「じゃあ、もう一人の取引相手は? このままみすみす逃がすんですか?」
「そんなことは城に戻って内務部に報告すればいいだけの話よ。それに、私たちはか弱い乙女二人なのよ? あんな危険分子を相手に、素手で立ち向かうとでも思って?」
彼女が俺を戦力外扱いしている件は置いとくとして、お前ら二人が『か弱い乙女』? その言葉とは十万八千キロくらい距離があるぞ!
俺はこっそりとジャンヌを盗み見た。案の定、彼女は俺をじっと見つめていた。口元は笑っているが、目が笑っていない。怖い。
「ま、このまま泳がせるのは腹が立つけれど」
エリアンは口の端を吊り上げ、諭すような口調で言った。
「そのクルミ並みの大きさの脳みそでよく考えなさい。たかが一介の事務員に何ができるというの? 背後には必ず黒幕がいるわ。これは見逃したんじゃないの、『釣り』よ。わかった? 偽物さん」
こいつ、単に俺の無知をあげつらって馬鹿にしたいだけだろ。
「だから! 俺をここまで連れ回した意味はなんなんですか? そんなこと、貴女たち二人だけで十分処理できたでしょう!?」
エリアンは不意に四十五度振り返り、小首を傾げて挑発的に俺を見た。その瞳の色が変わり、昨晩の宴会で見せた、あの突き刺さるような剥き出しの怒りへと戻る。
「はっきり言っておくわ、『勇者様』」
彼女の声が氷点下まで下がった。
「貴方が誰であろうと、いつまで城でタダ飯を食らおうと、私にはどうでもいいことよ」
「じゃあなんで――」
「貴方もそろそろ、私の本当の標的が誰なのか察しがついているでしょう? 今日、貴方を連れ出したのは、もちろん別の目的があるからよ」
俺の背筋を、冷たく湿ったものが這い上がるような悪寒が走った。
なんだ、それは。
俺は彼女の前で金縛りにあったように動けなくなった。まるで毒蛇に睨まれたネズミだ。
「貴方には、簡単な手伝いをしてもらうわ。『あの人』を誘い出すための餌になってもらうの。ふふ、城の衛兵の動きからして、そろそろ時間ね。今回こそは彼女に思い知らせて……ふふふ……」
違う。
彼女じゃない――。
その瞬間に襲ってきた凍りつくような感覚は、エリアンから発せられたものではなかった。
それは全く異質の、沈黙していながらも圧倒的な質量を持った『危険』だった。
まるで焼け付いた鉄塊を、何の前触れもなくうなじに押し当てられたような感覚。逃げ場のない圧迫感。
通りの喧騒が、その一瞬にして真空に吸い出されたように消え失せた。
「こんにちは。少々よろしいかな」
背後から、男の声がした。
俺は弾かれたように振り返る――。
そこには、血の気を失ったかのように蒼白な、見知らぬ顔があった。
不自然に細長い体躯。姿を隠すための深いマント。
「あぁん? なによオジサン、何の用?」
背後のエリアンが不機嫌そうに声を上げた。




