つがいの自覚が薄いきみ
ありきたりなハッピーエンドだと思われるもの。
つがい、というものがこの世界には存在する。
この世界を作った神様とやらがヒトを作った時に、色々あって魂が割れてしまったのだとか。
だから、この世界のヒトは基本的には不完全で、それゆえに。
不完全な隙間を埋めるべく、魂の形が似た者と結ばれるようになっているのだとか。
結ばれる、と一言で言うのは簡単だが、実際はそう簡単な話ではない。
ただ一緒にいるだけで結ばれるとは言えないから、無理矢理相手を自分の近くに縛り付けていてもつがいが死んだ時点で残された方が発狂するなんて話はありふれていたし。
逆に、本当に心からお互いが通じ合っていたのであれば。もしも死が二人を分かつ事になったとしても、残された側が精神的に不安定になったりはしないだとか。
噂としては広まっていたけれど、周囲にそういったつがいが存在しなかったから。
だから。
本当かどうかは、知らない。
だって魂なんて、目に見えるわけではないのだから。
目に見えないものをわかれ、と言われても限度がある。
例えば目に見えなくても、春を迎えたばかりの風。
雪が溶けた後の、かすかな芽吹きを感じさせる緑の息吹。
風は目に見えなくても感じられるので、そういったものであるのなら、わからないでもないのだ。
けれども魂なんて、心と同じく見ようと思ったって見れるものではない。
見る事はできなくとも、それでも感じ取ることはできるのだ。
それが、つがいというものだった。
とはいえ、感じ取る力も個人差がある。
獣の特性を強く引き継いだ獣人たちは己の運命であり半身とも言える存在を感知する力は強いけれど、ただのヒトはそういったものを感じ取る力がとても低かった。
目の前に運命がいても、気付くことがない、なんてのはザラだった。
獣人と呼ばれる者たちの中でも最も強いとされている竜人族の青年に、自分のつがいだ、と言われてもそれ故にピンとこなかったのは仕方のない事だ。
両親も、ヒト族であったのでつがいを感知する能力は驚く程低い。
だから半信半疑だった。仲の良い家族、それも可愛い一人娘となれば、いくらつがいと言われたからとて簡単に手放すなど……と躊躇うのも無理はなかった。
裕福な家だった。
だから余計に、というのもあったかもしれない。
だが、運命の相手である者たちを引き裂こうとするのは、大罪である。
それにこの世界に存在するのはヒトや獣人だけではない。
この世界の穢れが具現化したとされている、魔物だって存在していた。
魔物は様々な種類がいる。弱い個体であるならばヒト族でも退治できるけれど、あまりにも強い魔物はヒト族だけではとても太刀打ちできなかった。
そういった強い魔物はヒト族よりも力のある獣人や、竜人たちが率先して退治していた。
そんな世界の平和を維持するのに貢献している種族の竜人の運命の相手、となれば。
引き裂くなんて以ての外だったのだ。
運命に気付く前ならいざ知らず、気付いてから引き裂かれてしまえば、その竜人の力は弱まる一方。何せ魂の半身を引き離すわけなのだから。知らないままなら、まだどうにかなった。けれど知った後ではそうもいかない。
可愛い一人娘との別れを惜しみ、泣く泣く見送ってくれた両親を見て、娘――ジェシカもまた涙ぐんだ。
ジェシカを運命の相手だと知った竜人――ゼクスも、見るからに幸せそうな家族からたった一人の娘を引き離す事に心を痛めた。けれど、運命だと知ってしまった以上、見なかった事にはできない。
家族から引き離す事になってしまった、というのもあって、ゼクスはジェシカを大切にすることを約束した。
ジェシカの家にゼクスが、というのは、少しばかり無理があったのだ。
それはゼクスが竜人であるから、というのもあった。
ヒトとは圧倒的に力の差がある種族。気を付けていても何かの拍子に物を壊してしまうかもしれない。ヒト族と竜人族とでは、身の回りの物の頑丈さも違っていたし、何よりもし強い魔物が現れた際、竜人は普段はヒトとそう変わらない見た目をしているが、本気を出す際はツノや牙、翼といったものが出たりもする。
翼が風を打って飛ぶ際は、脆いものなら簡単に壊れてしまう事もあるのだ。
だから竜人が戦う時は、なるべく人のいないところじゃないといけない。周囲を巻き込んでしまうから。最初からその姿で戦うのであればいいが、普段はヒトとそう変わらない状態でいて、そこで魔物が現れて思った以上に強い個体であったなら、ヒトと同じような姿のままでは簡単に勝てないとなれば。
被害を広げる前に決着をつけよう、となればある程度竜の姿に近づく必要があるのだ。
だがそれをヒトが多い場所でやると、ヒトにも犠牲が出かねない。死にはしないだろうけれど、衝撃で転んだりして打ち所が悪ければ、もしかしたら死んでしまう可能性もある。
かつては、本当に竜の姿になって戦った竜人というのもいた。
今の世代の竜人たちがその姿になる必要のある強い魔物というのは出ていないけれど、もしそんな魔物が出たならば。
ヒトを避難させてそれから本気を出すにしても、強い魔物相手ならその間だけでもたくさんの被害が出るだろう。
魔物の被害、竜人たちが本気を出すべくヒトから竜に近い姿になった時に発生する衝撃。
どちらにしても、ヒトの中に竜人がいるよりは、最初からヒトのいない場所である程度本気を出せる状態になってから挑んだ方がお互いのためでもあったのだ。
それに、もしその際にうっかりつがいに危害が及んだならば。
魂の半身に傷がついたとなれば、冷静でいられるはずもない。
その隙を突かれて被害が増えるだけで済めばいいが、自らの魂の半分に傷がついたとなれば、発狂する者も現れる。そうなれば、守ろうとしていたヒトを竜人自ら傷つけてしまうかもしれないのだ。
だからこそ、竜人たちはつがいを見つけた際、なるべく安全な場所につがいを囲い込もうとする。
家族や友人と引き離すのは心苦しいが、他にいい方法が今の時点ではないのだ。
もしつがいに他に恋人と呼ばれる存在がいたのなら、もっと大変な事になっていたかもしれない。
けれど幸いな事にジェシカには恋人と呼べる相手はいなかった。仲の良い異性の友人はいたようだが、それだって家同士の付き合いで知り合った、程度のもので、恋をしていたというわけではなかったので。
つがいを自ら安心できる場所に囲い込む事で、その相手の安全は保障できる。
運命の片割れを失って下手に暴走されてはヒト族にも被害が及ぶので、そういう意味ではお互いのため、と言えなくもなかった。
ゼクスは急に住み慣れた場所から見知らぬ場所で生活することになったジェシカに、これ以上ないくらい細やかに気を配り、世話をした。急な環境の変化にまだ戸惑っているのか、あまりあれこれ自己主張しないジェシカに、押しつけがましくない程度に声をかけ、少しずつお互いの距離を縮めていこうとしていた。
それもあって、ジェシカも少しずつではあるがゼクスと歩み寄ろうとしていた。
その身一つでやってくる事になったジェシカに、ゼクスはできる限り生活に不便がないように、とあれこれ手を尽くした。
魔物は倒した後、素材と呼べる部分が採取できる。そしてそれらは生活に使う魔道具の部品となるもので。
強い魔物からとれる素材は、当然高値で売れるのもあって強い種族は必然的に相応に財を持つ。
だからこそ、見つけたつがいの生活がままならない、なんて事は余程の事がない限りはないのだ。
ゼクスに従う使用人たちの働きもあって、ジェシカの暮らしに不自由はなかった。
時として話し相手になってくれているといっても、それでもやはり使用人と友人は違うもので。
ゼクスにとってジェシカは最愛のつがいであるが、同時に友人にもなれるはずだからこそ、彼は外に魔物を退治しに行った際に見たあれこれをジェシカに話して聞かせたりもしたし、安全が確認できている場所であればジェシカを抱え、飛んで連れていったりもした。
かつてジェシカが住んでいた家族がいる町にも、連れていこうか? と聞けばジェシカはそっと首を横に振った。
彼女が望むのなら、ずっとは無理でも時々は連れていくつもりだった。
いつか、彼女がずっとここにいたい、もうあっちに行きたくないと言い出す可能性があったから、本当は家族のところに連れていくのを内心でゼクスは嫌がっていたけれど、それでもジェシカが望むのであれば。
そう思っていたのに、あっさりとゼクスの望みを叶えるかのようにジェシカは家族のところへは行かないと言ったので、安堵の気持ちと同時に「何故?」という疑問が浮かんだ。
覚悟を決めてお別れをしたのに会ったら本当に次は別れがつらくなる、という理由ならわかる。
けれど、ジェシカの様子からそこまでの感情は読み取れなかった。
家族に会わないのであれば、かつての友人たちの場所はどうだろうか、と思って言ってみれば、それもジェシカは首を横に振った。
他のつがいを持つ者たちの話から、そういった親しい相手に会いたい気持ちは簡単に消えるものではないし、望むのならそうさせた方がいい、という風に聞いていたのもあったのだけれど。
ジェシカは今まで暮らしていた町にも家族や友人たちにもあまり執着をしていないようだった。
「それなら、他にどこか、行きたいところはないか?」
「……それなら、あの町から少し離れたところになるんですが……」
もしかして、我慢させているのではないだろうか。
ゼクスはそう思ってしまったので、なるべくジェシカ本人の口から希望を聞きたいと思って問いかけた。
ヒト族は弱い。
だからこそ、竜人族のつがいとなった者の中にはその強い力を恐れて、つがいを傷つけるなんて事はしないのに、本心を一切明かそうとしない者もいる、というかいた、という話もあったから。
ジェシカが心から喜んでくれるのなら、ゼクスとしてはできる範囲でならどんな事でもするつもりだった。
それこそ世界の果てを見てみたい、なんていう望みを口に出されたのなら、彼女を抱えて飛び続ける事だって構わない。
ゼクスにとっての幸せは、ジェシカが喜んでくれればそれで充分なのだ。
ただ、その幸せは勿論自分の隣で、という形になるので、他に好きな相手がいるからそっちとくっつきたい、という願いだけは叶えられそうにないのだが。
ジェシカは普段からあまり自分の望みを口に出すタイプではないのか、控えめすぎる程だった。
そんな彼女が行ってみたい、と告げた場所は、ジェシカの家族や友人たちが暮らす町から少し離れた山の近くの小さな村で。
元々大きくもなければヒトが来る理由もなさそうな寂れた村。
ゼクスは――というか竜人の多くは世界中あちこち飛び回るから、地理には必然的に詳しくもなるのだが、しかしそんなゼクスでもそんなところに村があったのか……と思ったくらいだ。
一体どうしてそんなちっぽけで名前もなさそうな村にジェシカが行きたいと望んだのかはわからない。
だが、それがジェシカの望みなら。
ゼクスの返事は決まっていた。
勿論「はい喜んで」である。
とはいえ、たどり着いたその村は既に廃村となっていた。誰も住んでいない無人の村。
さして大きくもない村を、ジェシカは慣れた足取りでぐるりと回る。空から見た時もそう大きくないとわかっていたので、一周するのはあっという間だった。
村のはずれにあった一際ぼろぼろの小屋を見て、ジェシカは恐る恐るといった風に中を覗き込んだりもしていたけれど。
やがて気は済んだのか、帰りましょうとゼクスの腕を引いた。
どうせならもっと賑やかな場所にも行こうか? と聞いたがジェシカはそれは次の機会に、と言って首を横に振った。
次。
次も、一緒にお出かけしてくれるんだなぁ、と思うとゼクスの胸の中がほのかに温かくなる。
ゼクスにとってはつがいの我儘を叶えるのは、当然の事だった。
勿論、どこそこの国を滅ぼして、なんて突拍子もないものならば簡単に叶えられるものではない。つがいがその国に家族を殺されたとか、相応の理由があるのならばまだしも。ただの気まぐれで口に出しただけのものならば、時と場合によっては叶えられない事もある。
けれど、ジェシカがゼクスに望むお願い事の大半は、無条件で叶えて問題のないものばかりで。
共に出かけた日から数日後、ジェシカは庭に花を植えたいと言い出した。
ゼクスの家の庭は広いものの、ゼクス本人が今まで花といったものに興味がなかったので、随分と殺風景でもあった。
そこにつがいが花を植えたいというのなら、止める理由はどこにもない。
とはいえ、土いじりは中々に体力がいるというのも知識としては知っていたので、使用人たちにはジェシカが望むようなら手を貸してやってほしいと伝えていた。
使用人たちのジェシカに対する感情は良好。皆笑顔で勿論と頷いてくれた。
ゼクスはそうじゃなかったが、中にはつがいとして連れてきた相手が相手を拒絶し続ける、なんてこともあるらしく、そうなるといくら主人の愛するつがいと言えど、その主人の心を常に曇らせている存在にいい感情を持てない、という者はどうしたって出る。
つがいとして共にある事を受け入れたものの、やはり故郷を離れ家族や親しい友人たちと離れた事で、やっぱり嫌だ、帰りたい、となる者も出る、という話はそれなりにあるので。
ジェシカが今のところはそうなっていないのもあって、そしてゼクスと歩み寄ろうとしているジェシカの姿は使用人たちから見ても好感度が高かったのだ。
そんな使用人たちの手助けもあって、ジェシカは庭にたくさんの花を植える事となった。
植えたのは白ユリだった。
ユリの花が好きなのか、と思って聞けば、ジェシカはそっと首を横に振った。
では、白い色が好きなのかと思って質問を重ねれば、それもやはり首を横に振られた。
「好きでもない花を植えたのか? どうせならジェシカの好きな花を植えればよかったのに」
「いいんですか?」
「勿論だとも」
「では、次の機会があった時に」
次の機会、がいつになるかはわからない。
ただ、その時の会話はそこで打ち切られるように終わってしまったので。
結局ゼクスはどうして好きでもない花を植えようとしたのか、知ることができなかった。好きな花ならわかる。けれど、ジェシカはユリの花はそこまで好きでもないと言った。
「……ユリでなければ、ならなかった……?」
ふと、そんな可能性に行きついた。
ヒト族の風習を、ゼクスは全て把握しているわけではない。だからこそ、ヒト族にとってのユリの花とはどういう認識なのかを調べてみようと思い立った。
ジェシカがどうして植えようと思ったか。それを知る事で、よりつがいに対しての理解が深まるのではないかと思ったから。
つがいがやらなければ、そもそもゼクスはそんな事を思い付きもしなかった。
ゼクスにとっては、花は花であって、それ以上でも以下でもない。
料理に使える蜜が採れるものとそうでないもの。その程度しか把握していなかった。
だから、というわけではないがまず白いユリについて調べようとした時に真っ先に思いついたのは花言葉である。ヒト族の多くは何かの折に相手に花を贈る事があるとは聞いていたし、実際にそれを見かけたこともある。
あの時は確か……赤い花だったと思う。少しばかり匂いのきついやつで、けれどヒト族はあまりそれを気にした様子もなかった。贈っていたのは男性で、それを受け取った女性は嬉しそうにしていたのをふと思い出す。
花を贈る、というのがヒト族にとってはよくある事であるのなら、とゼクスは一番近いヒト族が暮らす町に行き、花屋にまず足を運んだ。
そこで白ユリについて問いかける。
「贈り物、としての白ユリですか……? 相手が好きな花だというのなら問題はないと思いますよ」
「あぁ、いや、あまり好きという感じではなかったな」
「そうですか。匂いも人によってはきついと思われたりしますからね」
「そうなのか」
確かに、ヒト族よりもはるかに優れた嗅覚を持つ竜人からすると、花屋の匂いは少しばかりきついものがある。いい匂い、だと思うものとあまり好まない匂いが混ざっていて、正直長居したくはない。
ジェシカが植えた白ユリはまだ植えたばかりで芽も出ていないから匂いなど思いもよらなかったが、もしあの庭一面に白ユリが、となれば少しきついかもしれない。
だが、ジェシカがそれを望むのならば、まぁちょっときつい花の匂いくらい我慢できる。
「白いユリの花言葉は純潔とか無垢とか威厳が一般的ですが、他にも無邪気、高貴、自尊心、栄華といったものがあります。贈るのであれば、余程の事がない限りは悪く受け取られる事はないんじゃないでしょうか。
ただ……」
「ただ?」
「墓に供える花としてもよくつかわれるので、そちらの印象が強い相手に贈るともしかしたら、ちょっと心証が悪くなったりするかもしれない……かも?」
といってもたとえばそれは、先があまり長くない老人相手の場合が多いと言われゼクスはそうかと相槌を打った。そうしてもうちょっと贈る予定の相手が好きそうな花を探ってくるよと言って店を出る。
ジェシカが花を植えたい、と言い出したのはゼクスからするとあまりにも唐突に感じられたけれど、ジェシカの中ではあのタイミングだったのだろう。
そう思い返して、そう言えばと既に廃村と化していた小さな村の事を思い出す。
そうだ、あの村に行った後すぐだった。ジェシカが白ユリを植えたいと言い出したのは。
ふと気になって、ゼクスは町を出てから羽を出し、空を飛んで廃村へと向かう。
ゼクスからするとすっかり無人になっただけの村だ。
不便な場所でもあったから、人が出ていったとしてもおかしいとも思わなかった。
魔物がやってきて、太刀打ちできないから逃げた、なんてところはいくらでもある。
「うん、そうだ。あの家だけやけにボロボロで。
だからてっきりあの家が魔物に襲われて、その隙に他の皆が逃げ……いや、待てよ?」
あっという間に廃村にたどり着いて、あれから何も変わっていないなと思いながら村のはずれにあった一つだけやけにボロボロな小屋を見る。
今しがた口に出したような、魔物が襲ってきてその直後に逃げ出した、というのであれば。
もうちょっと村の中は雑然としていてもおかしくはないはずだ。
魔物の数や強さにもよるが、一つの家だけをボロボロにして終わるだなんて果たしてあるだろうか?
あの時のゼクスはジェシカが望んだからこうしてここに来たけれど、正直誰も住んでいない村なんて見るところは無いに等しく、またどちらかといえばそんな村を見て回っていたつがいを眺めている方が余程有意義だった。
ジェシカはあの時村をぐるりと一周して、それからあのボロボロの小屋を見た。
壁の一部がはがれていたり、屋根だって壊れかけているからいつ崩れたっておかしくはないそこを、中には入らず覗き込むようにしていた。
中に入るつもりなら、流石に危険だとゼクスも止めただろう。ただ中を覗いているだけだったから、ゼクスは危なくないうちはつがいの行動を制限しないようにしていたので。
果たしてジェシカは一体何を見たのだろう。
あの小屋の中に何かあったのだろうか。
そう思って、あの時のジェシカのようにゼクスもまた小屋の中を覗き込んでみた。
出入口となっていたはずのドアは半分ほど壊れていて、既にドアとしての役割なんて果たせそうにない。それにこうなってからそれなりに時間が経過していたらしく、雨風が入り込んだからか、玄関と思われる場所から少し先まで、落ち葉が入り込んでいた。その落ち葉も果たしていつからのものなのか、すっかり乾燥して踏んだらあっという間に粉々になりそうだ。
ジェシカが入ろうとしたならば勿論止めたけれど、ゼクスもまた足を踏み入れようとは思わなかった。
何せ既にいつ倒壊してもおかしくない感じなのだ。そこにゼクスが入ったら、ちょっとそこらの壁や柱にぶつかっただけで、簡単に倒壊するかもしれなかった。まぁ、竜人であるゼクスならこの小屋が壊れたとしても、多分ちょっとしたかすり傷ができるかどうか、といったところだろうか。
覗き込んで見える範囲は、これまた酷いものだった。
中で何かが暴れでもしたのか、というくらいに壁や床がずたずたになっていたのだ。
「……魔物、にしてはおかしいな。室内で戦ったのか? まさかだろう?」
思わず声に出す。
確かに魔物が人里を襲いにやってくる事はある。そして、窓をぶち破って室内に入り込んだ、なんて話だっていくらでもある。だがそういった場合、戦える者であれ戦えない者であれ、下手に密室になりかねない室内にいるよりは、外に出た方が生存率は案外上がるのだ。
勿論、魔物の数が多すぎて外に逃げても無意味、なんて場合もあるかもしれないが、そんな大勢の魔物が襲ってくる事態がそもそも稀だ。スタンピードならいざ知らず、そうでなければ人里を襲いにやってくる魔物の数は普段はそう多くはない。
だからこそ、室内にやって来たのならすぐさま外に逃げる方が助かる道はあるのだ。
室内にいた相手が戦闘に自信があって、室内で倒した方が手っ取り早いと考えたなら、室内で戦う事もあるかもしれない。だが、もしそうなら家の中についた傷があまりにも多すぎた。
魔物が暴れてできた傷、戦いの際、部屋の広さの目測を誤って自らの武器で傷つけてしまった可能性。
それらを考えても、あまりにも酷い有様だったのだ。
「まるで、魔物というよりは人同士で争ったような……」
ヒト族よりも強い種族だったなら、こうも室内に目立つ傷はつかなかっただろう。獣人族なら武器がなくとも自らの爪や牙が武器になるとはいえ、それでも室内をここまで傷つける必要はない。ゼクスのような竜人族はではどうか、となると、そもそも爪や牙を出す必要がない。そうなると、普通のヒト族とそう変わらない見た目のままなので、室内がここまで傷つく事も本来はない。どうしても竜の力を出す必要があるならば、素直に外に出るだろうし。魔物はヒト族に限った話ではないが、生きている相手を襲う。だから室外に逃げれば追いかけてくるから、誰もいない室内で暴れまわるという事はほぼない。それもあって大抵の者たちはまず外に出るのだ。
だから、というべきか魔物が室内に入り込んだにしても、傷の付き方がどうにもおかしく思える。
それこそ今呟いたように、家の中でヒト族同士で争った、と言われた方がしっくりくる。
視線を一度小屋の中から外側へ向ける。そうして他の家を見たが、ボロボロなのはここだけで他の家は中はどうだか知らないが、少なくとも外側は綺麗なものだった。
どうせ誰もいないのだから、と思い、ゼクスは他の家へと足を向ける。
そしていくつかの家の中に入ってみた。カギはかかっていなかったので、簡単に中に入る事ができたしカギがかかっていたとしても、ゼクスの力ならヒト族の家の扉など簡単に壊す事ができる。
「……何かがあってボロボロになったのはあの小屋だけ、か……他は綺麗なものだ」
いくつかの、というか村にあった他の家全て、そう広くもなかったから結局は全部を見てしまった。
その結果分かった事は、そこまで多くもない。
ただ、他の家はどれも中は綺麗なもので、何かが争ったような形跡もなければ、家財道具の一切が存在していなかった。あの小屋に魔物がきて、どうにか中で倒したとして。
もし今後もここに魔物がきたら、と恐れた他の者たちが家財道具一式を持って逃げ出した、と考えればまぁしっくりくる。だがそれと同時に――
(あの小屋の連中を殺して、証拠を隠滅した後皆が出ていった、という事も考えられる……)
何というかここの村人が出ていった時期はきっと同じ頃なのだろうな、と思えたのだ。
人が誰も住まなくなった家は傷むのが早い。それは、ヒト族に限った話ではなく、獣人たちや竜人の家などもそうだ。どれだけ頑丈な素材を用いて造ったとしても、造ったそれらが雨風に晒されるような場所にあれば、誰も手入れをしないとなればあっという間にボロボロになっていく。
森の中で暮らすエルフたちの家だって、巨大な木の中をくりぬいて作ったものなどもあるけれど、それだって穴を開けるだけ開けてそのまま放置すれば簡単に木は枯れてしまうのだ。
魔法の力で補強はできても、魔法だって万能ではない。未来永劫ずっと劣化しないように、なんてやろうとすれば果たしてどれだけの魔力が必要とされる事か……
そういった目線で見ると、この村のあのボロボロの小屋以外の家の傷み具合は大体同じに見えたのだ。
とはいえ、ゼクスはそういった専門家ではない。あくまでもそう見えるというだけで、もし詳しく調べたら実際は違う、なんてこともあるかもしれない。
だが、この村の建物はどれも魔法がかけられた痕跡もなければ、何か特殊な技術が用いられていたようにも見えないので。
恐らくゼクスの見立ては間違ってはいないのではないか、と思ったのだ。
ただ、だからどうした、と言われてしまえば。
どうも何も、となってしまうのだ。
ゼクスはこの村の事を知らない。
近くの町や村に出向いて聞いたとして、果たしてこの村がある、という事実を知っている者がいるかも疑わしい。何せ、街道からも大分離れているのだ。ひっそりとした村。山に行こうとした誰かなら、この村の存在を知っているとは思うけれど。
だが、この山にだって特別何かがあるわけではない。どこにでもある普通の山だ。
ここにしかない薬草だとか、そういった特別なものがあるか、と言われると恐らくはないだろう。あったなら、少なくともゼクスは同族の誰かから聞いているはずだ。だがそんな記憶は一切ないので。
わざわざこの村の先にある山に行く必要がないのであれば、街道からも離れた村などむしろ知っている者の方が少ないだろう。
かつてここに住んでいた、という相手にこの村の事を聞こうにもそれが誰であるか、までゼクスは知りようもないし、ましてや調べるにしたって簡単な話ではない。
もし、何かこの村で不都合な出来事があって、それで村を出て行った、なんて場合は。
別のところから引っ越してきた、という人物がいたとしても、この村から来たとは言わないかもしれない。
そうなれば、この村の事を調べるにしても、かなりの時間がかかるだろう。
ゼクスの家で雇っている使用人の中から、そういった調べものを苦に思わない誰かに頼んでもいいのだが……
(やめておこう。ジェシカが何を思ってここに来たのかはわからないが……探っていることを知られたらいい気分はしないかもしれない)
何か事情があったかもしれないし、本当にただ、噂に聞いただけでちょっと見てみたい、とかいう理由だったかもしれない。真相は結局のところジェシカの中にしかない。
ゼクスはジェシカの事を大事にしたいので、踏み込むにしてもタイミングを窺うのは言うまでもない。
今、聞いたとして。
答えてくれるかは……ゼクスには正直自信がなかった。
ただ、この村の事は頭の片隅に留めておこうとは思っているけれど。
結局、ジェシカが白ユリを植えようと思った原因がこの村にあるのかもわからないままだ。
ジェシカは日々を平穏に過ごしている。
身一つでゼクスの家に連れてこられたとはいえ、それでも日が経てばそれなりに慣れてきたのか今ではすっかり馴染んでいると言ってもいい。
与えられた部屋で、書斎にあった本を数冊持ち込んでゆったりと読書をしていることが多い。
外に出る事を禁じているわけではないが、ジェシカはあまり外に出ようとはしなかった。
ここで暮らしているヒト族のほとんどは他の竜人のつがいであるので、外を歩いていたとしても、誰も害そうなどとは考えない。だから、というわけではないが、それでも普通のヒト族の町や村に比べると安全である。なので、ゼクスもジェシカが家を出て周辺を出歩く事までは禁じていないのだが……それでも、ジェシカはどこか曖昧に微笑むだけだった。
ゼクスがつがいであるジェシカと出会った時、彼女は故郷の町を勿論出歩いていた。
友人たちに囲まれるようにして。
だからこそ、ゼクスはつがいの気配を察知して見つける事ができた。家の中にずっとこもっていたのであれば、気配を仄かに感じ取れてもどこにいるか、まではわからなかっただろう。流石につがいの気配がするからといって、勝手に人様の家に入るわけにもいかない。
そういう意味では、つがいと出会うことができるのは本当に運命だと言える。
もしその時ゼクスがあの町にいなければ。
そしてジェシカが外にいなければ。
きっと二人が出会う事はなかったかもしれないのだ。
ゼクスにとってはつがいと出会えた事はこの上ない幸運だが、果たしてジェシカはどうだろう。
彼女にとっては故郷も人間関係も全て捨てる事になったようなものだ。
もしかしたら、幸せではないのかもしれない。
流石につがいとはいえ、心の内までわかるわけじゃない。
どれだけゼクスがジェシカのためにと心を尽くしたとして、それら全てがジェシカにとっては無意味なものである、という可能性も存在する。
それでも。
ゼクスにできる事は限られているし、それらを諦めるつもりもない。
いつか、ゼクスが抱くこの気持ちのほんのひとかけらだけでも伝わってくれればそれで充分だった。
今はなるべくジェシカが穏やかに過ごせるように。
自分の気持ちばかりを押し付けないように、と少しずつ距離を縮めていくつもりであった。
そんなある日の事だった。
読み終えた本を書斎に戻しに行く途中のジェシカを見かけて、ゼクスは折角だから外に行かないか、と誘おうと思った。鳥人族の行商人たちが今やってきているので、外からの珍しい品が見られるかもしれなかった。もしジェシカに欲しいものがあるなら、それを贈るのもいい、と思っての事だ。
ところが――
「ゼシカ! あ、いや、すまない、ちょっと噛んだ」
思っていたよりも内心緊張でもしていたのだろうか。ゼクスはつがいの名を呼ぼうとして噛んだ。
それでもジェシカの名である、とわかる呼び方をしたけれど、だがゼクスにとっては大変な事だった。
最愛の人の名前をマトモに呼べなかったのだ。
名というのは、大切なものだ。
その人をその人たらしめる重要なもの。
親やそれに連なる者から与えられる、最初の贈り物と言ってもいい。
愛称というものは存在するし、仲の良い相手ならそういった呼び方をする事もあるだろう。
けれども、そうでもない相手の名は、せめて正しく呼ぶべきだ。
そうあるべき、と思っているゼクスからすると、これはやっちまった案件である。
「大丈夫、ですか?」
噛んだ、という言葉の意味をどう受け止めたのだろうか。舌を噛んだ、と捉えたのかもしれない。
心配そうに見上げてくるジェシカの表情からは、特に不快感は見えない。
「あ、あぁ、うん。大丈夫。こう見えて頑丈だからね」
だから、ゼクスも少しばかり誤魔化すように笑ってみせた。
「そうですか」
怪我をしたわけではない、と思ったジェシカもまたゼクスの不格好な笑みにつられるように微笑む。
その笑い方が。
いつもより、柔らかく見えてしまって。
いつだってゼクスの目から見たジェシカは愛らしく輝いて見えていたけれど、今まで以上に愛らしく見えてしまって。
きゅん、どころかぎゅんっ! という音を立てて心臓を鷲掴みされた気分だった。
なんだか顔が熱い。それでもゼクスはできるだけ平静を装って、行商人がやってきて市を開いているから、一緒に見に行かないか、と誘った。
ここにはない品。
勿論ゼクスがその気になれば飛んで現地に行ってそっちで入手することだって容易なのだけれど。
むしろ愛するつがいが望むなら、彼女を抱えて世界のどこでも飛んでいくのだけれど。
穏やかで日々特に変わらぬ生活を送るばかりのこの土地での、時々訪れる変化。
それを、ジェシカに体験してほしかった。
ヒト族にも行商をやっている者はいるけれど、鳥人族の行商はヒト族以上の群れで行われ、大きな店がそのまま移動してきたようなもの、とまで言われるので。
祭りとはまた違う賑やかな催しを、できるならばジェシカと一緒に楽しみたかった。
うっかり名前を違う呼び方をしたという失敗もあって、しどろもどろになったままそれでも精一杯誘ったゼクスに、ジェシカは「是非」と頷いてくれた。
部屋着のままなので、着替えてきますね、なんて言って部屋に戻っていく。
部屋着といってもそのまま外に出たとして何も問題はないのだが、ジェシカが自分と外に行くために相応の服に着替えてくれる、というだけでゼクスもまた、思い出したかのように自分の身体を見る。
自分も着替え直した方がいいだろうか……?
ジェシカも多分きっと恐らくおしゃれをしてくれると思うのに、自分は普段着のままとかどうなんだろう……?
そう思って、大至急手の空いた使用人に声をかける。
そうして、ジェシカを待たせない範囲で、二人で出かけるにあたっていい感じの服を、と告げて。
まぁ気持ちはわかりますけど、ゼクス様のお召しになってる服は普段着とはいえ一般の観点からすると充分余所行き用ですよ、と言われてしまったので。
下手に着飾りすぎてもジェシカの方が委縮してしまうかもしれない、とも言われたので。
ワンランク上の服、というよりは、普段着ではあるけれど今しがた着ていたやつとは別の普段着に変えるだけだった。
使用人はジェシカが持っている服を大体把握していたのもあって、恐らくアレ着てくるんだろうな、と察した上で、ゼクスの普段着も似た系統の色合いを出すだけにしておいた。
完全にお揃い、というわけはないけれど、
「お揃い、ですね」
ジェシカから見るとそうらしい。
はにかむような笑みに、ゼクスは危うくその場で崩れ落ちかけたのである。
だから、というわけではないが。
着替えてきます、と言って部屋に戻ろうとした時に小さな声でジェシカが呟いた言葉の意味を、ゼクスは改めて聞き直すという事ができなかった。
もう、そう呼ばれる事はないと思ってた。
とても小さな声だったけれど。
確かに彼女はそう言ったのだ。
ヒト族であれば、聞こえなかったかもしれない。
けれども竜人族の聴覚はヒト族よりも優れているので、ギリギリで聞こえてしまったのだ。
鳥人族の行商人たちが開いた市は普段は閑静な道を人々で埋め尽くす勢いで賑わっていた。
何かのお祭りですか? なんてジェシカが言うものだから、お祭りではないと答えて、はぐれないように手を握って見て回る。
ゼクスはその気になれば世界のどこでも飛んでいけるので、見たことがない、という物は余程の事がない限りないけれど、ジェシカにとっては見知らぬものも多くあったのだろう。
あれは? これは? と幼子のように目を輝かせて聞いてくる。
それにゼクスが答えたり、時々行商人がどこそこの品だと返したり。
ジェシカが欲しいというのなら、何でも買うつもりでいたけれど、既にいっぱいもらってるので……とあまり欲しがる様子はない、どころか遠慮までされてしまった。
それでも、折角の機会だから。
自分が贈り物をしたいから、ジェシカがよければと良心に付け込むような言い方をした自覚はあるけれど、そう言った事でようやくジェシカは一つだけ、贈り物を受け取ってくれた。
「私、何もお返しできないです」
「そんな事はないよ、もうたくさんもらってる」
「本当に……?」
「勿論だとも」
つがいと出会えて、こうして一緒にいられる時点で。
ゼクスがここの品を全部買い占めたところで、それでもまだまだゼクスの方がもらっている、と思える程には。
正直自分と一緒にいてくれて、日々を健やかに暮らしてくれているだけでゼクスからすれば毎日とんでもない贈り物をされている気分なのだ。お返しがいくらあっても到底足りないと思える勢い。
「あ、あー、その、お返しに、というわけではないのだけれど」
「はい?」
「えぇっと……その、もしかしたら、時々、また、うっかり噛んでしまってきみの事をゼシカ、と呼んでしまうかもしれないのだけれど。
できる事なら、それを、許してほしいかな、と」
ぱち、とジェシカの目が瞬く音が聞こえた気がした。
周囲は賑わっているので、そんな小さな音が聞こえるなんてはずはないのに。
何度か瞬いて、恐らくその間に何を言われたのか反芻しているのだろう。
「全然、かまいませんよ」
そうしてふわりと、笑うので。
ゼクスが思わず天を仰いだのは言うまでもない。
ジェシカ、と呼ぶよりもゼシカ、と呼んだ時の方がどこか嬉しそうなつがいに、何故、とは聞けなかった。
時々、なんだか困ったような顔をするものだから。
でもそれはゼクスに対して、という感じではなかったので。
もう少し親密な関係になってからなら、踏み込んで許されるだろうか……?
そんな風に、ゼクスは未だ距離を測りかねていたのである。
最初はただの呼び間違い。
けれども、間違った時の方がそこはかとなく彼女が嬉しそうな反応だったから。
緊張しているかのように装って、ゼクスは彼女を呼ぶ時はゼシカと呼ぶ事が増えた。
それが良かったのかはわからない、が、使用人たちの目から見ても明らかに二人の仲は縮まりつつあった。それは、ゼクスにとっても彼に仕える使用人たちからも、良い事で。
彼女がここに来てから一年が過ぎようとしていた。
――家族から引き離されて、この先どうなるのかと不安だったものの、しかし彼女にとって新たな住処は安心できる場所だった。気を張らず息をする事ができる。それが、どれだけ素晴らしい事か。
今まではずっと、相応しくあれ、と言われ続けてきていたから。
だから、リラックスして素の自分をさらけ出すなんて真似、できなかった。
少しでも違うと思われれば、叱られるから。
でも、違うって何だろう?
そんな疑問が常に彼女の中には存在していた。
だって、本当はもう……
何度考えたって彼女が納得できる正解にたどり着けるはずがない。
だから。
それに。
もう、あの家とは関係がない。
私は、竜人のつがいとして連れていかれたのだから。
私が望めば、家族に時々会うくらい、彼はきっとそうしてくれる。
たとえ内心で望んでいなくとも。
折角会えた家族とまた離れる、となれば名残惜しいと思うのも当然の事で。
だから、もし何度も家族に会いたいと言って、何度も離れたくないと言い続ければいつかはもう家族と完全に引き離されてしまうかもしれない。
本来ならば、そうするべきだった。
けれど彼女は。
かつての家族にも友人たちにも。
たとえ向こうから望まれたところで会いたい、とは思えなかったのだ。
薄情だ、と言われるのならそれでもいい。
実際に薄情だという自覚はある。
もし目の前であの人たちが死にそうになっていたとしても、きっと自分は手を差し伸べたりはしないだろうと思えるのだから。
だから、本来ならばそうするのが正解であったとしても、彼女がかつての家族に会いたい、なんて自分のつがいだという竜人族の青年に言うなんてしなかったし、好きにしていいと言われていたからなるべく家の中に引きこもって、好きにさせてもらっていた。
引きこもりっぱなしは流石に思うところがあったのか、時々外にでかけようと声をかけてくる事もあったけれど、それだってそう頻繁じゃない。時々出かけるくらいなら、彼女も別に苦に思う事もないし、それどころか特に何かを望まれて外に連れ出されているわけでもないから、とても気が楽だった。
心残りだった場所に連れていってもらって。
そこで、なんとなく結末を知って。
墓前なんてきっとないから、弔いのためだけに白ユリを庭に植えて。
それで、終わったはずだった。
お別れをしたのだ。
自分と。
それなのに。
きっとゼクスという青年は知らないまま、お別れしたはずの彼女を引っ張り出したものだから。
つい、気が緩んだのだと思う。
使用人たちがせっせと何やら準備に追われていたようなので、何かあるのか、と思ってよく話し相手になってくれる一人に声をかけたのが、きっかけと言えばそうだったのかもしれない。
「今日は朝から忙しそうだけど、何かあるの? お客様が来るなら、私は部屋でおとなしくしていた方がいいかしら?」
「まぁ、それはいけませんよ。つがい様がいなければ主様が悲しまれるかもしれません。
お客様、は来ませんけれど、言うなればつがい様がそうなるのかもしれませんね」
「えぇと……?」
「主様の生誕の日を祝うのです。ヒト族風に言うのなら、お誕生日パーティー、というやつかしら」
「誕生日……」
「えぇ、はい。前回は、つがい様と出会う少し前でしたから。今年はきっと主様、つがい様もいるのだからきっと楽しんでいただけるかと」
そう言えば、数日前からゼクスがそこはかとなくそわそわしていたようだけど。
それはつまり、自分の誕生日祝いがあるからか、と思うと彼女は微笑ましさについ笑っていた。
だってもう誕生日なんて祝うガラじゃない、とか言い出しそうな見た目なのに、それを喜んで心待ちにしているとなれば、可愛いな、と思っても仕方がなくて。
つがいとして連れてこられてからというもの、彼は彼女にとても丁寧に接してくれていた。
つがいだから。運命だから。と押し付けるのではなく、つがいだから連れてきてしまったけれど、だからといって何もかも押し付けるのではなく、こちらの望みもできる限り叶えようとしてくれていた。
あの人たちと違って。
思い返せば、つがいだから、といっても彼は本当に自分を大切に扱ってくれていたし、優しく接してくれていた。
ヒト族の中で囁かれていたような、つがいだからと連れ去った後、好き勝手扱うような真似はされた覚えが少なくとも彼女にはない。
そういう意味ではきっと……
「今が、一番なのかもしれない」
「何か言いましたか? つがい様」
「いえ何も」
ぽつりと呟いた言葉を、使用人は聞き取ったようではあったけれど。
けれど、何かを言った、と理解はしても何を言ったかまでは聞き取れていなかったようなので。
彼女はそっと首を横に振ったのだ。いつものように。
そうこうしているうちに、ゼクスがやってきて、これが実際に彼の誕生日を祝うためのものである、という確認がとれた。
「そういえば、きみの誕生日はいつだい? 思えばこちらに来てから一年が経とうとしているのだから、もしかしたら既に誕生日を迎えてしまったのかもしれないけれど。
……そこは、もっと早くに気付いて聞いておくべきだった、と反省しているんだ」
「誕生日、ですか。それってどっちの……あ、いえ」
そこまで言って失言に気づく。
やらかした! 素直にそう思った。
言ってしまった言葉を取り消す事はできないけれど、それでも今のはなかったのだと思いたくて。
咄嗟に口を手で覆う。
そうする事で余計に失言をした、と知られる形になってしまって、あぁまた失敗したとさえ。
何をしても。何を言っても。
どうしたって間違える。
そう考えると、何も言えなくなるしできなくなる。
どうしよう。
あの人たちは間違えると明らかに失望したように溜息を吐いて、落胆したのだと言葉で伝えて。
そうして次は間違えるなと言い聞かせてくる。
けど、彼は。
この人は、あの人たちじゃない。
でも、私が自分が思うようなつがいじゃないと思ったのなら。
もしかしたら。
彼も、きっと呆れてしまうのかもしれないし、落胆するのかもしれない。自分のつがいなのにこんなだなんて、と思うのかもしれない。
ぐるぐると嫌な考えばかりが渦巻いていく。
口を手で押さえたまま、どうすればこの状況が少しでも良くなるのか。そればかりを考えてみるけれど、結局のところ今の今まで答えなんて出た試しがなくて。
「ジェ……ゼシカ、一度手を放して。大丈夫だから、ゆっくりと息を吸うんだ」
浅くなってきた呼吸に気づいたのか、彼は背中をさすりながら優しくそう告げる。
「お、こら……ない、の……?」
「怒る理由がない。大丈夫、きみは何も失敗なんてしていないんだ」
そう言われた事で、浅く、速くなっていた呼吸が少しだけ落ち着く。少しずつゆっくりになっていく呼吸は、何度か繰り返していくうちにいつも通りに戻っていった。
近くにいた使用人たちが心配そうに見てくるけれど、ゼクスはそれを手を振って気にしないように、と伝えた。そうしてそのまま作業を続けるようにとも。
「少し、話そうか。ここではなんだから、場所を変えよう」
この場合、ゼクスと二人きりだけの方が落ち着かないのかもしれないな、とゼクスはふと考えたけれど、ここで話をするとなると使用人たちも気を使うし、何より作業を続けろという指示を出したばかりだ。そんな中で話し合うとなると、周囲の雑音が気になってしまうかもしれない。
かといって、今から作業を一時的に中断させて話を聞くだけにしたとして。
それはそれで気を使いそうな状況だ。
彼女と手をつないで、ゼクスは落ち着いて話ができそうな場所……と考えて。
庭が見えるバルコニーへ移動する事にした。
「実のところ、きみの事をもう少し知りたくて色々と調べたんだ」
時々庭を眺めながらティータイムでもしていました、とばかりにそこには白いテーブルと、ガーデンチェアが置かれていた。
「きみの事なら何でも知りたい、と思って。だからその、勝手に調べるような真似はもしかしたら不快に思うかもしれないけれど、直接聞くのとどっちがマシかとこれでも悩んだんだ。
知られたくないような事だったなら、勿論忘れようとも思っていた」
作業を一時中断して使用人の一人がお茶と茶菓子を持ってきてくれたから、ゼクスはそれを彼女へと勧めた。ただ話だけを聞くのは、なんだかまるで判決を言い渡される罪人のような気分になっていた彼女には酷かもしれない、と思ったのでどうせならお茶とお菓子に意識を向けて話半分くらいに聞いてくれればいいとさえ。
「仲の良い家族だ、と思っていたんだけど。
そんな事はなかったんだね」
「……少なくとも、あの人たちは仲が良いと信じていました」
「単なる妄信。妄想といってもいい。
仲の良い家族から、たった一人の娘を引き離すような事をしてしまった、と思っていたんだ」
「既に、引き離されていた、でしょう?」
ただ話を聞くだけなのも、自分から話をするのも空気が重すぎると思ったからか、彼女は気を紛らわせるように用意されたクッキーへと手を伸ばした。とはいえ、あまり食欲がないのか本来ならば彼女の口でも二口くらいで食べきれそうなクッキーは、まるで小鳥が啄んだように申し訳程度にしか齧られていなかったが。
つがいである少女を連れだしたかつてのあの町。
そこで、彼女についてもう少し色々と話を聞いた方がいいだろうか、と思ったものの、愛する家族を連れ去った男だけが戻ってうろうろしていれば、家族からすれば娘もつれて来いと思うか、どうしてお前だけと怒りを募らせるかのどちらかな気がしたので。
ゼクスは情報収集が得意な知り合いに頼んで、あの町で彼女について調べてもらったのだ。
知り合いは竜人ではないので、町の人間もそこまで気に留めたりもしなかったらしい。
これで知り合いが竜人であったなら、あの町の人間はまたも誰かがつがいとして連れていかれるかもしれない、と警戒を強めたかもしれない。
そうして知り合い経由で知った話は、ゼクスからすると反応に困るものだった。
後先考えなければ、正直あの町をゼクスは滅ぼしたっていいんじゃないか、なんて思ったくらいだ。
けれど、冷静に考えればそれが本当に悪意だけだったか、というとそうではないようだったし、ゼクスが町で暴れまわって壊滅に追い込んだとして、あの町に暮らしているヒト族の誰かが他の誰かのつがいであるかもしれない、と考えると。
つがいを失う事は魂の半分を失うという事。
流石にどこの誰かも知らないとはいえ、同じくつがいを求めている誰かのつがいになるかもしれない相手を後先考えずに死に至らしめるような真似はできなかった。
彼女――ジェシカが暮らしていた家は、火が消えたように静まり返っていたらしい。
一応つがいとして彼女を連れ戻った後、何度かあの町周辺を見回ってあの町を襲いそうな魔物は先に倒しておいた。それもあってあの町は平和そのものだったようだけど、それでも最愛の一人娘を失った家族の落ち込みっぷりはそう簡単になくなるものではない。
家の中で悲しみに打ちひしがれているだけなら、いつかは立ち直るかもしれなかったが、知り合いは妙な胸騒ぎを覚えてこっそりと家の中の様子を覗き見てきたのだと言う。
よくバレなかったな……とゼクスは呆れたものの、まぁ既にやらかした後だ。ここであれこれ言ったとしても手遅れである。
そっと侵入して中の様子を確認してきたところ、母親はどうやら心を壊してしまったらしく、自室で壁を見つめてずっと同じ言葉を繰り返しぶつぶつ呟いていたのだとか。
言葉の内容は? とゼクスが聞いた時、知り合いはそっと首を横に振った。知らない方がいい、と。
というか、少しばかり支離滅裂な部分もあったから、知ったところで意味がない、というのが言い分だった。
それでもそれらしい意味がありそうな部分を聞き出せば。
今度も娘がいなくなった、というようなもので。
次は失敗しないようにしていたのに、とも言っていたようだ。
「家族はどうだったか知らないけれど、家同士の付き合いからの友人たちは恐らく親切半分面白半分といったところで、本人たちは悪意までは持ってなかったと思う。
だが、それもお前が知ればあの町を滅ぼしかねないから聞くのはやめておけ。見知らぬ同胞のつがいになるかもしれないヒト族が犠牲になるかもしれない、というのは正直こちらも望むところではない」
知り合いはそれ以上ゼクスに何も教えてくれなかった。
それでも、既にいくつかのピースはある。
それらをつなぎ合わせていけば、真実に至る事は難しくとも、それに近しいところまではわかるのではないか、と思ったのだ。
「……言いたくないのであれば、話さなくてもいい。
けれど、そうじゃないのなら。
どうか、教えてほしい。きみの事を」
――本来ならば、裏でこそこそ自分の事を調べてまわった、なんて。
不快に思って当然の話だ。
けれど、それが嬉しく感じられたのは。
「私の本当の名前がゼシカである、という事には、気付いたんですよね?」
「そう呼んだ時の方が、嬉しそうだったから」
バツが悪そうに肩をすくめているけれど、ジェシカ――いや、ゼシカからすればどうしてそこでそんな態度になるのかわからなかった。
だってもう無いと思っていたのだ。
自分はこの先ずっとジェシカでいなければならないと思っていたのに。
言い間違いとはいえ、自分の生まれた時に与えられた名で呼んで、その後も言い間違えを装いつつもその名で呼んでくれていた事が。
たったそれだけの事が、ゼシカにとってはたまらなく嬉しかったのだ。
養母の心は恐らく壊れた、となれば。
もういいのかもしれない。
流石に三度目はないと思いたい、という気持ちもある。
だから。
「つまらない話ですけれど、聞いてもらえますか?」
ゼシカは己の身の上を語る事にしたのだ。
――ゼシカの生まれは、本来ゼクスと出会ったあの町ではなく、ゼクスに連れられていった小さな村の方だった。そこは、まぁ周囲の人間と上手く関係を作れなくて流れてきた者たちが集まってできたようなところで、お世辞にも良い村とは言えなかった。
ゼシカは直接犯罪に手を染めた事はなかったけれど、それでも同じ村の人たちは何らかの後ろ暗い事をしていたように思う。
いかんせん、その頃のゼシカは幼く、周囲の大人が何をしていたかを正しく把握できていなかったので、今にして思えば……といったものではあるけれど。
ゼシカの本当の両親は、幼い子供に暴力をふるうような人間ではなかったけれど、恐らく子を愛してはいなかった。もう少ししたら、ゼシカはどこぞの趣味の悪い金持ちに売られる予定だったのだ。
子というよりは商品。
商品だから、下手に傷をつけて価値を落としてはいけない。
そういう認識だったのだと思う。
それでも、ゼシカは自分に与えられた名を大切に思っていたし、いつかは両親の愛情が自分に向くのではないか、と思っていたのだ。幼子ゆえの、根拠のない自信でしかなかったけれど。
ただ、本来売りに出される前に、ジェシカの両親がゼシカを買った。それだけの話だ。
そのうち売りに出される予定の町。そこを下見に連れていかれていたゼシカは、病気で一人娘を失ったばかりのジェシカの母に出会った。
「ジェ……シカ……?」
とか細い声で呼ばれた名は、今にして思えば自分を呼んだわけではないのだが、それでも当時は自分が呼ばれたと思ってしまって、ついその声に振り向いてしまったのだ。
病気で死んだジェシカとどうやら瓜二つであったらしいゼシカは、ジェシカの母にその子は自分の娘だと詰め寄られた。
両親は、頭のおかしい女に目をつけられた、と思ったらしく早々にゼシカを連れて立ち去り村へ戻ったのだけれど、ジェシカの母はそれで諦めたわけでもなく。
人を雇って執念深くゼシカとその両親の足取りを追って、そうして村にまで押しかけてきたのだ。
最愛の娘は死んでしまった。
それは理解している。
けれど、その最愛の娘とそっくりな娘が生きてそこにいる。
娘であるはずはないのに、娘かもしれない、という思いが同時に存在してしまったのだ。
娘を亡くしてふさぎ込んでいたはずのジェシカの母が――自分の妻が生きる希望を見出したかもしれないとなり、ジェシカの父も共に村にやってきていた。
そうしてそこで、ゼシカの両親がいずれ娘を売りに出す、というのを知って。
そこで、ゼシカの売買は成立してしまったのだ。
ジェシカの両親がそれなりに裕福な家の出である事が、そうさせてしまった。
ジェシカの家も、ゼシカの家と同じくらい貧乏であったなら、娘にそっくりだけどその娘を買おうなんて思わなかっただろう。
目の前で積まれた大量の金貨。
それが、ゼシカの商品としての金額であったのだ、と後になってから知ったけれど、ゼシカにとってはどうでもよかった。
いつかお前を売りに出す、なんて言われていたけれど、それは性質の悪い冗談だと思いたかった。
良い子にしていないと悪魔がやってきて悪い子を食べちゃうよ、とか、そういうこどもに言い聞かせる話の一つだと思いたかった。
けれど本当に売られてしまって。
本当の両親に手を伸ばしていやだと泣き喚いたところで、既に両親の目はゼシカに向けられず、積まれた金貨に釘付けであったのだ。
貧乏な家よりも、裕福な家にもらわれていった方が生活は楽になったかもしれない。
けれど、そうじゃなかった。
世間一般から見てどれだけロクデナシであろうともゼシカにとっては本当の両親のところにいたかった。
とはいえ、子供の足でジェシカの家がある町から、村に戻ろうにも結構な距離だったのでそれは叶わなかった。
ゼクスに連れられて見た先、かつての故郷。
周囲の家の人たちが誰も残っておらず、かつての自分の生家だけがやけにボロボロだった理由は、ゼシカでも察する事ができた。
いかにも裕福そうな人間が家にやってきて、その家の娘を連れて出て行ったのだ。
あの頃のゼシカには理解できなくとも、周囲の大人たちには何があったかなんて一目瞭然だっただろう。
そして、そこに今大金がある、と知られてしまった。
金に目がくらんだ両親はきっと、その危険性に気付いていなかった。
娘を売った相手と一緒に、せめて途中までは一緒に村を出るべきだったのだ。
けれどそれをしなかったから。
きっとゼシカたちがいなくなったすぐあとに、他の村人からの襲撃をうけた。
ゼシカを売った金は村の皆で分けてもそれなりの金額だったはずだ。
そしてそれを持って、彼らはあんな不便な村ではなく、もう少しだけマシなところに引っ越したに違いない。
両親の死体がどうなったかはわからない。
そこらに打ち捨てられて獣の餌になったのか、はたまた村の適当なところに埋められたのか。
それは、両親を手にかけた者たちにしかわからないのだろう。村の中を見て回った時に特におかしなところはなかったので、わかりやすいところに死体を放置して行った、とかではなさそうだった。
裕福な家に引き取られた形のゼシカだが、幸せだったか、と言われればそうでもない。
確かに生活は楽になった。着るものもちゃんとした物だったし、ご飯だってそうだ。
ちょっと荒れた日の天気だと雨風が入り込んできそうだった村の家に比べると、ジェシカの家は隙間風だって入ってこないしっかりした家だった。
けれどゼシカは、ジェシカの代わりとして引き取られて、ゼシカではなくジェシカであることを強いられた。
少しでも違う行動をとると、ジェシカはそんな事しないと養母に喚かれ泣かれ叩かれて。
大人のヒステリーにむしろゼシカが泣けば、更に泣きわめいて手が付けられなくなった。
ゼシカは早々に悟るしかなかったのだ。
ジェシカのようにならないと、叩かれたり喚かれたり縋り付かれたりしてとても面倒な事になるのだと。
とはいうものの、ゼシカにとってジェシカなんて知らない相手だ。
せめて生前、ジェシカと出会ってお友達として接するような事でもあったならまだしも、ゼシカにとってのジェシカは既に死んでしまった相手で、自分の目で見る事すらできない存在。
死んでしまったからこそ、それ以上の情報が増える事はないけれど、死者の思い出というのは大抵美化される。
故に、養母の語るジェシカ像はどう考えても美化されていたのだけれど。
それを指摘するとまた大変な目に遭うので、ゼシカは黙ってひたすら理想のジェシカとして振舞うしかなかったのだ。
名前が似ていた。
姿も似ていた。
更には、ジェシカは生きていたならゼシカと同じ年齢だったし背格好もそっくりだったから。
せめて年齢が多少離れていたのなら、養母だってゼシカにジェシカを重ねたりはしなかっただろう。
ジェシカに似て生まれてしまった事が、ゼシカにとっての地獄だった。
ジェシカの両親と仲良くして家ぐるみでの付き合いがあった家の子たちも、生前のジェシカについて色々と語ってくれたけれど。
結局やはり養母の望むジェシカ像から少しでも離れるとヒステリーを起こすので、友人となったこどもたちのジェシカ像はあまり役に立ってくれなかった。
これ以上、ジェシカの母が面倒な事にならないように、と多少協力はしてくれていたけれど、こどものやる事だ。役に立ったか、となると微妙としか言えない。
ジェシカとして振舞って、友人たちと共にいる間少しでも息抜きができていたなら良かったけれど、それも最初のうちだけで、やがて段々と今のはジェシカっぽくないんじゃない? とか、ジェシカならできて当然だ、なんて。
友人たちの間でも知らぬ間に理想のジェシカ像が出来上がってしまっていったから。
その行動から外れてしまうと、養母に告げ口をされるようになっていったのだ。
ジェシカならこんな事するはずがないのに、なんて。
養母はともかく友人たちは生前のジェシカとそこまで付き合いがあったわけでもないくせに。
ジェシカとして生きる事を強いられて、本来のゼシカの誕生日はなんでもない日になった。
かわりに、本来のゼシカには無関係な、ジェシカが生まれた日こそが誕生日であると祝われる。
自分はゼシカなのに……そう何度も思ったところで、口にだしたら面倒な事にしかならないから。
だから、生きているけど死んだような気分になって、どうにかしてこんな日々から解放されないだろうかと諦めて生きていくようになっていたのだ。
「そしてそんなある日、貴方と出会ったのです」
――それが、ゼシカが歩んできた道のりだった。
つがいとして連れていかれた先では、ジェシカであることを強要されたりはしなかった。
ただ、ゼクスのつがいとしてのみ求められる。
最初は、あまり変わらないのではないか、とゼシカ自身思っていた。
ジェシカである事から、彼のつがいである事を望まれる方に変わっただけ。
息苦しい日々は終わらないのだと、そう思っていたけれど。
だが、ゼクスはつがいであるのだから、とあれをしろこれをやれと押し付けるような事はしてこなかった。
家にいれば養母が、外に出れば友人たちが常に周囲にいたゼシカにとってはどこも休まる場所ではなかったけれど、ゼクスの家では使用人たちがこちらの様子を気にしてはいたけれど、それでも積極的な干渉はされなかった。
だから、ゆっくりと読書をしたり、のんびりと庭を歩いたりと一人の時間を堪能できたのだ。
勿論、つがいであるからこそゼクスとの関わりを絶つというのは難しい。自分から行かなくとも、ゼクスの方からやってくればそれはもう回避しようがない。
けれどゼクスは、少なくとも養父や養母、友人たちのように常にいるわけではなかった。
時折外に出かけて魔物を倒しに行ったりしていたし、いない間は使用人たちにある程度の世話を命じていたようだけれど、勝手にここからいなくなる、という以外の事であればゼシカの好きにさせてくれていた。
ゼシカと話をする事もあったけれど、それだって一日中というわけではない。一日のほんの少しの時間に、ゼシカが他にもやりたいことができるように、と。
同じ家にいながらも、まるで隣人のような距離感で。
少しずつ、ゆっくりとゼシカの歩みに合わせるように距離を縮めようとしてくれていたのだ。
商品としてしか見ていなかった両親や、死んだ娘の代わりにしか思っていなかった養父母。
つがいであるから求めている竜人。
どうせ同じだ、と思っていたけれど、そんなことはなかった。
「ここに来てから、とても息がしやすくて。
だから、ちょっと気が緩んだのもあったんです。
誕生日を聞かれて、それはゼシカとジェシカ、どっちのだろうか、なんて思うくらいには」
だって今まで、ずっとずっとジェシカとしてしか必要とされてなかったから。
ゼシカであった頃は、両親は誕生日なんて祝ってもくれなかった。ただ、年齢的にあとどれくらいで売れる頃合いになるか、なんて話から自分が一つ年を重ねたのだと判断したくらいで。
ジェシカとして引き取られた後の誕生日は、勿論ジェシカ本人の誕生日でゼシカのものではない。
最初の誕生日は、思わず困惑して今日は私の誕生日じゃない、なんて言って養母を盛大にヒステリックにさせてしまったくらいだ。
自分の本当の誕生日なんて、そんなものは養父母にとっては不必要な情報で。
「ジェシカだから、つがいに選んだわけじゃない。つがいだと知った相手が、ジェシカとして生かされていたゼシカだった、こっちからするとそれだけの話なんだ」
ゼシカの言い分を聞けば、まるでジェシカこそがゼクスのつがいであった、みたいな部分もあったのだけれど。
しかしこれだけは言える。
もしジェシカ本人が生きていたとしても。
ゼクスのつがいはジェシカ本人ではなく、ゼシカであったのだと。
「その、ジェシカというヒト族の娘とは面識もない。自分が望んだのはつがいであるきみで、会った事もないジェシカではない。だから、誕生日はそんな知らない誰かのものではなく、きみの本当の誕生日が知りたいな」
そう言えば。
ぽろり、とゼシカの目から一粒の涙が零れ落ちた。
一粒、零れ落ちた後はもう一粒、また一粒とぼろぼろと零れ落ちていく。
両親は商品という意味でしかゼシカを見てくれなかった。娘としては愛してもくれなかった。
養父母にとってはジェシカじゃなければ意味がなかった。代替品なのに、本物のように振舞わなければいけなかった。養父母が愛しているのはジェシカであって、ゼシカではない。ジェシカのように振舞うゼシカですらなかった。ただただあの人たちは、死んでしまった娘の面影だけを追い求めた。そこにゼシカの意思なんて何一つとして必要とはされていなかった。
友人たちだってそうだ。最初の内は多少同情もあったのかもしれない。
ほんの一時だけでもゼシカに戻れるかと思っていたけれど、いつからか友人たちもゼシカを必要としなくなっていった。
けれどゼクスは。
ジェシカでもなく、ジェシカの代替品として振舞うゼシカでもなく、素のゼシカ本人を望んでくれた。
「わ、わた、私の誕生日は……」
次から次に溢れてくる涙のせいで鼻がつまってきて、マトモな言葉になったかもわからない。
わからないけれど、それでもどうにか本当の誕生日をどうにか口にして。
「そっか。それじゃ、次はちゃんと祝おうね。その次も、その次も、一番に祝えるのが自分であれば尚嬉しい、かな。
もっと欲を言うのなら。僕の誕生日を、きみも祝ってくれるのなら、もっと嬉しい」
「すぐじゃないですか、私、なんのプレゼントも用意できてない……」
「一緒に祝ってくれるだけで充分だよ。そうだな、それじゃあ……いつかの誕生日で構わないから、花を。
花を、贈ってくれないだろうか。弔うための花ではなくて、きみが見立てた、僕に似合いそうな花を。
……これもできれば、一緒に育てたりできると嬉しいんだけど」
「じゃあ、あなたも。あなたも、私に似合いそうな花を育てて贈って下さい。一緒に庭で世話をしましょう。そうしてお互いに贈り合うの」
「いいね。そうしよう」
未だに泣き止まないゼシカは言葉の合間合間で嗚咽を漏らしていたけれど。
いつものような、どこか一線を引いたような微笑みではなく不格好ではあったけれど。
それでもとびきりの笑顔だったから、ゼクスも同じように笑ってみせた。
素の、ありのままの自分でいいのだ、と言われても今までずっと誰かを演じて生きてきたからいまいち本当の自分というのがわからない、なんていう迷走をした事もあるゼシカであるけれど。
それでも、ゼクスと共に過ごしていくうちにこれが本来の自分なのだ、と思えるようになっていった。
ここに来たばかりの頃のようなよそよそしさはすっかりと消えて、ゼクス本人に直接言った事はないけれど、よく話をする使用人にはこっそりと彼についてこう述べていた。
家族であり、大親友であり、愛する人だと。
それをゼクス本人が聞いたのは、ずっと先の話である。
「どうせなら、直接それを聞きたかったな……」
なんて。
寿命を迎え、眠るように亡くなったゼシカの墓前で。
棺には彼女に似合うと思った花をあれもこれもといれたせいで、随分と鮮やかな事になってしまっていたけれど。
彼女が最初に育てていた白ユリは、彼女自身弔いの気持ちを一段落させるためのものだったからか、あの後はあまり植えて増やす事はなかったけれど。
それでも、ほんの少しだけ、彼女が最初に庭に植えたいといった思い出の花だったから。
ゼクスは密かに植えて育てていたのだ。
そうして今更のように使用人から聞かされたつがいの、自分に対する想いに。
直接聞きたかったなんて今更な文句を言いながらも、その墓前に白ユリを供える。
滅多な事では泣く事すらない竜人のその瞳からは、静かに一筋の涙が零れ落ちていったのである。
次回短編予告
王子って暗殺技能持ってたっけ?
っていう発言から始まるふわっとした第三者目線の話。