第二話 王都炎上 その2
「このような姿で申し訳ありません――」
そう言って申し訳無さそうに部屋へと入ってきたハンナは、寝巻きにカーディガンを羽織った姿。昼間は使用人らしく几帳面に結い上げている黒髪を今はバサリと下ろしている。
黒い髪は大陸の中央から東側の民族の特徴で、彼女はマリアと同じエーデルの民では無かった。
聞いた通りなら、ハンナの年齢は夫と同じマリアよりも7歳年上。彫りの深いはっきりとした目鼻立ちのその容姿は砂漠の民を思い起こさせるが、マリアはこの使用人の素性をあまり良くは知らない。
ハンナが部屋の明かりに照らされると、マリアはこの使用人がいつもかけているはずの眼鏡を今はかけていないことに気が付いた。
「あら、眼鏡……」
マリアの口から思わず声がもれた。
「屋敷を一回りしたら、もう眠るつもりでしたので……」
ハンナは気恥ずかしそうに言うと足下へと視線をそらした。しかし一方のマリアの表情はにわかに華やいでいた。
「そういえば私、あなたの眼鏡を外した顔――初めて見るかも。それに下ろした髪も初めてだわ。」
思わず普段とは違ったハンナの姿を見て、マリアの声は浮かれていた。今まで少し近寄りがたかったこの使用人にマリアは急に親近感が湧いたのだ。
「いつもその格好でいたら良いのに。絶対にそのほうが可愛いし若く見えるもの。ハンナのいつもの格好は少し堅苦し過ぎるわよ。髪の毛が仕事の邪魔なら私が結ってあげる。いつもの結い上げたあの髪型じゃ勿体ないわ。」
マリアはハンナをベッド横の椅子に座らせると、まるで新しい着せ替え人形でも手に入れた子供のように嬉々とした顔でその黒く美しい黒髪を手に取った。
しかし、ハンナは主人に髪を触られてただただ恐縮するばかり。
「滅相もない。着飾ってしまっては使用人としての示しがつきません。」
そう言って体を少し強張らせた。彼女の背中でマリアがその艷やかな黒髪を弄び始めたのだ。
「大丈夫よ髪型くらい。エーデルの貴族の使用人はね少しぐらい派手な方が良いんだから。」
「しかし……私は。」
「良いから黙ってて。」
なおも遠慮をするハンナに、今度はあたかもそれが主人の命令でもあるかのようにマリアが強い口調で言った。
白くしなやかな手が、器用にハンナの長い髪を一つにまとめて行く。
そして――見る間に結い上げられた髪が、肩からふわりと前へと垂らされた。
「ほら出来た。」
弾んだ声と共にマリアからハンナに手鏡が手渡された。隣では「どう?」とばかりに得意気なマリアの顔がその表情を覗き込んでいる。
(素敵だ……)
鏡を手に取ったハンナは、ふんわりと結われた自分の黒髪を見て素直にそう思った。
しかし――
ハンナは手鏡をマリアに手渡すやいなや、せっかくマリアが結ってくれた髪に指を掛けてスーっと解いてしまう。
「どうして? 気に入らなかったの?」
マリアの不安気な声。
「せっかく結っていただいたのに申し訳ございません。とても素敵だと思いました。でも――これはお貴族様の使用人の髪型でございます。私のような黒髪がしていい髪型ではございません。」
そう言ったハンナは心底恐縮した様子であった。しかし、当のマリアはそんなハンナの理屈などお構いなしに言葉をつなげる。
「何を言ってるの。この国は三年前の建国の時に民族同化を掲げたのよ。国王のお妃様だって夏国の貴族出身で髪は黒髪じゃない。何を遠慮する事があるの?」
マリアの言う通り、この『大エーデル王国』の建国理念はまず第一に民族同化を掲げていた。それは端的に言うと純粋なエーデル人の数がこの広大な国土を支配するには少なすぎると言う理由があったのだが、もちろんそれは理念であり、そう簡単に人々は民族の壁を乗り越えることが出来る訳では無い。
それに、政治や理念では同仕様もなく解決出来ない問題が一つ。黄色い髪に黒い髪色の血が混ざると、その子供は必ず黒い髪色の子供が生まれてしまうことがある。
それは西方の髪の色素の薄い民族にとって、同化と言う言葉では簡単に受け入れることの出来ない事実であった。
それを知った上で、ハンナはかたくなであった。
「私とて、もちろんそれは存知上げております。でも――お貴族様の中にはそれを快く思わない方もたくさんおられます。万が一にも私の身なりで奥様や旦那様にご迷惑をかけるわけにはいかないのです。」
「でも、この屋敷は貴族達が暮らす内城の中では無いわ。塀の外でしょ。黒髪だからって気兼ねする様な場所では無いはずよ。」
「それでもです。奥様――。なぜに王国屈指の力を持つ黒竜兵団の団長であられる旦那様が、この内塀の外に……夏国人の居住地に屋敷を構えられたかご存知ですか? それはやはり旦那様も黒い髪をお持ちだからです。それほどまでに世間で髪の色というのは偏見の対象とされるのです。もちろん奥様の様に髪の色に偏見を持たない方もたくさんおられます。けれど……」
――西方の髪の色素の薄い民族……特にエーデルの貴族達は――
ハンナはそう言いかけてその言葉を慌てて飲み込む。思えばこの若く美しい女主人もエーデルの貴族の出身であったのだ。