07 お探しの記憶は
その男は、泉の真ん中にいた。
恐る恐る、レテリアはその人物に近付いていく。泉のほとり、縁のギリギリのところに立って目を凝らす。大抵の人間は後姿がもっとも綺麗に映るものだが、それにしても美しい男だった。長い髪が水面に広がって、見たことのない景色を作り出している。
あと、その後頭部にたんこぶがある。
うつ伏せで、ぷかーっと水の上に浮いている。
顔を水に付けたまま、身じろぎもしない。
そのすごく近くに浮かんでいる流木に、ついさっきレテリアの手元から離れていった、壊れた斧の刃が引っ掛かっている。
とうとうやってしまった、と思った。
「だ、大丈夫ですかっ!」
レテリアは大慌てになって泉に飛び込んでいく。着衣泳なんてここに来てから散々やった。途中で足を攣らないように細心の注意を払いながら、何とか男のところまで辿り着く。完全に気を失っているのを何とか引っ張って、岸辺に放り投げる。
仰向けにする。
後ろ姿のみならず、顔もまた美しい――なんて観察している時間はない。心臓に耳を当てる。呼吸音を確かめる。
どちらも問題ない。
どうやら気絶していただけで、奇跡的に溺れてはいなかったらしい。どういう仕組みなのかはわからないが、とにかく助かった。
レテリアは自分よりずっと上背のあるその男を背負って、山を降りていった。作ったばかりの新しい家に彼を連れ込む。作ったばかりのベッドの上に置いて、水に浸かっていたのだから身体もだいぶ冷えたことだろう。ついでに自分の濡れた服と髪も乾かすつもりで、暖炉にガンガンに火を入れる。
さて、改めてここでレテリアは男の方に向き直る。
頭にたんこぶがあったのが本当に良くないと思う。彼が目を覚ますか、あるいは目を覚まさないままでも容体がおかしくなるようだったら、地方管理所まで人を呼びに行くべきだろう。それともあの少女騎士――「でも、やっぱり病気になったりすると一人じゃどうにもならないし危ないですから、たまには様子を見に来ますからね!」と言ってくれたニーナが、これからこっちに顔を出してくれたりしないだろうか。
それにしても、まさかこんなところに人がいるなんて思わなかった。
どんな人なのだろう、と顔を覗き込んだ。
「あれ」
誰かに似ている、と思った。
誰だろう、と記憶を探り始めたところだった。
「うう……」
「! 目が覚めましたか!」
「ここは……?」
男が唸るとともに身じろぎをする。薄く目を開けて、周りを見渡す。
レテリアと目が合う。
彼は苦しげに顔を歪めて、
「…………………私の、孫…………?」
よくわからないことを言う。
とにかく、レテリアは状態を確認することにした。
「前後の記憶はありますか?」
「いや……私は、一体……」
「この山の奥の泉で、あなたは倒れていたんです。頭にたんこぶがあるので、もしかしたら私が折ってしまった斧が山から落ちて、頭に当たってしまったのかもしれないんですが……」
「そうか……これは老婆心だが、相手に記憶がない間は自分に都合の悪いことは言わない方がいいぞ……。上手くいけばしらを切って責任逃れができるからな……」
ちょっと怖い人を助けてしまったかもしれない。
いやしかし、見方を変えれば親切でもあるのか?
わからないが、どちらにせよ今すぐにこの人を放り出すなんて選択肢はない。
「ご自分のお名前はわかりますか? 近くに誰か、お連れの方がいらっしゃったりは?」
「……すまない。それもわからない。断片的に覚えていることはあるから、しばらくすれば何かの拍子で色々と思い出せそうではあるのだが」
う、と呻きながら男が身体を起こす。
そっとレテリアがその背に手を添えると、ありがとう、と彼は言って、
「ここは?」
「あなたのいた泉から山を下りたところにある家です」
男はきょろきょろと辺りを見回す。
怪訝な顔で、眉をひそめた。
「本当か? 確かあの屋敷にこんな部屋はなかったように思うのだが」
「ご存知なんですか?」
「ああ。どうもそうらしい。山奥にぽつんと立った屋敷の中に入った記憶がある……」
「そのお屋敷は燃えてしまったんです」
「燃えた?」
「ええ。つい先日、嵐の日に雷が落ちてしまって」
「…………」
男はじっと黙り込むと、必死に記憶を探るように眉間を押さえた。
「……思い出してきた。確か、先日そんなことがあったな」
「ということは、その頃から山の中にいらしたんですね」
「ああ。その日に限らず、私はずっと山の中に……なぜだ? それに、この衣服は君が着せてくれたのではないな」
「ええ。元々お召しになっていました」
「どういうことなんだ? いや、待て。話が逸れたな。そもそもこの場所はどこなんだ?」
「そのお屋敷の跡地です」
「跡地? しかし燃えたのは先日……」
「作り直しました」
「誰が?」
「私が」
男は、しばらく黙っていた。
そっと彼はベッドから降りていく。ふらふらしながら出口に向かっていく。
扉を開ける。
外の景色。
「びっくりした。外が廊下だったらどうしようかと……。なるほど、急造の住居を一部屋分こしらえたのだな。なかなか立派なものだが、君は見かけによらず建築士か何かなのか?」
「いえ、素人です」
「そうか。では、誰かに命じて作り直させたのか」
「いえ、一から手探りで作ってみました」
「…………」
男は釈然としない顔をした。
しかしどうやら、怪我をしたのだから大人しくしていようという思考停止の言い訳を見つけたらしい。彼は扉を閉める。ベッドに戻る。毛布を……被ろうとして、今更自分が寝ているそれが近くの草木を素材としていることに気付く。気にしないことにしたのか、何も言わずにまた身体を寝せる。
「大丈夫ですか?」
「ああ。記憶がもう少しはっきりするまで、ここにいさせてもらってもいいだろうか」
「ええ、構いません」
ありがとう、と男が言う。
レテリアはその横で、やはり罪悪感を覚えている。
「早く良くなるとよいですね」
「ああ、ありがとう」
だが気にするな、と男が言った瞬間のことだった。
部屋の中には暖炉がある。暖炉の中には薪がある。炎が家に燃え移ってしまわないように、それらの薪の下には泥や石が敷かれている。
その泥石の中に可燃性のガスか何かが含まれていたのか。
今のところそれはレテリアにもよくわからないが、とにかく、ぱちっと火花が散った瞬間に反応した。
ぼかーん!
一瞬の衝撃だった。幸いにしていつものように家が吹っ飛ぶほどのものではない。レテリアは謎の男と二人揃ってごろんと床の上に転がされる。まただ、と思う。申し訳なくなって、一緒に吹っ飛んだ男の方を見て言う。
「すみません。実は私が――」
「思い出した! 私は神だ!」
打ちどころがよっぽど悪かったのかと思った。
しかしまじまじと見た男の顔は、錯乱している様子ではない。目は爛々と輝いていて怖いが、理性の光がその奥に見え隠れしないでもない。彼はじっと自分を覗き込んでいる。肩を掴んでぶんぶん揺さぶってくる。
「あ、」
間近で見たから、誰に似ているのかを思い出した。
実家だ。実家の侯爵邸の、非常に歴史ある資料室の、
「私は『運命の神』である! ああよかった思い出せて! というか君、私と妻の面影がすごいな! ということは私のひいひいひいひい――――」
歴代侯爵家の、肖像画。
「孫か! 道理で心優しく愛らしく、気品のある娘だと思った!」
わっはっは、と。
とても何百歳を超えているとは思えない調子で、男は笑う。
はあ、とわけがわからないなりにレテリアは頷いた。相槌を打って、耳に入ってきた言葉をとりあえず復唱してみたりする。
そうなんですね。
運命の神様なんですね。
運命の?