06 聖女
「お、おやめください聖女様!」
「おや、私に口答えをされるわけですか? 遍歴の聖女であり、あらゆる教会加盟国から国賓待遇を受けるこの私に?」
「そういうわけでは……」
「だったらそこで精々指をくわえて見ていることですね! あなたの今日の仕事であるところの経理書類作成が私の計算テクニックによって次々に処理されてしまうところを! ほうら、こことここの数字を見比べて……ぴったり合致!」
「うわああああ助かってしまうううう! 午後から有休をとって今日が誕生日の我が子との時間をたっぷり確保できてしまううううう!」
「あーはっはっはっは! 人の仕事を奪って四則演算を楽しむのは一人で黙々と百マス計算をするのと同じくらいに清々しい気持ちになりますねえ! 精々今から帰りにケーキを買っていくお菓子屋さんについて同僚の方々を相手に聞き込み調査でもしておきなさい!」
「…………」
目の前の光景を見て、特にエイデンは言葉を発さずにいた。
聖女から仕事を取り上げられている聖職者が「ほんと助かります。ずっといてほしいです」と素の声で言っているところも、にこにこの笑顔で聖女らしき人物が手元の計算用紙に数字を書き込んでいるところも、しばらく眺めていた。
一切向こうは、こっちに気付く様子がない。
コンコンと、開きっぱなしの扉をノックしてみた。
「――はっ」
それで本当に、完全に今気付いた感じの顔を聖女がする。
「これは失敬。お客様でしょうか。ようこそ教会へ。ここは迷える人々の憩いの場……」
無理あるだろと言いかけたノスターが、後ろでクザロに口を塞がれた気配がした。
エイデンは、これで聖女に会うのは二度目だった。
彼女は大陸中を渡り歩く遍歴聖女、名はソラ。前回は公式の場で、今見せているのと同じ、木漏れ日のような柔らかな笑みを顔に貼り付けていた。
そのときからエイデンは思っていた。
噂では相当計算高いと聞くが、実際そんなタマか?
噂の意味が、今わかった。
「計算高いってそういう意味じゃないだろ」
「はい? 何のことを仰っているのか皆目見当もつきませんが……」
「殿下。ここは私にお任せください」
クザロに口を塞がれている間に、社交性を取り戻したらしい。ノスターがずいっと後ろから出てきて、聖女に向き合った。
「こちらは第一王子エイデン殿下です。聖女ソラ様、不躾ながら本日は少々お話を伺いにまいったのですが、お時間はございますか?」
「ええ、構いませんよ。幸運なことに、私もちょうどこちらの仕事が終わったところですから」
では確認を、と聖女ソラは書類を渡す。ありがとうございます、と頭を下げて、それを受け取った聖職者はさっさと執務室を出ていった。ケーキでも買いに行くのだろう。
「さて、エイデン殿下と言いますと、確か以前に……」
「ああ、一度挨拶をさせてもらったことがある」
「そうでしたよね。確かそのときは、ご婚約者の方といらっしゃいました。レテリア様と」
「そのレテリア様の件で我々は参ったのです」
ノスターがその先を引き継いで、
「聖女様。あのとき、初対面のレテリア様に『うわっ、不吉!』と言い放たれましたね」
「これ今から私が怒られるやつですか?」
「いえ、違います」
「それもそれでどうなんですか? こちらとしては助かりますが、第一王子のご婚約者の方に……というか人に対してそんなことを初対面で言い放つ人間がいたら、とりあえず怒った方が世のため人のためだと思いますが」
エイデンは思った。
こいつ、言ってることがわけわからんな。
どういうバランス感覚で生きてるんだ。
「しかしその件につきましては、」
そういう疑惑の目を撥ねのけるために身に付けたのだろうか。やたらに聖性のある笑顔を張り付けてソラは言う。
「レテリア様に直接謝罪して、許しの言葉をいただいているところですが」
「ええ。今回はそちらを改めて糾弾しようという目的ではありません。ただ、もう少し詳しく話を聞かせてほしいと思いまして」
「私が誠心誠意謝った際の内容ですか?」
「いえそれは聞いてません」
「『昔っからこういう人間で……本当に悪気はないんですけど。最近は頑張って直してるんですけどなかなか生来のものって滲んでしまって……』」
「いや本当に聞いていません。どうでもいいです」
私を許してくれたときのレテリア様の優しい笑顔の話ですか、あの方ってとってもいい人ですねえとソラがさらに重ねる。いや違う本当に微塵も興味がない話を聞け、というようなことを婉曲にノスターが言う。
「そもそも、なぜそういうことを仰ったのかです」
そして、本題に入る。
「聖女様は光の神によって選ばれたお方。人伝ながら、大変人格にも優れていらっしゃるとお聞きしております」
「でしょうね。私が率先してそういう噂を流してますから」
一瞬ノスターは怯んだ。
が、負けじと前に出た。
「そうしたお方が、どういった理由でレテリア様に『不吉』という言葉を投げられたのかと、今更ながら気にかかりまして。謝罪等はご本人方の間でお済ませになったとのことですが、ぜひ我々にもお聞かせ願えないかと」
「……そうですね。ご本人ではありませんが、ご婚約者様ですし。その程度のことをお聞きになる権利はあるでしょう」
「今は婚約者ではない」
えっ、とソラが顔を上げた。
馬鹿なんで言うんですか、とノスターが慌て始める。しかしエイデンは慌てない。
「物を聞くのに、相手の勘違いを訂正しないというのは誠実な態度ではない。聖女ソラ。私はすでにレテリアとの婚約を破棄している」
えっ、えっ、とソラは戸惑った様子で、
「まさか、私があんなことを言ったせいですか?」
「いや、直接の原因では――」
「ありませんが、遠因の一つではありますね! ですが殿下がやはり改めて婚約について検討したいと仰るので、もう一度聖女様に詳しいお話をお聞かせ願いたいと!」
おい、とエイデンが睨むが、ノスターも今度は物ともしない。後押しになったのは事実です、と言いたげにしらを切る。
「えぇ~……。罪悪感ありますね、それ……」
ソラは、片手で口を覆うようにして言った。
「わかりました。そういうことでしたらお話ししましょう。と言っても、あなた方を満足させられるような内容ではないと思いますが」
「というと?」
「殿下、目を瞑っていただけますか?」
素直にエイデンは、言われた通りにする。
視界が真っ暗になった。聖女が何事かをクザロに伝えるのが聞こえる。そっちの筋骨隆々のマッチョさんはこっちに来てください。それでこれを持ってもらって……
ぞわっ、と背筋に怖気が走った。
「なんだ」
「わかります?」
「ああ。今、額の前に何かがあるな」
風の向きや、瞼を通しても感じる光の具合の問題なのか。
目を閉じていてもわかった。うっすらとした圧迫感のようなものが眉間の上にあって、むずむずと、何か落ち着かない感じがしている。
ええ、と聖女が頷く。
そして言う。
「それムカデです」
ぞわわーっ!!
思わずエイデンは声を上げる。目も開ける。ムカデなんかいない。クザロが普通にペンを持って、エイデンがさっきまでいた場所の傍に立っている。
心臓をばくばくと動かしながら、訊ねる。
「なんだ今の悪ふざけは」
「こういうことなんです」
「何がだ」
「私が感じた『不吉』というのが」
エイデンが口を噤めば、ソラは肩を竦める。
「光の神の力もあって、私は色々な気配を察することができるんですが、あまり根拠のあるものではないんですよ。感じたのも一瞬だけでしたし」
「……つまり、」
噛み砕いて、エイデンは訊ねる。
「今俺が感じたような悪寒を、君はレテリアを見て感じたということか。聖女ソラ」
「いえ」
ソラは迷いなく、首を横に振った。
「その千倍くらいじゃないですかね」