05 すってんころりん
「おい。侯爵領に行くならばさっきの道は右ではないか」
「げっ……」
「なんだその『なんで気付くんだよめんどくせえな』と言いたげな声は」
「そんな声は出していませんよ? 私のイメージは殿下の中で一体どうなっているんでしょう。ああ、この上なく傷付いたなあ!」
第一王子エイデンは、馬車に乗っていた。
この間婚約破棄した相手とやっぱり結婚してえ、と意味不明なことを口にしながら王宮を飛び出して数日。彼は文官ノスターと騎士クザロと共に車の中にあって、侯爵領へと向かう道中の景色を眺めていた。
そして、ノスターの陰謀に気が付いた。
「いいから答えろ、ノスター。一体どういうつもりだ。お前が考えなしに俺の命に背くとは思わん」
「……やれやれ。信頼していただいて嬉しいやら、そうでもないやら」
はあ、と溜息を吐いて眼鏡を押し上げると、ノスターは言った。
「私としてはですね、先に情報収集を進めたいんですよ。骨折が三日で治ろうが何だろうが、殿下に即死されては元も子もありませんからね」
「情報……」
ちなみにクザロは二人の間でスクワットをしている。
「聖女のところに向かっているわけか」
「お察しの通りです。流石は殿下」
話が早くていらっしゃる、とノスターは言って、
「外遊から帰ってきた私もはっきりと目にしていますからね。あの聖女様がレテリア様を見て開口一番『不吉』だと仰った瞬間を」
「ああ、オレも見た」
「そう。筋肉自慢大会で優勝して戻ってきたクザロも。というかお前が傍にいれば虎が来ようが何だろうがどうでもいいのでは?」
「特定個人の能力に安全確保を依存する体制は健全ではない。そもそも、レテリア様の問題はその不吉な現象の発生タイミングや規模が予測不能だったことだ。これではいかに殿下の護衛に当たる騎士が優秀だったとしても、警備計画すら立てようがない」
「なんで急に理知的になるんだよ腹立つな」
それで、とエイデンは話の主導権を奪い返して、
「何かを知っているであろう聖女から詳しく話を聞きたいというわけか」
「ええ、以前の聖女様のお言葉は殿下の記憶にも留まっていたようですし。彼女、性格はともかく力だけは本物だと評判ですからね」
「計算高いとも聞くが」
「いいんじゃないですか計算不能予測不能の馬鹿を相手にするよりだいぶ楽で」
「なぜ俺の目を見つめながら言う」
「皆まで言わずとも、察してください」
ふむ、とエイデンは頷くと、
「聖女に話を聞くだけでレテリアと結婚できるわけか。合理的ではあるな」
「誰もそこまで言ってないんですけど?」
「よし、大人しくその計画に従おう。俺も無暗にお前たちを困らせたいわけではないからな」
「いい話風にしてその前の発言をゴリ押しするのやめてもらっていいですか? 私は聖女様なら何か知ってるかもしれないからそれを聞いてからこれからのことを考えましょうって言ってるだけで、何も聖女様に話を聞いたらそれだけでレテリア様との再婚約や結婚にオッケーが出るなんて話はしてないんですけど?」
「ノスター」
ぽん、とクザロがノスターの肩を叩いた。
彼は真剣な目をしている。ノスターが意表を突かれたように口を噤む。
代わりに、クザロの口が開く。
「細かいことは後から考えよう」
「その負担を全面的に負うのは私なんだよ!」
「お前が思うままに物事を進めたいという気持ちも、殿下が同じように思われる気持ちも自分勝手さではそう変わらない。殿下がお前の計画に乗る形で譲歩してくださるのだから、お前も多少は譲歩を見せろという話だ。これは上下関係や秩序の問題ではなく、人と人との話だぞ」
「だからなんで急に人格者になるんだよ腹立つな」
そんなこんなで、エイデン一行は目当ての聖女のいる場所に辿り着く。
それは大陸教会の聖堂だ。ノスターはすでに話を通し終えている。急な訪問でこそあるものの、エイデンたちは聖職者たちの導きによって、待ち時間もなく聖女の執務室に通されていく。
扉を開く直前、部屋の中から高笑いが聞こえてきた。
◇
それにしても、と思いながらレテリアは腰の入った振りで斧を木に打ち付けている。
一体自分は何なのだろう。
カーン、カーン、と斧は甲高く音を立てている。その規則的なリズムが彼女の心に落ち着きと曖昧さを与え、だから、今まで無意識に考えないようにしてきた痛いところにまで、思考の範囲が及んでいく。
いくらなんでも、おかしくはないだろうか。
何となく昔から「私って運が悪いなあ」くらいのことは思っていたけれど、最近はいくらなんでもひどすぎやしないだろうか。
屋敷が燃えたことも、もちろんそうだ。
ここ最近新たに家を作ってはすぐに潰れたり、新しい何かを始めようとしたときに必ずと言っていいほど最初の試行では大失敗することになったり、そういうのもそう。折角婚約できたエイデン殿下をあれだけ危険な目に遭わせたのも、間違いなくそう。
人間って、ここまで立て続けに不幸に見舞われることがあるんだろうか。
でも、誰かの作為を疑うにしても、そういうのは父と母が昔から念入りに調べてくれているはずだし。というか、本当に誰かの陰謀で殿下があんな目に遭わされていたとしたらもっと大騒ぎになっているはずだし、
「…………」
ふとレテリアは、殿下を『あんな目』に遭わせたのが自分である可能性が高いということを思い出す。
原因不明、原理不明、悪意もなければ作為もなく、自分だってもちろん彼に危害を加えたかったわけではないけれど、やっぱり心の中には申し訳なさが募る。
ちょっとだけ、祈ることにした。
罪悪感も込みで。どうか殿下のお怪我が早く良くなって、次は私のときよりもずっと幸せなご婚約をなされますように――
「あ」
カコン、とレテリアは斧を止めた。
手の内に違和感があったからだ。
手のひらを見てみるけれど、マメが潰れているくらいでそれほど変なところはない。となると、手そのものではなく握っているものの方に問題がある。
斧をまじまじ見る。
持ち手の部分に、軋みができていた。
燃え残った倉庫から取り出してきた古いものだから、元々ガタが来ていたのかもしれない。このまま使っていては一体どんなことが起こるかわかったものではないから、レテリアはそれ以上はこの場で斧を使わないことにする。後で上手く木材と組み合わせて修理しよう。落雷で家が燃えるような不運はどうしようもないが、この手のちょっとした工夫で避けられるものは、避ける努力をした方がいい。
さて、そうと決まれば早速伐り倒した木々と共に山を下りていくことにしよう。
腰に括り付けたホルダーに斧をしまい込んで、木材を川の上流から送り出そうとしたとき、それは起こった。
ぺきっ、と音がしたのだ。
気が付いたときにはもう遅い。斧の刃の部分が、柄ごと折れてしまった。落ちていく。それはレテリアの足に当たる角度ではない。幸いにも。
それ以上の幸いは続かない。
川に落ちた。
金属なのだからその場に沈んですぐに回収できるだろう、なんて考えは甘い。斧は落下の勢いのまま、川底の岩の上をすってんころりん転がっていく。それなりに山の高い場所だから水の流れもなおさら強く、一度走り出したら止まらない。
斧に言葉があったなら、こう言ったことだろう。
あーれー。
「…………」
レテリアは、今更溜息も吐かなかった。
普通こういうことが起こると――つまりは立て続けに問題が発生し、事態の進展が阻害され続け、達成感を覚える機会がことごとく失われていくと――人間は悲しみを覚え、生きることに対して失望を感じ、何もかもを諦めるようになり、最終的には身体も心も一切動くことがなくなるものなのだが、すでに彼女は次の思考に移っている。
まあ、平べったい石でも見つけて斧も作り直せばいいか。
でもあれくらい整った刃よりは、やっぱり作業効率は落ちるよね。
だったら、とりあえず回収できないか追ってみた方がいいか。
追ってみることにした。
山道だから、急いで駆けていって自分もすってんころりんなんてことになったら堪らない。彼女は川の流れを見ながら、刃がどの方向に転がっていったかを推測しつつゆっくりと歩いていく。石を洗うような急な流れが、段々と緩やかになっていく。水音よりも木の葉の擦れる音の方が大きくなっていく。ざっ、と雨雲を散らすように草むらが晴れて、景色が開ける。
泉があった。
その真ん中に、美しい長髪の男が一人、佇んでいる。