04 お嬢様ってすごい
「巡回行ってきまーす」
「うーい。昼までには戻って来いよ。今日の飯当番はアタシだからな」
「わお、それって超たのしみ!」
「たのしみ『です』、な」
その日の朝、侯爵家の片隅にある地方管理所の扉から出ていったのは、ニーナという名の少女騎士だった。
彼女はその管理所に詰めている騎士たちの中でもいっとう年若い。朝から煙草を吹かす先輩騎士に挨拶をすると、ほとんど鎧も付けないような軽装に弓と剣を携えて、軽快な足取りで厩に入っていく。
「よーしよし。良い子だね、ブルックバルク五世。今日もあたしと一緒に風を切ってくれる?」
ブルル、と栗毛の馬はニーナの頬に鼻面を押し付けて、可愛らしく返事をした。手綱を引いて、彼女は早速その馬と管理所の外へと繰り出していく。
それは彼女の、侯爵家の騎士としての仕事の一つだった。
片隅とはいえ、領地の全てに侯爵家の目は届かなくてはならない。それがたとえ奥深い森であっても、人の足ではとても踏み入ることのできない険しい山であっても、少なくともその周縁部には、何かしらの観察がされなければならない。
「今日も異状なし! よし!」
たとえその巡回の結果が『異状なし』であっても、『異状なし』と確かめることが大事なのだ。
出発してから二時間ほどは経っただろうか。ニーナは先輩から譲り受けた地図を両手に全ての巡回ルートを走り終え、今日の仕事をやり遂げたことを自ら宣言する。
が、
「…………ね。ブルックバルク五世。あたしたち、でもまだ走り足りないと思わない?」
この年頃の子どもが、毎日『異状なし』と確かめる仕事だけで満足できるかというと、別の話だ。
「ブルル」
あと、馬も。
ニーナが見つめているのは、彼女が勤める地方管理所の管轄地の中でも端の端。山のずっと奥の方だ。つい先日、そっちに向けて先輩と一緒に馬車を駆って、ある人を送り届けてきたのである。
その人の名は、レテリア。
ニーナが仕える侯爵家の、長女である人だ。
しばらく一人で暮らすから、と聞いている。侯爵家からの指令では見回りは週に一度でいいと言われ、本人からは月に一度でいいと言われている。実際、地方管理所からレテリアの住む山奥の館まではかなりの距離があり、また道も険しいため、そう頻繁に往復するのは体力的にかなり厳しいものがある。
でも、ニーナとブルックバルク五世には関係がない。
この一人と一頭は、王国全土を見渡しても類を見ないほどの乗馬コンビだから。
「よーし、お昼ご飯までにいっぱいお腹を空かせるぞ!」
「ヒヒーン!」
あと、日頃から元気いっぱいだから。
とんでもない山道を馬に乗って突き進みながら、ニーナはこんなことを考えている。
だって、巡回が終わった後に時間が余ったらどうしろこうしろなんて命令されてないし。
だって、一週間に一度じゃお嬢様に何かあったときに困るだろうし。
だって、何だか傷心中って聞いてるし、一人ぼっちでいるんじゃ寂しいだろうし。
賑やかしでも何でも、誰か一人くらいは心配して様子を見に来てくれたって思えた方が、お嬢様も嬉しいよね!
というわけで、彼女はブルックバルク五世と共に風のように駆け抜けて、瞬く間に山の奥の館まで到着した。
「……な、何これ……」
そして、目を疑った。
ごしごしとニーナは目を擦る。ブルックバルク五世に「跡になるからやめなさい」と言いたげにそれを止められる。それを機にニーナはブルックバルク五世に確認してみる。「前はこんなのじゃなかったよねえ?」ブルックバルク五世が頷く。「ちょっとほっぺたつねってみて」甘噛みして引っ張ってくれる。びよーん。
あいたたた、と頬を押さえる。
夢じゃない、とわかったから、
「なんでお屋敷がなくなって、小屋ができてるの……?」
ニーナは、目の前の光景をそのまま口にした。
◇
「やった……! とうとう輸送に成功した!」
その頃、レテリアは山の中で大喜びだった。
目の前には川。急峻な山道を縦に裂くようにして引かれたその天然の水路の前で、彼女は飛び上がらんばかりの笑顔を見せている。
なぜと言って、その川の端の方に、いくつもの木材が引っ掛かっている。
レテリア自身が、さっき上流の方から流したものだ。
「これができれば木材の運搬が一気に省力化できる……! 単なる水源としてだけじゃなくて、輸送路としての利活用ができるようになった!」
彼女は、ボロボロの姿である。
つい先日、侯爵家の令嬢としてこの地に到着したときとは全く違う。しかし瞳だけが爛々と輝いているのはどういうわけか。いつまでも喜んでいることもなく、彼女はそれらの木材を持ち上げると、
「ここから家まで丸太を配置していけばその上で石材も転がせるようになるから、一気に使える資材が……いやでも、その前に川を使って石を運べるかを試さなきゃ。そのままじゃ沈んで動かなくなるだろうから、まずは上流での筏作りからかな。積載荷重は後で計算するとして……あ、待って。筏を使うなら一度下流に来たものを上流に引き戻す工程が入っちゃう。私の筋力だと難しいかも。……うーん、もうちょっと考えてみよう。水路の利用にこだわらないで石材の採掘地点をもっと家の近くに置いた方がいいかな」
ひとりでぶつぶつと喋りながら、何度も自分の足で踏み固めたらしい道を戻っていく。
それなりに重たいものを抱えて、相当に歩きにくい道を進んでいるだろうに、彼女の歩みには全く乱れがなかった。頭の位置も動かなければ、上半身がふらふらと揺れることもない。それはまるで優雅な令嬢が社交会場で見せるような優雅な歩みであって、違うところがあるとすればその速度くらいのものか。
あっという間に、家が見える。
ここ数日、食料の確保と同じくらいの労力をかけて組み上げてきた、新たな家が。
「うわああーッ!!」
そして、その近くに佇んでいた者に大絶叫で迎えられた。
「っ、」
「どどど、どうしたんですかお嬢様! 何があって――ていうか大量出血!? 怪我!? 怪我ですか!?」
レテリアは、一瞬怯んだ。まさかこんなところに人がいるとは思っていなかったから。
目の前の少女の動きは早い。傍にいた馬とともに、風のように駆け寄ってくる。豊かな表情であわあわと焦って、本気で心配している様子で、けれどこちらから許可を出していないのを気にしてか、身体には全く触れてこない。
そういう細かなところから推察するまでもなく、目の前の彼女もまた侯爵家の一員であるから、レテリアは顔を見ただけでそれが誰なのか、ちゃんと思い出せていた。
「ニーナ」
呼ばれれば、はいっ、と彼女は背筋を伸ばす。前にも同じようなことがあった、とレテリアは少しだけ笑う。それで戸惑いが少しだけ抜けて、ニーナから投げかけられた問いの答えについて、考える余裕が出てくる。
大量出血?
怪我? 怪我ですか?
自分のボロボロになった姿を見下ろして、ああ、とレテリアは頷いた。
「気にしないで。これは血じゃなくて、果汁だから」
「か、かじゅう……? くだものじる……?」
「そう、果物汁。こう、胸に抱えて運んでいるときに、転んで服の上で潰しちゃって」
確かに、言われた通りみぞおちのあたりが真っ赤に染まっている。
でもそういうことだから気にしないで、と伝えれば、
「転んじゃったんですか!?」
それはそれでニーナは驚いて、レテリアの前に屈み込むと、ところどころが破けた服の上から膝の辺りを覗き込む。
うわあ、と曲げた指をくわえ込むようにして、
「かわいそうだよ~……。あ、応急手当てします!」
「ううん、大丈夫。ちゃんとよく水で洗った後に、消毒して薬草も塗り込んだから」
「薬草?」
「そう。このあたりを歩き回っていたら見つけたから」
ほら、とレテリアは家の中に入っていって、引っ掴んで来て、それを見せてやる。
ほああ、とニーナは感心の声を上げた。
「よく知ってますね。あたしもまだこのへんのは覚え切れてないくらいなのに……って、そうじゃなくて!」
あーっとえーっと、と彼女は慌てた様子で言葉を探している。
とにかく、というように目に付いた場所に振り向いて、
「何があったんですか!? お屋敷、なくなってるんですけど!」
「燃えちゃって」
「燃えちゃったんですか!?」
「うん。でも大丈夫」
「何も大丈夫な要素なくないですか!?」
やっぱり、とニーナは言い始める。悩み始める。悔み始める。
ちゃんとあたしたち騎士が傍についているべきでしたほんとごめんなさい今から管理所に取って返して先輩引っ張ってきますあたしより断然先輩の方が役に立つんで待っててくださいいやもう待たなくていいです後ろに乗ってください乗せてきます一緒に帰りましょうこの子すごい速いですブルックバルク五世って言います人懐っこいです可愛いです優しいです乗り心地いいです素敵です、
「今すぐ帰りましょう、お嬢さ――」
「ニーナ」
その肩を、レテリアは掴んだ。
ニーナが口を噤む。真っ直ぐ、視線を逸らせもせずにいる彼女を、その場に射止めるような眼差しでレテリアは見つめる。
「お願いがあるの」
「な、何でしょう」
「しばらく私を、ここに一人でいさせて」
ニーナは息を呑んだ後、レテリアが想像した通りの反論をした。
何を言ってるんですかこんなことになってるのに。今すぐ帰りましょう危ないですよ。
「今の私には、この環境が必要なの」
けれど、レテリアはそれに首を横に振って答えた。
「この小屋はね、私が作ったの」
「――自分でですか?」
「そう。その……きっと、何を言ってるのかわからないと思うんだけど。今の私に必要なのは、何かを失ってもまたやり直せるって、誰かに頼らなくても自分の力で何かが成し遂げられるって、確かめることなんだと思う」
だから、と真剣な声でレテリアは告げる。
「お願い。私に、自分で立ち上がるための時間を頂戴」
その言葉に、ニーナは――
◇
「お、帰ってきたな。時間が守れるようになって感心だこと」
「…………」
地方管理所。
カランカラン、とドアベルを鳴らしてニーナは帰還した。
先輩の騎士がエプロンを付けて厨房に回っていく。スープの湯気がふわふわと漂って、食堂にまで温かな空気が満ちてくる。ニーナは大人しく座っている。先輩が厨房からひょいっと顔を出して、
「皿に盛ってやるから配膳は自分で――どした。何か様子おかしいけど」
じーっとニーナが机の木目ばかりを見ているものだから、騎士は心配の声をかける。
「……先輩」
「どした。変なもんでも拾って食ってきたのか」
ぱっとニーナが顔を上げる。
その速度につい、先輩騎士は「冗談だよそんなカッカすんな」と宥めたくなる。
が、彼女は全然そういう表情ではなくて、
「――お嬢様って、すごいねえ」
いきなりそんなことを言われても、言われた方もわけがわからない。
騎士は首を傾げる。ぼこぼことスープが煮立ち始める。だからとりあえず、いつものようにニーナに向かって、こんな言葉を口にする。
「すごい『ですねえ』、な」
◇
ふう、とレテリアは新たな自宅を眺めながら、息を吐いている。
ニーナはわかってくれただろうか。そんなことを考えながら、ぽつぽつと、森の中から奪い去ってきた小さなベリーを口の中に詰め込んでいる。
穀物でいえば、食べられる芋類も見つけることができた。この手の果実もあれば甘味や酸味だって足りる。しかし栄養を考えると、そろそろ肉類も欲しいところ。いきなり狩りから始めるのは難しいだろうから、まずは釣りから始めてみるのがいいだろうか。次にやるべきことを思い浮かべて、黙々と栄養補給を続けている。
それから、と自宅もよく見る。ひとまず屋根と壁ができて家らしくはなってきたけれど、まだまだ目標には達していない。拡張を――いや、これから冬が来ることを考えればさらに断熱を進めていく方を優先すべきか。次に得るべき素材はなんだろう。やはりあの竈を利用してさらに住居全体に火の恩恵を広められるような設計をすべきだろうか。食料の貯蔵庫も今のうちに確保しておきたいが、どの食材がどのくらいの保存可能期間を持つかについてはまだまだ知見が乏しい。そうだ、冬と言えばさっきのあの子は冬の間も自分の様子を見に来てくれるつもりなのだろうか。馬に乗ってあれだけ速く走ったらよほどの寒さに――
「へ、」
くしゃみ。
くちっ、と口を押さえた次の瞬間、ぎぃい、と山小屋の壁が傾き始める。
落ち着いて、レテリアはそれを見ていた。
落ち着いて見ていたところで、特にそれから起こる出来事に何らかの影響を及ぼせるわけではない。壁が傾いて、柱が巻き込まれて、屋根が、
ドーン。
「…………」
レテリアは無言のまま、とりあえず手の中にあるベリーを平らげる。
即席の水筒で手を洗う。ぱしぱし、と宙に手を叩いて水気を切る。
頑張ろう、と思った。
果たして頑張るだけで問題が解決するのか、少しずつ疑問を持ち始めながら。