03 灰の中から蘇る。それが令嬢の掟。
昔はこんなんじゃなかった、と思っている。
少なくともここまでではなかった、とレテリアは思い出している。
確かに、ちょっと人より運が悪いかなと思うようなことはあった。
お出かけの日に限って雨に降られたり。
気になる舞台の観劇に行ったら、看板役者がお休みだったり。
よりにもよってというところでお気に入りの靴が壊れたり、楽器の弦が切れたり、食べ物が悪くなってしまったり……。
でも、ここまでではなかったと思う。
少なくとも実家は、生まれてこの方ちゃんと残っているのだから。絶対。
「…………」
一夜明け、レテリアは煤まみれで立ち尽くしている。
目の前には、大部分が灰と化した屋敷が広がっていた。
風が吹けば、黒焦げになった柱が音を立てて崩れ落ちる。焼けた食糧庫には、ちゅんちゅんと雀が群がる。雨は上がり、雨と共に炎も失せ、今は秋の早朝の薄ら冷たい空気だけが、高い空とレテリアとの間に漂っている。
流石に、呆然と立ち尽くさざるを得なかった。
つーっ、と煤をかきわけて一筋の涙が、彼女の頬を流れた。
「――いや」
拭った。
「頑張ろう」
呟くと、彼女は焼け焦げた廃墟と化した自分の家に、毅然として向き合った。
まずは服の袖を破って口を覆った。これらの灰も、焼けた後となっては何が燃えたのかもわからない。不用意に吸い込んでいいということもあるまい。しっかりと呼吸器周りを保護してから、探索に踏み出す。
まずは被害状況の確認だ。
半分以上は屋根もなくなるほどに焼けてしまった。こうなると、むしろいつ崩れ落ちるかわからない残った部分よりも、青空の下にその姿を晒している全焼部分の方が手を付けやすい。
「ベッドは当然ダメ。これは……儀礼用の剣だけど、何とか使えるかも。そうだ。それならこっちは……包丁。ということはこのあたりが厨房で……やった! 地下収納に少しだけ食料が残ってる!」
発掘したものを、レテリアは丁寧に地面の上に並べ始める。
雨のおかげか秋夜の気温のおかげか、それほど炎の温度は高まらなかったらしい。金物は多く使えるものが残っていた。しかし、たとえば寝室や厨房といった場所は機能をほとんど失って、残っているのは竈と、三日ばかりを凌げればという程度の非常食のみ。
腕を組んで、レテリアは考えた。
ここは侯爵領の外れだ。辺鄙な場所とはいえ、全く人がいないというわけではない。娘である自分が住んでいるのはなおさらのこと。そしてここに来る前に、抜け目ない彼女はもちろん確認している。
山深い場所ではあるが、この非常食を持って一日二日を歩き通せば、侯爵家の地方管理所――自分を馬車で送ってくれた人たちがいる場所まで、助けを求めに行くことができる。
頭ではわかっていた。ぜひそうするべきだ。
しかし今、彼女の心は頭とは別の場所にあり、こんな言葉を思い出している。
――自分がこの家の娘であるということだけは、忘れないように。
実家の離れ際、母から告げられたことだ。
「……うん」
静かに目を閉じて、レテリアは胸に手を当てる。
確かに、助けを求めることは簡単だ。侯爵家の娘なのだから、声を上げれば誰にだって助けてもらえる。
でも、それだけでいいのだろうか?
自分を見つめ直すつもりだ、と告げて出てきた。だというなら、たったの一夜を過ごしただけで「もう無理です」なんて、どうして言えるだろう。それに、これだけのものが元々あったのは家のおかげだ。これらは本来、大抵の人間には与えられることのないもの。余剰の贈り物。
プラスがゼロになっただけ。
まだ、ゼロからマイナスになったわけじゃない。
だというなら、まっさらなひとりの人間として、自分を見つめ直すためにすべきことは。自身が誇りを持つ侯爵家の娘として、取るべき選択は――。
決然として、レテリアは顔を上げた。
「再建しよう。他の誰が見ても、来たときよりも立派になったと思ってもらえるくらいに。この場所で、やり直そう」
◇
「ああ、心配だ……。心配だなあ……」
一方その頃、レテリアが去った後の侯爵家。
侯爵は家族共用の談話室で、冬眠からうっかり覚めてしまって焦り散らかす熊のようにうろちょろしていた。
「心配だ……。心配すぎる……」
「少しは落ち着いたらどうですか」
それを諫めるのは、侯爵夫人だ。彼女は冷静極まりない態度で談話室の椅子に座り、紅茶のなみなみ入ったカップに唇を付けている。
だって、と侯爵はその横に跪くようにして言った。
「心配にならないはずがないだろう? 婚約破棄なんかされて傷心のはずで――あの若造め。八つ裂きにして磔にしてやってもいいくらいだというのに。あんな風に笑って許すだなんて、レテリアは甘すぎる!」
「甘いのではなく、良識があるのです。子どものこととなると前が見えなくなるあなたとは違って」
夫人が侯爵の額に指を弾く。
ぱち、と軽い音がすると、まるで夢から覚めたように侯爵の顔から怒りの気が抜ける。しばらく彼は無言でいると、やがてその額を大きな手のひらで擦って、
「だが、あんな風に扱われて恨み言の一つも零せないんじゃ、あの子が可哀想じゃないか」
「しかし殿下も虎に立ち向かわされた挙句に両足を骨折していますからね」
「まあ……それを言われてしまうとぐうの音も出ないが……」
「あの子は他人に八つ当たりして気を晴らせるような性質ではありません。必要なのは本人が言った通り、自分自身と向き合って、気持ちの整理を付ける時間です」
音もなく、夫人はカップを置く。
「そのために、侯爵令嬢である彼女にたった一人で暮らすことを許したのではありませんか。あなたがそうして右往左往していてどうしますか」
「でも、君だって気が気じゃないんじゃないか? 若い娘があんな陸の孤島のような場所で一人だなんて、何かあったら……」
「前にも言いましたが、あの周囲は険しい山岳に囲まれた天然の要塞のような地です。そして館に続く道は当家の騎士たちによって監視されていますから、身の危険の及ぶ余地はありません。というか賊の類は領地の中におりませんし、いたとしてもあんなところ危険すぎて近付きません」
「けど、あの子は家事の一つだってやったことはないわけだし。今頃困ってるかも……」
「家事なんていざ一人で暮らし始めればどうとだってなります。私もそうでした」
「そりゃ君はしっかりしてるから」
「それに、いざというときのためにと料理をしなくてもそのまま食べられるような保存食を貯蔵庫に詰めたでしょう。他の何がなくとも、食べることができれば死ぬことはありません」
「じゃあたとえば、その保存食をひっくり返してしまったら?」
「…………」
「最近噂に聞くあの子なら、やりかねないんじゃないか?」
夫人は、遠い目をした。
それはまるで過ぎ去りし日々を思い出しているかのようだった。楽しみにしていたお出かけの日、その後の勉学の時間に間に合わせるために完全にぶっ壊れた傘で雨の中を戻ってきた娘の姿。看板役者のいない観劇の後、「それでも面白かったですよね!」と代理の役者を褒め称え、周りを盛り上げようとする娘の姿。
発表会で靴が壊れたにもかかわらず片脚跳びで優雅に歩く娘の姿、楽器の弦が切れて即興で編曲を変える娘の姿、頑張った自分へのご褒美にと買い付けた異国の茶葉が輸送過程でダメになってしょんぼりする娘の姿……。
「……まあ」
最近ますます磨きがかかっているという噂。
それらを思い出して、夫人は、
「この家の娘であるということは忘れないように言ってありますし。そうなったら流石にあの子も私たちに助けを求めてくる……んじゃないかな。多分」
きっと、と口にする。
侯爵と見つめ合う。
二人は互いの不安を掻き消すように、ひし、と抱き締め合う。
レテリアは、結構気丈な性質の娘である。
いくらなんでも気丈すぎる、と見る向きもあった。