02 元気にしてますか
「本日より殿下の婚約者となりました、レテリアです。これからよろしくお願いいたします」
初めてその少女に会ったときにエイデンが抱いた印象は、『儚げだ』というものだった。
父である侯爵とは何度も顔を合わせたが、押し出しの強い長身の男で、だからこうした娘が出てくるとは思わなかった。顔立ちも立ち姿も、声も美しいが、どことなく輪郭の線が淡い。緊張しているのか、それとも自分を相手に遠慮しているのか、彼女は長い睫毛を伏せるようにしていて、それがなおさら印象に拍車をかけた。
幸薄げな、とまで行くとあまり良い意味ではなくなるか。
そう思ったからエイデンは、その第一印象を胸の中にしまい込む。
「エイデンだ」
優雅な動作で、その右手を差し出した。
「そう固くなるな。まだまだ勉強中の身だが、おかげで時間は取りやすい。まずはデートでもして、仲を深めていくというのはどうだ」
「――はい」
レテリアがその手を取る。
握った指の細さに、胸のうちがくすぐったくなるような、不思議な心地を覚えた。ひょっとしたら同じものを感じたのだろうか。彼女もまた、目を丸くしている。どちらからともなく顔を上げて、お互いがお互いを見る。
目を合わせて、笑い合った。
そうして二人は――
「ようし。まずはさっさとこんな退屈な王宮は抜け出して、カフェにでも行くとしよう。俺もたびたび城下には出掛けていてな。こう見えても味にはうるさ――」
「わあ! 急に大通りの水道管が鉄砲水を!」
「何っ!? 危ないレテリぐあああああああああ!!!」
「殿下ー!」
「やれやれ、とんだ目に遭ったな。前回の埋め合わせに、今日は少し遠くまで行こう。このあたりの丘は海が見渡せて絶景だと評判――」
「わあ! 急に崖崩れが!」
「何っ!? 逃げろレテリぐあああああああああ!!!」
「殿下ー!」
「全く、自然現象というのは想像が付かないものだな。というわけで今回のデートはコンサートに来たぞ。ここなら座っているだけだから安心だな。それに今日公演する音楽家は若手ながらなかなか――」
「わあ! 急に客席頭上のシャンデリアが!」
「何っ!? 避けろレテリぐあああああああああ!!!」
「殿下ー!」
「まさか音楽によって奏でられた周波数が偶然シャンデリアの鎖を破壊してしまうとはな。そろそろ大人しく近場の草原でピクニックと行こう。全ての茶は俺が厳選したから毒に当たる心配もない。さっきから夥しい数の黒猫が俺たちの目の前を徘徊散らかしているのが気にならないでもないが、今日こそ安心して――」
「わあ! 急に茂みの中から漆黒の虎が!」
「何っ――とでも言うと思ったか!」
「殿下!? す、すごい! あんな常軌を逸して巨大な虎をドロップキックで――殿下?」
「両足が折れた」
「殿下ー!」
破局した。
◇
「おはようございます、殿下。今日も良い朝ですねえ」
ぱちりと瞼を開ければ、朝一番から嫌みな声が聞こえてくる。
エイデンはもう一度夢の中に逃げ込もうと、毛布を手に寝返りを打った。
「ちょっとちょっと。二度寝なんかしたら身体に悪いですよ。一度目が覚めたら潔くパッと動き出さないと。お仕事も溜まっちゃいますよ~?」
「昨日の夜に俺を訪ねてこなかったのだから、万事順調に進んでいるということだろう。それなら特に報告は要らん」
「悪いことが起こったときだけ報告に来ていたら、私の綺麗な顔に悪印象がついてしまうでしょう? 確かに仰る通り、殿下のご手腕のおかげで全て順調に進んでいるという報告ですが……ああ、もうそのままでもいいですよ。素敵な報告を聞いて、朝から気分上々になってくださいな」
エイデンの寝室には今、三人の男がいた。
一人はもちろんエイデンだ。毛布にくるまって、起床を拒否している。
もう一人はエイデンに向かって報告書を読み上げている眼鏡の男、ノスターだ。年若い文官であり、エイデンの腹心として日頃から彼の仕事の補佐をしている。
最後の一人は短髪の、これもまた年若い筋骨隆々の護衛騎士の男、クザロ。今はいつものように部屋の隅で「ふんっ……ふんっ……」とダンベルカールをしている。
「ということで、水道事業は中心都市からさらなる広がりを見せているところです。地盤の軟弱な地域についてもつい昨日、技術班が有用な解決策を発見したとのことですので、全体として後は時間の問題かと。それから資金調達で苦慮していた公共教育事業に関する報告ですが、こちらも幸運なことに昨日出資者との調整がつきまして――」
「幸運、か」
ぽつりとエイデンは、壁を見つめながら呟いた。
ノスターが声を止める。紙面から顔を上げて、エイデンの背中を見た。
「レテリア様のご心配ですか?」
ちなみにクザロは、ダンベルカールを終えてラットプルダウンに移っている。
ふんっ……。ふんっ……。
「仕方ないではありませんか。実際、彼女の終盤の追い上げは凄まじいものがありましたよ。もはや普通に王宮を歩いているのを見るだけでハラハラしたものです。確かに個人としてはとても感じの良い方でしたが、次期国王であらせられる殿下の婚約者としては、不適格と言うほかありません」
勘弁してください、とノスターは肩を竦める。
その頃クザロはラットプルダウンからケーブルローイングに移っている。
「ふんっ……。ふんっ……」
「ご安心くださいな。あの国内でも有数の権勢を誇る侯爵家の令嬢なのですから、殿下との婚約破棄くらいではそう著しく人生が悪化するということもありませんよ。不可抗力だということは我々も皆わかっていますし、これからもまた心機一転、どこか新しい場所で幸せにお暮らしになることでしょう」
ごろり、とエイデンはもう一度寝返りを打った。
今度は仰向けだ。自分の両腕を枕にするようにして組んで、彼は天井を見つめている。
しかし、と呟いた。
「ふんっ……。ふんっ……」
「聖女が言っていただろう。彼女は不吉だと」
かちり、とノスターが眼鏡のブリッジに指をかける。
一瞬きらりとレンズが光ると、彼はすぐに胡散臭い笑顔を浮かべて、
「ははは。そんなのを真に受けてらっしゃるとは、殿下もなかなか可愛らしいところがおありですね」
「どういう意味だ」
「ふんっ……。ふんっ……」
「あの聖女は計算高いと評判ですから。殿下の美貌を見て、ちょっとした嫌がらせのつもりでレテリア様にそんなことを言っただけかもしれませんよ」
「そんなタマには見えなかったがな」
はは、とノスターは空笑いをする。
クザロのトレーニングは終盤の追い込みに差し掛かる。
「うおおおおおお!!!」
「何が言いたいんです、殿下」
「彼女はこれからもその『不吉』を抱えたまま、一人で生きていくのかと思ってな」
「どぅおおおおお!!!」
「はは。これはなかなか慈悲深いお言葉です。しかし、殿下にそんな心配をする資格がありますかね」
「……今度はこちらの台詞だな。どういう意味だ」
じろり、とエイデンはノスターを見る。
その視線をものともしないで、ノスターは言った。
「そんな大怪我をしてベッドから動けなくなってる人が何を言ったって、彼女には余計なお世話でしょうって言ってるんですよ」
「づえりゃあああああああ!!!!!!」
「前から思ってたんですがこいつが部屋にいることに殿下は何の文句もないんですか?」
ふん、と自嘲気な笑みをエイデンは浮かべる。
瞼を閉じた。
「確かに、お前の言う通りかもな」
「でしょう。私としても他のお貴族様方の言う通り、歴代でも随一の優秀さを持つ殿下がいちいちデートのたびに両足を骨折されていては、国のためにならないと考えていますから」
「そうか」
「ハァ……ハァ……」
「何度も言うのも心苦しいのですが、諦めてください」
「……ああ、わかった」
「充実したトレーニングだった……」
「では続きまして、王宮諸予算に関する逐次報告を――」
「やっぱり結婚したくなってきた」
「は?」
そこからは早かった。
ノスターが止める間もなかった。しゅばっ、とエイデンが起き上がる。ささっと服を脱いで朝日の中に引きしまった肉体と美しい肌を晒すと、自ら外出着を選んで着込んでしまう。その傍ら洗顔を行い、髪も整え、信じがたいことにかかった時間はものの十数秒。
ノスターが目を白黒させる。
わなわなと、震える指で床の方を指差す。
「足、」
たった今、ちょうどそのあたりでエイデンがすぽーんとギプスを外している。
「骨折したのはどうしたんですか?」
「寝たら治った」
ブーツを履いたエイデンは、見せつけるようにその場でタカッ、タカタカタッと軽快なステップを踏むと、胸を張って、
「見ての通り、俺は骨折しても一週間足らずで完治する。これならレテリアと共にいることで発生する損害は軽微とみなすことができ、問題はないな」
よし、と早速エイデンは完治した両足で走り出す。
「婚約破棄しておいて今更だが、土下座してでも結婚してもらうぞ!
待っていろ、レテリア!」
器具を片付けた騎士クザロが、遅れることなくその後に続く。
彼はエイデンと違って、退室間際に少しだけ振り向いた。ノスターが呆然としてまだ動けずにいるのを確認すると、「任せておけ」というように小さく頷いて扉を閉める。
ばたん。
するとノスターの眼鏡がその衝撃でずり落ちて、
「……んなわけねーだろ…………」
ついでに、上着も肩からずり落ちた。