エピローグ
レテリアは、目覚めて窓の外を見る。
その日は、雨だった。
◇
エイデンは、目覚めて窓の外を見る。
その日は、快晴だった。
◇
「う~……」
その日、全然ニーナは落ち着かなくて、延々と城の厩でブルックバルク五世のブラッシングをしていた。
ブルックバルク五世の方は度量も広く落ち着いたもので、もう一時間近くなるだろうか。ずっとされるがままでツヤツヤになっている。されるがままにさせている方のニーナは、全然落ち着かない。一時間以上落ち着いていないし、何なら今日の朝から、もっと言うなら先週くらいから、ずっと落ち着いていない。
「お嬢様に声を掛けてもらったのは嬉しいけどさ~……」
「ヒヒン」
「え? もっと自分に自信を持てって? ありがと~! あたしにそう言ってくれるのはブルックバルク五世だけだよ~!」
「人手が足りないなら、オレも言おうか」
なにやつ、と振り返ると、そこにはそれなりに見慣れた騎士がいた。
護衛騎士クザロ。今日ばかりは、自慢の肉体を整った鎧の中に覆い隠して、短髪の彼が立っている。
「騎士ニーナ! その年でありながら次期王妃の護衛騎士に抜擢された君はすごい! 侯爵家から王宮勤めへの転向はなかなか骨の折れることもあるだろうが、慣れれば楽しい職場だ! 君の先輩からもよろしく頼むと言付かっている! これからは共に切磋琢磨して、より良い世の中を作る手助けをしていこう!」
「あ、熱い人だ……」
こんなところでいいか、とクザロは急に冷静になる。
ニーナは、たまにノスターがクザロに文句を言っている気持ちが結構わかる。この人はよくわからない。
でも、多分良い人なんだと思うから、
「ありがとう、クザロ。元気出たよ。逆もやっとく?」
「折角だからお願いしよう」
「筋肉でっかい! しっかり者! 頼りになるよー!」
「最高の気分だ……」
胸に手を当て、天を仰いだ。
本当に変な人だ、とこれからの同僚にニーナは思った。ブルックバルク五世も隣で頷いていた。
「ところで、クザロはいいの? こんなところにいて」
「ん? ああ、すでに騎士団の方の打ち合わせは終わった。と言っても、ある程度はレテリア様がご自分で制御されるとのことだからな。こちらとしては、『臨機応変に行くぞ!』と気合を入れるくらいが精々だ」
「臨機応変に気合を入れて……。良い言葉だね」
「ヒヒン?」
本当か、という調子でブルックバルク五世が首を傾げる。
が、もうすっかりニーナはやる気だった。
「ようし、頑張るぞ! クザロも頑張ってね!」
「ああ。――そうだ、ニーナ。朝食会場にあったオレンジジュースには気付いたか?」
「え? 何それ」
「やはり気付いていなかったか。あれは王宮所属の騎士なら飲み放題でな。大きな仕事の前の活力補給にはぴったりだ。それに牛乳もある。今からならまだ――」
話を聞いてニーナは、それなら急がなきゃとブルックバルク五世に跨る。
やれやれ、とブルックバルク五世は首を横に振ると、しかし気遣いの馬だ。開始時刻までに彼女の二度目の栄養補給が間に合うよう、足を速めた。
◇
正午を告げる鐘が鳴る。
式が始まる。
◇
「あ~! どうしてこう次から次へと仕事が増えるんだ!」
その日、ノスターは全然落ち着かせてもらえなくて、朝からずっと執務室に籠りっぱなしになっていた。
「だから私が仕事をやってあげると言っているじゃないですか」
「あなたはそもそもなぜこの部屋にいるんですか!? 出ていってください!」
「は? 私は遍歴聖女なのですが……」
なぜかその部屋に、ソラもいた。
だが、そのことを気にして無理やり外に追い出すなんてことができる余裕は、今のノスターにはなかった。
「ノスター、騎士団の方から人員補充の要請が――」
「南側の橋付近で局所的な雷雨が発生しています!」
「すでにレテリア様が移動をお始めになられたところですが、馬車の行く先の石畳に問題があり、護衛隊からルート変更の提案が――」
「でっけえ虎がさあ!」
こういうのが、次から次へと舞い込んでくるから。
朝からずっとこの調子で、式が始まってからはさらに倍どころでは効かない。
「人員補充は予備隊から勝手に取っていきなさい! 橋付近の局所雷雨は設置した避雷針の機能確認を、間違ってもその際屋根には上らないように! ルート変更については護衛騎士のニーナに一任していますから、その指示を仰ぐように! 虎は――虎は、クザロにでもやらせておけ!」
「大変ですねえ、次期陛下お付きの筆頭文官も」
そりゃそうだ、と言ってやりたい。
この結婚式が上手くいくかどうかが、これからの全てを決めると言ってもいいのだ。普通の式でさえ滞りなく行うのには念入りな準備が要るというのに、よりにもよって相手があのお方なのだ。苦労は倍。いや、倍どころではない。三倍四倍五倍六倍――
「ノスター様。ご出席の各家から追加でお祝いの手紙が届いております」
それ以外は、というと。
そこに置いてと指示すれば、素直に従ってくれる。机の端に置かれたその手紙の束を、勝手にソラが抜き取って、数枚をぺらぺらと読み始めた。
「殿下とレテリア様とのご婚姻、心よりお祝い申し上げます。すでに正式にこうした手紙は送らせていただいたところで、となればこれは単に私的な内容も含む文面なのですが、ご結婚の日が近付くにつれて我が領では日に日に豊作しきり、病気が快癒、先日は生き別れの甥との再会も叶い、これはもう天の思し召しでございます――」
ふうん、とソラは興味深げに頷いた。
「私が本気になってもここまでは難しいかもしれませんね。単に良い効果を生み出すだけでなく、良し悪しを足したり引いたりするのが彼女の力だから、ここまでのことができるんでしょうか」
「おかげさまで、こちらは大変なんですがね!」
「だから私に仕事を渡してくださいって。ここならたくさん計算ができるだろうと思って来たんですよ、こっちは」
邪魔するなら帰ってください、とノスターは伝える。だから手伝いに来たんですって、とソラは言う。まさかこの人はいちいち「これは国家事業でもあるので遍歴聖女であるあなたの手を借りるわけにはいかないんですよ」なんてことを言わなくちゃわからないのか、とノスターは思う。絶対そんなわけがなく、本当にただ欲望に従って粘っているだけなんだろうなとも、悲しいかな最近の付き合いの中で痛いほどわかってきている。
しかし、と手紙を勝手に漁りながらソラは言う。
「なかなか良い結婚じゃありませんか?」
「それはどうも、お祝いの言葉をいただきまして。殿下の家臣の一人として謹んで御礼申し上げます」
「レテリア様の不運と幸運の取引は、非常に国にとって有用ですよ。単純に、具体的な形を持った不運と引き換えに国全体に曖昧な幸福をもたらすことができるわけですから。しかも彼女からしてみれば、エイデン様との結婚は降りかかる具体的な不運への対処策として最大のリソースを得ることを意味しますし――」
「どうしてそう夢のないことを言うんですかね、あなたは」
油断したせいだと思う。
忙しかったせいだと思う。
ノスターは、しばらく自分が何を言ったのかわかっていなかった。ただ、急に聖女が静かになったなというくらい。その間に仕事を捌くこと二つ四つ七つ、ようやく「静かすぎるな」と気が付いて、記憶を探って、思い至る。
今、自分は何と言った?
顔を上げると、ずっとそうしていたのだろうか、ソラは驚いたように口を手で押さえていた。
「失礼しました、ロマンチックさん」
「んな、」
「お二人は利害関係ではなく、好き合ってご結婚されるのですよね。たまたま噛み合っているのは運命です、運命」
やたらに愉快気にへらへら笑う彼女に、ノスターは返すべき言葉をなくす。だって、自分が言ったことだから。仮に自分以外の人間が言っていたら、今ソラが見せているのと似たような態度を自分も取るだろうから。
本当に珍しく、言葉に詰まった。
「まあでも、私だってそういう気持ちがないわけでもないですよ」
そしてソラも、引き際を弁えている。
彼女はいつまでも笑ってはいない。すうっと真剣な顔になる。窓辺に寄る。ついノスターは、それを目で追う。
彼女は、呟いた。
「誰かの幸せを好きなだけ祈れるようになるって、それ自体が幸せなことですから」
きっと良い方と結婚されるのだと思います、と。
その言葉でふと、ノスターは思い出した。
そうだ、目の前にいるのは光の神に選ばれた人。
大陸中で尊敬の眼差しを受ける遍歴の――
「あ、子どもが手を振ってる。私は親切なので答えてあげましょう、えいっ」
「――やめてくださいその目を光らせるのを今すぐ!」
目から光線を放つ人だ。
びっくりしてノスターは立ち上がる。案の定、窓の向こうからこちらを見ていた子どもたちはその光景に絶句している。
「どうするんですかあの子たちが幼少期の恐怖体験としてこの光景を記憶してしまったら!」
「ははは」
「はははじゃありません!」
どうしたんですかそんなに怒って、と何食わぬ顔でソラはこちらを見る。もう目を光らせてはいない。この妙に押し引きが上手いところがこの人の厄介なところだと思っていたら、
「でもこれ、光の神が一番好きな一発芸なんですよ」
「は?」
「これがウケたから聖女の肩書も貰ったんです。あんまり要らないと思ってたんですが、あればあるで便利ですね」
思考が止まる。
「……は?」
もう一度言う。
固まっているノスターの胸の中、書類の束にソラは「もーらい」と手を伸ばした。
◇
すでに式場には、幾人もの招待客が座っている。
◇
「…………」
「いつまで不安そうにしているのですか」
その日、侯爵と侯爵夫人はずっとその調子だった。
式場は、驚くべきことに王宮ではなかった。王都の大広場。夏でもなく冬でもなかったのが幸いと言うほかない。屋外の、しかしこじゃれた屋根の付いた客席に、二人は座っている。
後ろには、レテリアの兄と妹もいる。
「楽しみですね、お兄様!」
「ああ。あの小さかったレテリアがこうして誰かと結ばれる日が来るとは……感無量だ」
「お兄様はもう大きいですけどいつ誰かと結ばれるんですか?」
「今日一日その疑問は忘れてみないか?」
はしゃいだ二人とは対照的に、侯爵と夫人は小声でこそこそ話している。
「いい加減にしてください。もう二人を認めることにしたではありませんか。この一年、あの婚約破棄の騒動を補って余りあるほど頑張っていたのを見てきたでしょう」
「いや、気にしてるのはそこじゃない」
「……ではどこです」
「この仮設の客席、レテリアが作ったのだろう。あの子にこんな才能があるなんて……。どうする、王妃としてだけでなく、建築家としても歴史に名を残すほどだったら」
「別にいいのでは」
「不安にならないか!? この先あの子は王妃でありながら建築のために会社を興し、様々なライバル会社と鎬を削るような壮絶な日々を送ることになるかもしれない……。いや、一大都市計画の責任者として波瀾万丈の生涯を送ることになるかも……」
「…………」
夫人は眉間を押さえた。
「……仮にそうだとして、それはまた別の話でしょう」
ぱしん、と。
周りには見えないように、聞こえないように、侯爵の背中を叩いた。
「しっかりしてください。あなたは子どもたちのお手本になる人なのですよ。それは子が結婚しようが変わりません。それに今日は、ほら」
あちらに、と目を向けて、
「ご先祖様もいらっしゃっています。侯爵の位にあるあなたがしっかりせずして、どう顔向けするおつもりですか」
そこまで言われると、侯爵もようやく『その調子』をやめるきっかけを得たらしい。
彼の背筋が伸びていく。いかにも王太子妃の父親らしい威厳ある座り方で、その時を待ち始める。
「なあ、」
けれど、最後に一つだけ。
「今度は何ですか?」
「私と結婚してくれて、ありがとうな」
夫人は、意表を突かれた顔をする。
隣に座る夫の顔を見ようとして、しかしそうはしない。彼女はふ、とほんのり口元で笑う。少しだけ瞼を下ろして、静かな、優しい声で言う。
「お互い様です」
◇
そして最後に、二人は現れた。
◇
それは非常に奇妙な光景だった、と後に人々は語る。
空が、真っ二つに割れていたというのだ。
片や、清々しいほどの快晴だった。真っ青な、手も届かないくらいに高い空。新郎は太陽を背負って来たかのように、胸を張って現れる。
もう一方は、しかし驚くほどの荒天だった。強風に渦巻く空と、輝く雷。新婦はどれだけの苦難を超えてきたのだろう、雨雲を引き連れて現れる。
二人の間には、一人の男がいる。
結婚式にはお決まりの役だ。二人のこれからの始まりを見届ける、お節介な人。しかしこの場に集まった人々というのは多かれ少なかれ似たような傾向を持っているものだから、その男がどれだけの美貌を誇っていたとしても、大して注目されもしない。
みんなそれより、主役の二人に夢中だった。
どうなるのだろう、と見守っていた。
新婦が一歩近付けば、大嵐が新郎に一歩近付く。
新郎が一歩近付けば、太陽が新婦に一歩近付く。
ここまで新婦を送ってきた騎士たちも、いくらなんでも限界が来たらしい。もうほとんど動くこともできなくて、それ以上は何もできそうにない。
あと三歩、
新婦が足を止めた。
どれだけ守られても、完全ではなかった。華やかなドレスは雨に濡れ、裾には泥が跳ねている。風に髪は崩され、彼女自身、いくつもの苦難を超えてきたのだろう。頬には汗すら滲んでいる。
「見ての通り、」
彼女はそれでも、笑って言った。
「不吉な女でございます。
それでも私と、結婚してくれますか?」
新郎は、何か気の利いたことでも言おうとしたらしかった。
彼の口が開く。もちろんとか、そうは見えないとか、こっちには幸運の女神が付いているだとか。こちらこそとか、どうか私と結婚してくださいとか。
あるいはもっと単純に。
愛してる、だとか。
そんな言葉が無数に舌の上で、喉の中で、胸の奥でもつれ合う。でも、どれだけ声にしたいことがあっても、一度に言えるのは一つだけだ。
だから選ばれたのは、もっとも単純な二文字だった。
「――はい!」
新郎が駆け出す。
新婦は驚いて、けれど相手の表情を見て、すぐにその顔をほころばせる。
三歩、
二歩、
一歩――
空を見上げる。
それはそれは、美しい虹がかかっていた。
(了)




