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14 運命



 侯爵令嬢レテリアは不吉な女である、と。

 その噂を初めて耳にしたとき、エイデンはそれほどその噂を気に留めなかった。


 別に、大した問題ではないからだ。幸不幸の偏りなどというものは誰にだって、人生のある時期には訪れるものだ。自身の暗殺を狙った犯行ではないと結論付けられれば、それ以上は大して意義のある判断でもない。王宮の噂も、有力貴族からの探りも、どこ吹く風と受け流して過ごした。


 しかし問題は、聖女が彼女を見て「不吉だ」と言ってのけたという噂。

 この噂の元になる事実を、一体誰が洩らしたのかということだ。


 自分ではない。クザロでもない。失言の直後にレテリアに謝罪を始めた聖女ソラでも、おそらくない。もっとも可能性が高いのはノスターだが、彼は結果的にこちらの心情に反する形で物事を進めたことは幾度もあるが、積極的に自らその流れを作ったことは、エイデンが知る限りでは一度もない。


 ではその場に居合わせた聖職者の誰かか、と顔を思い出そうとするうちに、まだ疑っていない、より主要な人物がそこにいたことに気付く。


 レテリア。


 もしも彼女が自分から噂を流して、この婚約を終わらせようとしていたとしたら?





 今、そのときに抱いた疑いの答えが、エイデンの目の前にあった。

 レテリアは大きく目を見開いている。人里から遠く離れ、星月眩ゆい夜空を瞳に映して、自分を見ている。


「……気付いて、いたのですか」

「半信半疑ではあったがな。だが、そう察していなければ――」


 婚約破棄などしなかった、と。

 続けてしまうのは、いかにも言い訳がましい気がした。エイデンは言葉を呑み込む。


「訊いていいか」

 代わりに、新たな問いかけを口にした。


「どうして、そうしようと思ったのか」


 レテリアは、一度顔を伏せた。

 答えにくい問いには違いない。だからエイデンは待った。彼女に重圧を与えないように視線を逸らす。空を見上げる。吐いた息はまだ、白くならない。


 白くなるまでは、ここにいられそうにもないと思う。

 彼女の答えが、自分の聞きたくないものであったとしたら。


 あるいは――その逆のものであっても、いずれにせよ。


「……耐えられなくなりました」


 ぽつりと、懺悔のようにレテリアが言った。


「私の隣にいると、殿下はご苦労ばかりなされます。今日のことも、そうですが」


 彼女が言っているのは、とエイデンはその意味を理解する。

 山の上での落石のことだろう。大きな怪我なく防ぐことはできたが、確かに、危ない場面ではあった。


「子どもの頃はここまででもなかったんです。段々と、呼び寄せる不運も大きくなってきているという自覚がありました。……だから、これ以上酷いことになる前にと」


 大変申し訳ありませんでした、と彼女が頭を下げようとする。


「いい」

 それを、エイデンは止めた。


 これもまた、気付いていたことなのだ。二度、三度と事故に巻き込まれるにつれ、レテリアの顔に浮かぶ憂いは深いものになっていった。だからそれを払拭できないかと試みて、失敗して、


「耐えられなくなったのは、俺も同じだ」


 彼女の肩が震える。

 見逃せなくて、慌ててエイデンは彼女の方へと振り向く。


「待て、そういう意味じゃない」

「……では、どういう」

「俺は――」


 言葉につかえたのは、一度も伝えたことのないことだったからだ。

 好きだ、とは何度も伝えた。彼女が落ち込んでいるたびに、その曇り顔を晴らせるように。俺は君が好きだ。だから大丈夫なのだと、何度も何度も、彼女を安心させたくて口にしてきた。


 他人のための言葉は、口にするに容易い。

 その反対は、ずっと難しい。


「君の前では、格好悪くいられると思ったんだ」

 それでも、一番最初の思いを言葉にした。





「王になるために生まれ、そのために育てられた」


 そうしてエイデンの口から出てきたのは、レテリアの知らない彼の姿だった。

 君もわかるだろうと言われれば、侯爵家の娘であるレテリアにも、頷くところがある。


「勉学に剣術、各種の文化的な教養を修めるのはもちろんのことだ。同じ年代の人間と並べば、後れを取ることは許されない。何より権威を保つために必要なことは、完璧であり続けることだ。……だからな、」


 彼の瞳は、優しい。

 遠い過去を思うようでもあり、あるいはただ、自分だけを見つめているようにも見えた。


「最初のデートで水道管が噴出したのにぶっ飛ばされたとき、何もかも終わったと思った」

「え、」


 なぜ、と言葉にすることができなかった。

 話の流れから、どうして彼がそういう思考に至るのか、もう理解できていたからだ。


 それでも彼は、そのまま続けて、


「あの日の俺はひょっとすると君には余裕に見えていたかもしれないが、そんなことはなかった。城下を好きに出歩いたことなんて、それまではほとんどない。恥をかかないようにと、いかにもそういうことに慣れて見えるようにと、君との婚約が決まってから勉強したんだよ」


 余裕なんかなかった、と。

 恥ずかしそうに、笑った。


「それで折角完璧なデートコースを整えたのに、身体はずぶ濡れ、予定は頓挫。そのうえ水に吹っ飛ばされて情けなく地面に倒れ込んでる。大失敗だと思ったよ。背筋が凍った」

「でも、」


 言うべきことは、きっとこっちだ。

 ずっと思っていたことなのに、一度も言葉にして伝えたことがないかもしれない。


 今更でも、間に合うだろうか。


「殿下は、」


 声が震える。

 小さな小さな、蛍の光のようにか細い声になって、


「格好よかった、です……」


 いつも、と付け足したのは、きっと聞こえていない。

 それでもエイデンは、その言葉を受け取ってくれた。


「だから、君の前でなら失敗してもいいと思えた」


 浮かんでいるのは、清々しい笑顔だった。


「ずぶ濡れになった着替えに、新しい服を選び合うのが楽しかった。崖崩れも……まあ、洒落にはなっていないが。その後の地質調査なんかは、一緒にやっていて楽しくなかったか? シャンデリアが崩れた状況を再現するために二人きりのコンサートをしたのも、秘密めいていて楽しかったし……何より、あれが飛び散ったときの景色は幻想的でとても綺麗に見えた」


 彼の言うことに、頷くところがないわけではない。

 そうだ。どんな不幸に見舞われても、彼の隣にいれば楽しかった。一人きりでないことがこれだけ心強いこととは思わなかった。そしてそれが、本当は単に『二人』であるから生まれる感情ではないことにも、多分、自分は気付いていた。


 本当は――



「どんな目に遭っても、格好悪くて、情けなくても。

 君が最後に隣で笑ってくれるなら、それでいいと思えたんだ」



 この人だから。

 この人の隣だからだと、気付いていた。



 だが、とエイデンは続けた。

 その先に続く言葉を、レテリアはもうわかっている。


「そうもいかなくなった。それだけじゃ、どうにもならないと思った」

「……私が、笑わなくなったからですね」


 心当たりは、山のようにある。


 次に襲い来る不運への不安が、不運を乗り越えた安心を上回り始めた。

 好きな人に会う喜びが、好きな人を傷つけてしまうかもしれないという懸念に、塗り潰され始めた。


 だから、と彼は言う。


「『俺じゃない』のだと思った。君の隣にいて、君を笑顔にするのにふさわしい人は、他にいるのだと」


 ようやく、とレテリアは思った。

 ようやく、自分のしたことの重さがわかってきた。


 あのとき――婚約破棄をしてもらえるよう仕向けていたときは、彼のことを心配しているようで、その実、自分のことばかりだった。自分の悲しみや傷ばかりに目を向けて、これからのことが不安で、一人でも生きていけるようになれたらと、そればかりで。


 隣にいた人がいなくなることに、エイデンがどう思うのか。

 本当のところ自分は、全くわかっていなかったのだと、今更思い知った。


「私は、」


 レテリアは思う。


 自分がこれから口にする感情は、その埋め合わせになるだろうか?

 こんな自分勝手で、ただ子どものように心に従うだけの言葉は、過去の自分の仕打ちを慰めるに足るものだろうか?


 わからない。

 ただ、聞いてほしくて声に出した。



「私には、殿下以上の方などいません」



 驚いた顔をしたのは、どういうわけだったのだろう。

 まさか彼がそんなことを知らなかったわけもあるまいに。それともここまで散々逃げ回ってきた自分がとうとう観念したことを意外に思ったのか。レテリアは考えるけれど、それだって不思議なことではないはずだと思う。


「……本当はな」


 だって、こんなところまで追ってきてもらえて、嬉しく思わない人がいるはずなんてないのだから。


「別に、ここまで来たのは聖女と引き合わせることが目的じゃない。結局、君のいない日々に耐えられなくなってな。今更だがやっぱり結婚してくれないかと、未練がましく縋りに来た」

「へ」


 間抜けな声が出た。

 エイデンが笑う。


「まさか、気付いてなかったのか?」


 気付いていた、と強がることだってできた。

 それを躊躇ったのは、その強がりの先に何が待っているかを理解してしまったから。もう一度と言われて、それを受け入れたらどうなるか、自分でわかってしまっているから。


 何も言えずにいれば、


「一つ、賭けをしないか」

 と、エイデンは言った。


「賭け?」

「そうだ。まあ……自分から言うのもなんだが、俺たちは今、お互いに探り合ってる。どこまで言っていいか、そのことがどういう効力を及ぼすかを気にしすぎて、何も言えなくなっている」

「……はい」

「だから、賭けをしよう」


 とうとう二人は、向かい合った。

 とても静かな夜だった。風は穏やかで、月明かりは眩しい。前の昼とも次の朝とも切り離された、ここにだけしかない時間の中に立っているような、不思議な気持ちを思わせる秋の夜。


「祈ってくれないか」


 確かめてみよう、と彼は言った。


「君の力が実際にそういうものなのかを調べるだけじゃない。……ここに来るまでの間、ずっと考えていた。どうやったら君の隣にいられるか。そのほとんどは君がこの場所で運命の神と出会ったことで、君が自分がどんな人間なのかを深く知ったことで無駄になってしまったけれど、それでも一つ、言えることがある」


 君が、

 私が、


「俺の幸福を祈ってくれて――その反動として訪れる不幸を体験して、それでも笑っていられたら」


 もう一度、


「俺と婚約して、これからのことを考えてくれないか」


 それは、誰に向けた賭けだったのだろう。

 自分とエイデンとの間に存在していた、勝ち負けのある賭けだったのか。それとも、二人揃って何か、もっと大きなものに立ち向かうための賭けだったのか。


 このとき、レテリアはわかっていない。


「……わかり、ました」


 ただ、そうしてみたくなっただけだ。


 意識してそれを起こそうとするのは、初めてのことだった。両の手を胸の前に組む。これで合っているのだかもわからない。脳裏に浮かぶのは聖女ソラが教会で祈りを捧げたときのあの姿だけれど、あれだってそのまま真似することはできない。精々が、参考になるくらい。


 瞼を閉じて、胸の奥に心を向ける。

 だというのに、耳に聞こえてくるのは心音でもなく、隣に立つ彼の気配だけだった。


 どんな不吉が現れるだろう? 不安になる。今までよりもずっと。お互いが言葉にできることを少しずつ声にしただけで、こんなにも気持ちが強くなってしまったから。漠然とした祈りが色を持って、温かな形を得ていく。それが美しければ美しいほど不安になる。こんなものをあなたに手渡せたら、どれだけ綺麗な花束になることだろう。


 花束を手渡して、そっと去ることができたなら、どれだけ幸せなことだろう。

 それ以上を求めてしまうのは、どれだけ罪なことだろう。



 それ以上の幸せを、どうしたらあなたに与えられるだろう?



 賭けが始まる。

 突風が吹いた。


「――――」


 獣の叫びのような音に、しかしレテリアは身を縮こまらせはしなかった。自分がどうするべきなのかは、まだわかっていない。でも、何がしたいのかはわかっている。


 エイデンを傷付けたくない。

 距離を取ろうと、山道に慣れた足を躊躇いなく踏み出す。


 それが、きっかけになった。


「わ、」

 いつからこんなに、地面はぬかるんでいたのか。


 ほんのわずかに、靴の裏が滑った。これもまた山歩きのために急ごしらえしたものだ。体重のかかり方が変われば、容易く壊れてしまう。それでも咄嗟に、レテリアは周囲を見回す。これ以上の不幸がないかを確かめる。


 ない。

 突風だけだ、と確信した。


 あれだけの祈りを込めてこの程度で済んだのは、何かしらのコツを自分が掴んだ結果なのか。答えが出るよりも早く、レテリアは次に自分がすべきことを理解している。


 泥の上に、一人で倒れ込む。


「レテリア!」

 それを許さない人が、隣にいた。


 エイデンの手が、こちらの手を掴む。もう片方の手が腰に回される。支えようとする。もちろんそれだけじゃ止まらない。ぬかるみは良く滑る。普段だったらレテリアの体重くらいは軽々と支えられるだろう彼は、しかし今だけは堪えきれない。同じように足を滑らせる。倒れ込もうとする。


 そのとき、彼が身体全体で自分を庇おうとしていることに、レテリアは気付く。

 たった一人で泥を被ろうとしていることに、気付く。


 そうしたら、わかった。

 その行為がどんな意味を持つのか。自分が持っていたのと同じ理由を、彼が持っていることが。相手にとってその理由と行動がどう見えるのか。それをされた相手が、どうしたいと思うのかが。


「な、」

 彼が驚きの声を上げる。でも、構いはしない。


 どしゃっと音がして、静寂。

 高い空の下、虫の声を聞く。


「――やるな」


 先に声を上げたのは、エイデンだった。


「完全に不意を突かれた」


 両方ともだった。


 レテリアは、エイデンと地面を分け合っている。遊び疲れた子どものように、何の恥じらいもなく泥を被って、それでもお互いに傷一つないまま、二人揃って倒れ込んでいる。


 もしかすると、と思う。

 初めからこうできていれば、何かが変わったのだろうか。庇ってもらったときに、庇い返すだけの強さがあれば。あるいは、庇ってもらったときに、素直にそれを受け入れる度量があれば。


 あるいは、


「ダメでしたね」


 こんなことに、気付かないでいられたら。


「何がだ」

「確かに、少しだけ制御できるようになったと思います。それに、殿下も私を守ってくださいました」

「守られたとも言えるようだがな」

「でも、来たのは不運だけです」


 続くものが、どこにもなかったから。


 仮説は間違っていた。不運の後に、幸運が来たりはしなかった。そのことに気付かないでいられたら、無邪気に喜んでいられたのだろうか。


 涙を堪えるために、瞼を閉じる。


「なんだ、気付いていないのか」


 当たり前のようにエイデンが言うから、もう一度開いた。


 探してみる。何もないように見えた。泥も、土も、空気も風も、星も夜空も輝く月も、何も変わらないように思えた。


 答えを求めて、彼を見た。




「君を抱きしめる口実ができた」




 片方の手は、握り合っていた。

 もう片方の腕は、お互いの腰に回っていた。


 今までで一番、二人は近付いていた。お互いの髪が触れ合ってしまうくらいの、お互いの鼓動が伝わってしまうくらいの距離。


 エイデンは、笑っている。


「――そ、んなの、」


 こんなことで、とレテリアは思った。こんなことで、割り切れてしまうものなのか。結論付けてしまえるものなのか。


 だったらそんなの、いくらでもこじつけようがある。何がどうなったって、いくらでも後から理由を付けられる。こんなの初めから決まっていた。決めていた。


 それなのに、それを撥ねのけようだなんて、全く思えなくて。

 同じ気持ちでいることが、こんなにも嬉しい。


「賭けに、なってません……」


 こんなので、本当にいいの?

 こんな簡単なことで本当にいいの?


 エイデンの胸に頬を寄せる。問い掛けるように、涙が流れて彼を濡らす。

 エイデンは、頷いた。



「これぞ運命の思し召しだ」



 あまりにも自信満々の口調で言うものだから。

 レテリアはつい、釣られて笑ってしまった。



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