11 開けてください
「それにしても遅いな」
とは、ニーナの隣で謎のおじさんが言ったことだ。
確かに、とニーナは思った。もうお茶は二杯目だ。だというのに、いまだに走って山の奥に向かって行ってしまったレテリアとエイデンの二人は帰ってこない。
「ね。遅いね」
「どこまで行ってしまったんだか。おてんばな子だなあ」
えー、とニーナは不平の声を零そうとした。
あんなおしとやかなお嬢様を捕まえておてんば呼ばわりとは何事か。しかし、その声が零れてくる前にふと思考が立ち止まる。山の中に籠って、家が燃えたのに自力で立て直して、少なくとも自分が今も大して心配せずにいられるくらいにはたくましい人。そう考えると、おてんばという言葉に対する反論が浮かんでこない。自分がもっと小さい頃に散々言われたその言葉に、むしろ肯定的な評価を与えるべきなのではないかとも思えてくる。
何にせよ、
「ちょっと見てきましょうか」
椅子を引く。立ち上がる。謎のおじさんが「ああ、すまないね」といかにもおじいちゃんみたいなことを言う。
そのときだった。
コンコン、とノックの音が聞こえてきた。
おや、と流石にもう服を着ているおじさんが腰を浮かせる。
「戻ってきたかな」
「違うと思うよ」
ほう、とおじさんは興味深げな顔をして、
「音でわかるのか」
「ううん。そもそもお嬢様だったらノックしないでしょ。自分の家なんだし」
ああ、と平手に拳をぽんと打つ。不審者だったら危ないからと、先にニーナが席を立つ。
「はーい」
扉を開けると、立っていたのは複数人。
一番前で口を開いたのは、眼鏡の人だった。
「突然の訪問失礼。我々は第一王子エイデン殿下の供の者です」
くい、とその眼鏡を押し上げて、
「こちらに殿下がおられるかと思ったのですが」
「あ、今外に出ちゃってて」
「外に? ……外?」
ニーナは、こういういかにも王宮でバリバリに働いていますという手合いの相手が全然得意ではない。一体どこが失礼になるポイントなのかわからなくて、緊張する。
でも、立ち話をさせていていい相手ではないんだろうな、ということはわかった。
「そうです。とりあえず入――わ、」
「ニーナくん」
彼らを招き入れようとしたときのことだ。
ぐい、とニーナは後ろから腕を引かれた。眼鏡の人が驚いた顔をする。そりゃそうだと思う。その上、ばたんと扉まで閉まる。
家の内側からそういうことができる人は、ひとりしかいない。
謎おじさんが、珍しく焦った顔をしていた。
「今のは誰だい」
「え? あ、さっきの殿下のお供の人だって言ってたけど」
「うち二人はな。残りの一人だよ」
「誰?」
くいくい、とおじさんが合図するから、ニーナはそれに釣られるがまま扉に張り付く。ドアスコープの前。誰が来たのか確認しないで開けるの絶対危ないですよ、というニーナの忠告を元にしてレテリアが作ったもの。
「ほらあれ。あの女」
「『女の人』でしょー」
どれどれ、とおじさんと入れ替わりでニーナはドアスコープに顔を付ける。
いるのは三人だ。さっきの眼鏡の人。一番後ろに控えているすごい筋肉の人。そしてその真ん中。背の高い人ふたりに囲まれているからパッと見たときはあまり印象づかなかったけれど、改めて見れば意外と外見に特徴がある。
「あのなんか……聖なる感じの人?」
「そう。そいつ」
「『その人』でしょー。えー、わかんない。あたし先輩から外で遊んで来いって言われちゃったから、今日誰が来るか聞いてないんだよ」
でも、と扉から離れる。
何も言わないのもなんだから、適当なことを言ってみる。
「聖なる感じだし、聖女様とかなんじゃない?」
「聖女?」
何を訊ね返されたのか、最初はわからなかった。
わかって驚く。
「え? おじさん、聖女様のこと知らないの」
「なんだそれは」
「光の神様に選ばれた人」
今度は、おじさんの方が驚く番だった。
絶句、という顔をしている。何かの間違いであってくれれば、という感じの表情を見せた後、もう一度ドアスコープにかじりつく。
止まる。
呟く。
「何考えてんだ?」
◇
「それにしても、意外な健脚だったな」
好きになるなという方が無理な話だ、と。
山道で手を引かれながら、レテリアは俯いて、静かに考えている。
「本気で走って追い付けないなんてことがあるとは思わなかった。元々か?」
「……走ってみたら、意外と……」
「そうか。子どもの頃ならともかく、なかなか大人になってからは本気で走る機会などなくなるものだからな」
思い出すまでもなく、この人はずっとこうだった。
街中で水道管が破裂したときもそうだ。ものすごい放水から自分を庇ってくれて、吹っ飛んで、なのに「大丈夫か」と自分を気遣ってくれた。同じことを訊ね返せば、「夏だから涼しくなってちょうどいい」なんて言って笑った。
崖崩れにあったときやシャンデリアが落ちてきたときは、流石にユーモアを足すことができないくらいには焦って見えたけれど、それでもやっぱり、彼は最初に「大丈夫か」と訊いてくれた。大丈夫だと、怪我はないと、そうやって伝えると、本当に心からそう感じているかのように「よかった」と言って笑ってくれた。
そういうところが、全部好きだった。
別れを告げて、忘れたつもりになって、それでも顔を合わせれば、その気持ちを思い出してしまうくらいに。
「――すまなかったな、驚かせて」
エイデンが言うのに、顔を上げた。
そうだ、と今更のことを思う。訊ねようとする。殿下は今日、どうしてこちらにいらしたのですか。
それを直前でやめたのは、期待している自分がいることに気付いたから。
「いえ」
レテリアは、そっと。
エイデンと繋いでいた手を、離した。
「今はこの暮らしですから。来客は喜ばしい限りです。こちらこそ、驚いて変な行動に出てしまって、すみませんでした」
エイデンの視線が、一瞬その離れていく手を見た。
彼の指先がわずかに動く。でも、それはもう一度こちらに近付いてくることはない。きっと、とレテリアは思っている。自分が今、彼に向けている笑顔は完璧じゃない。あれだけ泣いた後だから、目の周りだって赤いだろうし、ひょっとしたら引き攣ってもいるかもしれない。
なのに、彼は美しく微笑んだ。
「……そうか。そう言ってもらえると、助かるな」
はい、とレテリアは頷いた。
それからは、自然と会話がなくなった。森の奥深く。せせらぎの音が、高い空と冷たい土との間で、遠く反響する。
家が見えた。
そして、その玄関の前に立つ三人の姿も。
「あれは……」
全員に見覚えがあり、特にその中の二人については、そこにいる理由にも察しがついた。
エイデンの腹心であるノスターとクザロ。彼らのことを、レテリアはもちろん婚約中に多少は知っていた。エイデンがここにいるのだから、共についてきたのだろう。クザロと離れていたことを考えると、ひょっとするとエイデンは単身で自分のところに先駆けてきたのかもしれない。
なぜ、とは期待しない。
残りの一人は、なぜここにいるのだかわからなかった。
「聖女様ですか? どうしてこちらに」
訊ねれば、ああ、とエイデンは頷く。
何かを考えるような素振り。
それから、
「以前に彼女が君を見て、その……あまり良くないことを言ったのは覚えているか」
覚えていた。
不吉だ、という言葉。あの後に何度も謝罪を受けたけれど、あまりにも端的に自分を表現していたと思う。そして、今やこうも思う。
やはり聖女は、特別な人なのだろうと。
だってその言葉は見た目の問題だけではなく、自分の根本的な問題も同時に見抜いていたのだから。
「その件で、もしかしたら君の力になれるかもしれないということでな」
まあその、と言葉の歯切れが悪いのには、何か理由があるのだろうか。
一瞬、レテリアの頭に嫌な想像が過る。このまま家に入っていって、いざ同席するとなって、今言ったような話もして、けれど最後の去り際、二人は言うのだ。実は彼女と結婚することになった。彼と結婚します。婚約破棄したとはいえ、一度は縁を結んだ仲だから、君には報告しておきたくてな。そういうことになりました。
君の幸せを祈るよ。
私からも、ささやかながら。
レテリアはその想像をどうにか振り払おうとする。しかし、すぐに気付いてしまう。振り払わなくていい。その想像が実現したっていい。別にもう、自分には文句を言う資格すらない。
「そうですか」
声は、震えずにいられただろうか。
「でも殿下、実は――」
「ええい、いつまでもこそこそと何の相談ですか! こっちは遍歴聖女ですよ! いきなり押し入って部屋の間取りをくまなく確認したっていいんですからね!」
ものすごくでっかい声だった。
「…………」
「…………」
レテリアは何も言うべき言葉が見つからず、エイデンもまた、一瞬「我関せず」といった表情を見せる。
が、いつまでもそうしているわけにもいかず、彼の方から、
「『実は』、なんだ?」
「あ、」
そっちを続けるんだ、とちょっと意外に思いつつ、レテリアはその問いに答えようとする。
そのとき、また眼下で、
「あんまり返事がないようなら勝手に開けちゃいますよ! 食らえ光の――」
「待て待て! とんでもない奴だな!」
叫び声が聞こえる。
扉が開く。あ、とレテリアはそれを見て声を上げる。出てきたのは、最近自分が一緒に住んでいる人物だったから。
「…………あれは?」
隣でエイデンが呟く。
ちょうどいいからと、二つの質問を合わせてレテリアは答えることにした。
「実は、」
もう一度言うと、びくりとエイデンの肩が震えて、
「ご先祖様なんです」
「……は?」
「運命を司る神様をやっているそうで、とても長生きで」
エイデンはこちらの顔を見るが、それ以上は何も言わない。その気持ちがレテリアにはすごくよくわかる。自分も初めは同じ気持ちだったから。
だから、こう言って促した。
「詳しい話は、家の中でしましょうか」




