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10 だってさあ



「レテリア、待ってくれ!」


 なぜ、自分はそう言われているのに待たないでいるんだろう。

 どうして息を切らせながら、本気で山道を走っているんだろう?


 レテリアの頭の中には、そんな疑問が浮かんでいる。浮かんでいるのに、全然答えが出てこない。走っているからだろうか。息を切らしているからだろうか。全然、全然頭が働いてくれなかった。


 言えばいいのだ。

 足を止めて、振り返って、あの日受諾書にサインしたときみたいに、微笑んで、エイデンに向き合ってみればいいのだ。


 お久しぶりです、殿下。

 本日はどうされましたか?


 別に、大した答えは返ってこないはずだ。

 きっと婚約破棄の関係で何か問題が発生したのだろう。記入するべき書類が他にもあったとか、どこかに顔を出さなければいけなかったとか。手紙の一通でもくれればそれで済むのに、エイデンは律儀だからわざわざここまで自分で足を運んで頼みに来た。そうに決まってる。


 それ以外に考えられない。

 だって、もう何の関係もない人なのだから。


 きっと振り返ってみれば、一分も経たずに済んでしまうようなことだ。こうして自分が逃げ回っているのなんて、向こうからすれば驚くくらいに大袈裟なことで、そのくせ山道を走り慣れてしまったせいでなかなか捕まらないものだから、迷惑極まりないに違いない。


 そこまでわかっているのに、足を止められないのはなぜ?

 振り向くことができないのはなぜ?


 少し話をして、さようならを言うことができないのは――


「頼む! 君が嫌ならこれ以上は近付かない! ただ、」


 話を、と発するエイデンの声が濁った。


 もう、ほとんど無意識的なことだ。レテリアはその声に釣られてしまう。これまでまるで止まらなかった足が、まるでそうするのが当然のように速度を緩める。山の奥でゆっくりと、彼女は振り向いていく。


 どうか、

 どうか大怪我なんてしていませんように。


「――――よかった」

 思わず呟いた。


 ただ、落葉に足を滑らせただけだったらしいから。エイデンはしっかりと近くの樹木に寄り掛かって、自分の身体を支えていたから。


 何の怪我もない。


「あれ、」

 両足の骨折は、と思ったその瞬間のことだった。


「レテリア!」


 エイデンが叫ぶ。なぜ叫ばれたのかレテリアはわからない。彼の表情が険しい。両足で力強く地面を蹴って駆け出している。自分を見ている。いや、


 もっと後ろ?

 振り向く。



 山の上から、落石が――





「よかったのかい、ニーナくん」

「はい?」


 お茶を飲んでいた。

 レテリアとエイデンが走り去った後の話だ。


 ニーナはこの家の中に入るのは初めてではない。そして、目の前にいるどこから湧いたのか定かではない、とりあえずレテリアの知り合いらしいということだけはわかっている謎のおじさんと会うのも、同じく初めてではない。


 レテリアが作ったテーブルの上に、レテリアが作ったカップを置く。

 謎のおじさんと並び合って座って、そんな質問に首を傾げている。


「君、一応騎士なんだろう」

「『一応』要らないです。騎士です、ちゃんと」


 おっと失敬、と謎おじさんは言って、


「あれは誰なんだい。自己紹介する暇もなく走り去ってしまったが」

「第一王子様だそうです」


 ほう、と頷いた。


「あれがか」

「あれとか言っちゃダメですよ。偉いんだから」

「偉いとか以前に人に向かって『あれ』なんて言っちゃダメだぞう」


 わかってるんならなんで言うの、と呆れた目でニーナは言う。

 君の敬語がままならないのと同じ理由かな、とおじさんは言う。


「まあつまり、つい出てしまうということだな。しかし、そうかそうか。ということは、あの子がうちのレテリアを振った男ということか」


 まあ、とニーナは頷く。

 人の口から聞くとわかるけど、あんまりこういうことはわざわざ口に出して言わない方がいいんだな、と思う。どういう理由なのかはわからないが、何となく居心地が悪くなる。


 ふうん、とおじさんがこっちの横顔を見つめてきた。


「何ですか」

「意外だと思って。君の普段の献身ぶりから見ると、第一王子が相手だろうがぶっ飛ばしちゃうかと思った」


 それに、と付け加えて、


「よかったのかい。あの二人、あのまま放っておいて」


 確かに、とニーナは思った。

 このおじさんは年下の人間の扱いに慣れているらしい。何だかおじさんを通り越して、昔から知っているおじいちゃんと話しているような気分にもなる。


 実際、いつもの自分だったら、というか昨日までの自分だったら、ここでこうしてのんびりお茶なんて飲んでいないだろう。自分のことだから、かなりはっきり目に浮かぶ。第一王子だろうが何だろうが、お嬢様にひどい扱いをしたやつなんて絶対許せない。勝手にふらふらどこかに行かれるよりはあたしがついていた方がいいだろうと思ってここまで一緒に来てやったけど、事ここに至っては我慢の限界だ。


 お嬢様があの人に会いたくなくて山の中に逃げていったんだったら、その願いを絶対に叶えてやる。


 不敬も何も覚悟の上で全力タックル。地面に押し付けて、さあ今ですお嬢様この不逞の輩からお逃げください私がいなくなったら後のことは頼んだよブルックバルク五世――


「だってさあ、」

 そんなことにならなかった理由が、はっきりと自分でわかっている。


 冬が近付いていた。温かいお茶から湯気が上る。その白色の中に、ニーナは記憶を見る。

 エイデンを見た瞬間の、レテリアの、


「あんな顔、見ちゃったんだもん」





 衝撃の後に、激しい痛みが来るのだと思った。


 いくら山に慣れたといっても、不意打ちには対応できなかったから。警告の声を聞いてから レテリアができたのは、せいぜい頭を抱えて、ぎゅっと自分の体を抱きしめるくらい。それでも、酷い目に遭うのは慣れていたから。この種のことは初めてではなかったから。覚悟はできているつもりだった。


 なのに、いつまで経っても痛くならない。


 落石が通り過ぎていった音がして、静かになって、それでも想像していた『もっと強い衝撃』が、やってこない。


 その代わりに、ほのかに暖かい。


 もう秋も終わりに向かいつつあるのに。冬の気配が忍び寄る山の中だというのに。さっき手から籠を落としたときみたいに、顔に熱が灯るほど、耳まで赤くなるほど、暖かい。


 目を開ける。


「大丈夫か?」

 すると、ひどく近くに人の顔がある。


「だい……」

 これも、レテリアにとっては初めてのことではなかった。


 街を歩いていて、水道管が破裂して水を噴き出したとき。海を見にいって、足場の崖が崩れ始めたとき。コンサートに行って、シャンデリアが落ちてきたとき。


 いつも、こうしてくれた。


「大丈夫、です」


 なのに、いつまで経っても慣れなくて。

 覚悟なんか、できるわけなくて。




「そうか、よかった」

 その笑顔を見るたびに、こんなに胸が苦しくなってしまう。




「……う、」

「――!?」


 ぼろり、と瞳の端に冷たい感触が生まれるのが自分でわかる。嘘だ、とレテリアは思う。


「ど、どうした! 怪我か!」

「ちがいます……」


 折角頑張って、笑ってさようならを言えたのに。

 結局こんな風になって、全然格好なんかついていない。


 泣いているレテリアよりも、エイデンの方がずっとひどい焦りようだった。どこだ、どこに当たったなんて言って、おろおろと心配を続ける。だからレテリアの涙は余計に止まらない。もっと上品な泣き方だっていくらでもあるだろうに、そんな風に上手くはできない。


「殿下は、」

 かろうじて、


「殿下は、だいじょうぶ、ですか?」


 かけてもらった分の心配を返すのが、精一杯。


 一瞬、エイデンが動きを止める。ああ、と笑って彼は答える。けれどすぐに元に戻って、どうだ歩けるか歩けないようならほら背中に来い、なんて言う。大丈夫です怪我してないですとレテリアは言う。そんなわけあるか意地を張るなとエイデンが言い返せば、後はしょうもない意地の張り合いが長々と。


 山の奥だというのに、秋だから空が高くて、日の光が妙に清々しい。



 今更なことを言う。

 レテリアは、エイデンのことが好きだ。



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