01 さようなら
足元の床が急に抜けたように感じて、レテリアはペン先を止めた。
じわ、とインクが紙の上に染みていくのが見える。指を上げなければいけない。頭ではわかっているのに、呼吸を整えるのに夢中になって、ただ見ているだけになる。
「どうした?」
「あ、」
声を掛けられて、反射的に顔を上げた。
正面に座っているのは、第一王子だ。黄金のように輝く髪に、夏の緑原を思わせるエメラルド色の瞳。
名はエイデン。
これから、何の関係もなくなる人。
彼は机を挟んで正面。椅子に座ったままで、こちらを真っ直ぐに見つめてきている。
最後なんだから、とレテリアは指先に力を込めた。
さらさらと紙の上でインクは流れる。自分の名前は、生涯で最も書き慣れた文字の一つだ。手はすっかりその動きを覚え切っていて、こんなときでも一度走り出せば淀みなく、真っ白な紙面に美しい形で現れる。
たとえそれが、婚約破棄の受諾書の上であったとしても。
「ご確認ください」
従者がそれを受け渡せば、すぐさまエイデンはその紙を手に取る。
何の問題もなかった。彼は一つ頷く。確かに、と呟く。だからレテリアの役目はこれで終わりだ。ペンを置く。受諾書の写しを従者が再び受け取ったのを見届ける。
立ち上がる。
エイデンを見た。
夏の盛りを過ぎて、少しずつ秋の香りが満ち始めた部屋の中。薄雲に翳る日差しに半身を浸した彼は、椅子の上から動かないままでいる。
それに、何かを言いたくなる気持ちもある。
けれど言うべきことのほとんどは、もう口にしたはずだ。
だからもう、余計な言葉は胸に収めたままで――
「さようなら、殿下」
レテリアは潔く、笑って言った。
◇
「若造が、調子に乗りおって!」
受諾書への署名を終えて戻った侯爵邸では、侯爵である父が荒れに荒れていた。
そのあまりの怒りぶりに、レテリアは彼を宥めようとするけれども、そう上手くもいかない。お前は甘い、といった言葉をぶつけられて驚いていると、今度は彼は頭を抱え出す。こうなるともう、レテリアの手には負えない。
「それで、どうするの?」
話を進めたのは、同席していた母だった。
侯爵夫人である彼女は、父の様子をまるで気にしない。レテリアだけを見つめて訊ねかけてくる。
「以前に相談したとおり、」
レテリアは、母を無用に刺激しないよう、微笑みながら答えた。
「少し、自分を見つめ直したいと思っています。領地の外れの土地で、静養させてもらおうかと」
「使用人は付けないけれど、いいのね?」
はい、と素直にレテリアは頷く。母の視線は痛いくらいに鋭く思えた。心の奥までも見抜こうとしているかのような、長い時間の対峙。
「――そう。では、自分がこの家の娘であるということだけは、忘れないように」
それでも微笑みを崩さずにいれば、母はそうして頷いた。
一礼をして部屋を出る。
「レテリア!」
「姉様!」
すると、兄と妹のふたりが扉の近くで待っていたらしい。すぐに駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか、姉様。お父様たちとの話し合いは――」
妹は、今年でようやく十を数える年だ。勝気で賢い子だが、まだ幼く、打たれ弱いところもある。大丈夫、と笑って肩に触れてやれば、ほっとしたように力を緩めた。
一方で、兄の表情は厳しいものだった。
「大丈夫って……。じゃあ、またうちに戻ってくることになったのか」
こちらはレテリアより少し上の年で、父が不在の際にはすでに侯爵代理を務めることもある人だ。妹よりも、レテリアの事情を汲んでいる。
いいえ、と首を横に振ったときも、それを予想していたような顔をしていた。
「えっ、どういうことですか!」
「少し離れたところに行くことにしたの。しばらくの間ね」
妹が絶句する。
それから彼女は、レテリアよりもずっと衝動的で勇敢だった。爪先の向きを変えると、一息に大股になって、
「放してください、兄様!」
「放したら執務室に殴り込むつもりだろう」
それを、兄が羽交い絞めにするようにして止めた。
妹はまだ暴れている。こいつは、と兄が手を焼く。
「大丈夫」
だから屈み込んで、もう一度レテリアは言った。
「少し休んで、また戻ってくるから」
ね、と微笑みかける。
妹が暴れる手を止める。足を止める。兄の腕の中で大人しくなって、地面に足も付かないまま、俯いている。
「……うん」
泣きべそをかくような声に、レテリアは彼女の頭を撫でた。
◇
「では、失礼いたします」
「お嬢様、どうかお元気で」
ご苦労様、とねぎらいの言葉をかければ、従者の駆る馬車はあっという間に見えなくなっていった。
秋晴れの空だ。涼やかな空気を胸の中に取り込んで、レテリアは振り向く。
目の前には、館があった。
広い侯爵領の外れにある、人里からも遠く離れた古い屋敷だ。
扉を開けて、まずはレテリアは中に何があるのかを見て回ることにする。玄関、書斎、寝室、浴室、食糧庫……。かつてこの地に居を構えていた小貴族が残したものだそうで、それほど豪奢というわけでもなく、多くのものは古びている。
けれど、とレテリアは思う。
恐らく自分は、この館で生涯を過ごすことになるのではないだろうか。
父が取り付けた第一王子との婚約はなくなってしまった。その破棄の原因について、挽回できる余地は恐らくない。
ここで一生を生きていく。
「……うん。頑張ろう」
ぎゅっと拳を握り締めた。
そうと決まれば、移動で疲れたなんて泣き言を口にしてばかりもいられない。使用人だっていないのだ。何でも自分でやれるようにならなくてはならない。
まずは、厨房に入って昼食作りからだ。
食糧庫にはたくさんの保存食があった。料理なんてしたことはないけれど、これだけ材料があるなら何とかなるはず……なんて考えはとても甘い。包丁を握ったこともなければ、厨房に火を入れたことだってない。一つ一つが大冒険で、「えーっと」なんていちいち立ち止まっていたら、出来上がる頃にはもうすっかり日が傾いている。
塩気の強すぎる薄切り肉を挟み込んだ、味のしないパン。
明日からまた頑張ろうと思わせてくれるのだから、これだって多分、そんなに悪くはないと思う。
散らかったキッチンを片付けて額の汗を拭えば、もう夜も近付いていた。ベッドの用意も自分でして、それからお風呂だって用意する。生温い湯はあまり身体の疲れを取ってはくれなかったけれど、とりあえず、するべきことを一通りすることができたという達成感は与えてくれる。
「……疲れた」
寝室でベッドに腰掛ければ、とうとう本音が出た。
レテリアは、明日からのことを考えている。
食事はとりあえず、もっと上達させるべきだ。お風呂の用意の仕方も。これからここで暮らしていくなら掃除のやり方だって覚えないといけないし、そうなるとこれだけ大きな建物に住むということの重みもわかってくる。
「みんな、すごいなあ」
ぽす、と後ろに倒れ込む。
こんなことを毎日してくれていたんだと思うと、侯爵家の使用人たちには頭が下がる思いだった。普段からそうしていたつもりだけれど、もっと感謝の言葉を伝えておくべきだったかもしれない。自分が婚約破棄されたことで彼らの暮らしは苦しくならないだろうか。ぼんやりと、遠く離れた人たちの顔が浮かぶ。
エイデン王子の顔もまた、浮かんだ。
静かにレテリアは、瞼を閉じる。
二度と会わない人であっても、その先行きを祈ってはいけないということもないはずだ。十秒間、別れた人の幸福を祈る。自分とは上手くいかなかったけれど、支えてあげられなかったけれど、彼には良い未来が待っているといい。
雨の音が耳を打つ。
いつの間にか、降り出していた。
疲労がもたらす心地よいまどろみの中で、レテリアは考えている。ここに来てからでよかった。自分を送ってくれた彼らも降られることなく戻れただろうか。これからは天候にも気を配らなくてはならない。たとえば外に物を置いたりしていたら――そうだ、洗濯。明日朝起きたらやってみないと。それに今は秋だから、冬に備えて暖炉の点け方を覚えなくちゃならない。できるだろうか。やれなくちゃ。後は、後は――
「――あ」
眠りに落ちる直前で、気が付いた。
「窓」
全部閉まっているか、見てこなくちゃ。
恐らく閉めてはいるはずだ。入浴の前にもよく確認した。しかしキッチンで出た黒い煙を外に流すのに随分色々なところを開けたから、『絶対に』閉め忘れていないと胸を張るのは難しい。雨が吹き込んでしまわないようにと、レテリアは早足で部屋を出ていく。
結論から言えば、窓は全て閉まっていた。
暮らしの上でのちょっとした成功は、人に確かな誇りを与える。レテリアは、少しだけ気分が上向いたのを感じる。思ったよりも暗い気持ちにならず、今日の床に就くことができそうだと思う。
そのとき、ぶおお、とものすごい音を立てて風が吹いた。
「えっ」
建物を揺らすがごとき大風に、思わずレテリアの足が竦む。
その直後。
「えっ?」
がらがらがっしゃーん。
外で、とんでもない音がした。
一体何だとレテリアは窓辺に向かう。よく見えない。こっちじゃない。廊下を駆けて、音のした方へ向かう。さっきまで眺めていたよりもずっと大きな窓がある。雨は激しく勢いを増して、嵌め込まれたガラスごと地面に洗い流してしまうのではないかというくらいに、だくだくと窓を覆っている。
目を凝らすと、その向こうで何かが空を舞っているのが見える。
もっと目を凝らすと、それが何なのかわかる。
薪だ。
「大変!」
どうも、外の倉庫の扉が何かの拍子に壊れてしまって、貯蔵されていたものが風で吹き飛ばされ始めているらしい。
とんでもないことだ。薪がなければこの冬を越すことはできない。それどころか料理だって、お風呂だってどうしようもなくなる。雨に濡れたらどうなるのだろう? 乾かせば使えるのか。あるいは一度濡れてしまってはもうどうしようもないのか。
「し、閉まって――」
とにかく、吹き飛んでしまった分は仕方がない。
被害を最小限に抑えようと、レテリアは倉庫の扉に手を掛けた。
外に出てきたから、当然ざんざ濡れだ。肩を打つ雨粒が雹のように痛い。視界も利かないし、髪もほつれていく。折角あれだけ苦労して入浴した意味なんてもうどこにもなくなった。服は鎧のように重くなって、なのに手が滑るから、扉を掴むことすらままならない。
爪を頼りに、試みること一回、二回、三回、
「やった!」
四回目で閉まった。
しかし、ただ閉めただけではまた開いてしまうのではないかと心もとない。何かつっかえ棒になるものがあれば――そうだ、薪。薪をいくつか使って扉を塞げれば。レテリアは振り向いて、飛んでいってしまった薪の一つや二つが傍にないかと探してみる。けれど夜の雨天は想像以上に暗い。視界が悪く、ろくに物を見つけられそうもない。せめて明かりがあればと思う。
明かりが来た。
ごろごろごろごろ、ぴっしゃーん!
「…………」
それは、一瞬周囲を真っ白に染めるような、凄まじい明かりだった。
雨が降って風もと来れば、雷もついてくる。いつの間にか雨雲は雷雲に変わっていた。とても大きな稲妻が音もなく忍び寄り、辺りを激しく照らす閃光をもたらす。
そして、灯火ももたらした。
雷は一番高いところに落ちる。
このあたりで一番高いのは、レテリアが今日から暮らすこの館である。
館のてっぺんが、蝋燭のようにめらめらと燃えている。
「どうして……」
ところでレテリアは、結構気丈な性質の娘である。
今日一日の生活を見るだけでもそうだ。普通の侯爵令嬢なら、遥々何日もかけて馬車に乗ってきたら、それだけで疲れて動けなくなってもおかしくはない。さらにそこから全くやったことのない家事に精を出すなんて、夢のまた夢。家族も使用人もいない場所でたった一人というだけでも、心細さに泣いたっておかしくない。令嬢に限らず、どんな人間だってこんな辺鄙な場所に一人きりでいたら寂しくなる。当たり前のことだ。
しかし、いつだって彼女はそうしてきた。
何があってもへこたれない。不安も悲しみも、前に進む力に変える。そうした生き方が彼女を優秀な令嬢たらしめ、第一王子の婚約者という次期王妃を約束された座にすら就けさせた。
しかし、ずぶ濡れで。
しかも、一人ぼっちで。
その上、婚約も破棄されて。
あまつさえ、これから住む家が燃えていれば。
流石に、弱音の一つくらいは出る。
「どうして、いつもこうなるの~……!」
彼女は侯爵令嬢レテリア。
『不吉だから』という理由で、第一王子との婚約を破棄された少女である。