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[短編小説]「おじいちゃん」のおわり

作者: 木野キヤ

 初めての孫が生まれたときは随分と喜んだ。女の子だった。ふっくらとした頬にぱっちりとした目と優しく握ってくれる暖かい手。僕の息子が生まれたときを思い出した。

 あの頃は僕が仕事の大詰めで、妻のお見舞いにもあまり行けなかった。京都から埼玉まで出張した直後に、電話で生まれたとの連絡が来た。引き返そうか迷った。それは大層悩んだ。上司に伝えると帰りなさいと命令された。帰りの新幹線に乗って、バスで京都の赤十字病院にいくと妻は寝ていた。そのすぐ傍にはまんまるとした赤ん坊がいた。妻は僕の入室に気づくと、黙ったまま赤ん坊を抱いて僕に差し出した。そっと受け取ると、腕に生命の暖かさのような偉大な感覚が伝わってきた。腕の中にいる赤ん坊は僕の顔を見て、微笑を浮かべた。その時、初めて「人間の誕生」という素晴らしさに気づけたような気がした。

 可愛かった息子も立派に育ち、結婚し、子供も生まれた。僕の孫が言葉を話すようになるのはいつ頃だろうか。


 孫が家にやってきた。息子夫婦の間には歩いている孫がいた。僕達に気がつくと母親の後ろに隠れてしまった。息子が言うには娘は人見知りでなかなか心を開いてくれない性格なのだとか。僕の妻が孫のためにお菓子を取りに行くと、義娘が「おやつだって。一緒に行く?一緒に行こっか」と言って娘と一緒に台所までいった。息子は机の席に座り、湯呑みのお茶を一口含んだ。

 「最近どうや?元気してる?」

 僕の心配をしてくれた。最近、ランニングの途中で躓いて頭を打ってしまった。すれ違った人が救急車を呼んでくれて病院で目を覚ました。お見舞いに来てくれた息子は僕を案じて「なんともないってさ」と言ってくれた。一方で先生は「かなり危ない状況だった」と言っていた。僕や家族を思う気持ちは昔から変わらないことに安心した。

 「だいぶ落ち着いてきたで。ランニングまでは行かんけどウォーキングは始めよかな」

 「一人で行くんは怖いから母さんと一緒に行ったほうがええんちゃう?」

 「かあさんは歩くの嫌って言うからとおさん一人で行くわ」

 孫が台所からやってきた。机の席に座ると嬉しそうにお菓子の袋を破った。義娘が孫の隣に座って補助をし始めた。妻も席に座りお茶を飲んだ。

 「元気やねぇ。おばあちゃんもう疲れたわ」

 机に両腕を乗せて孫を観察している。

 「……おじいちゃんにも一口もらっていい?」

 孫は袋から一つ取り出して僕の隣までわざわざ渡してくれた。

 「ありがとう」

 ささっと元の席に戻ってまたお菓子を食べ始めた。

 

 昨日は良く眠れた。孫たちが来た日の夜は興奮と疲れからぐっすり眠れる。妻の方は僕よりもよく寝る。僕が朝の六時に起きると妻は朝の九時ぐらいに起きる。体格の差だろうと思っている。

 買ったばかりのウォーキング用の服を着て、外に出かける。うちの町内は狭いため、少し広い公園で二周ほど歩く。冬にしては少し暖かく感じる。そういえばテレビの天気予報で例年よりも暖かいため、初詣にはピッタリと行っていたことを思い出す。みんな神社に行っているのか公園には人があまりいなかった。毎年正月になると孫たちにあげるお年玉を用意するのが楽しみの一つになっている。昔は初の孫を大層喜んだが、今は九人もいる。みんなが一緒に集まって鍋を囲むのも楽しい。孫たちがゲームで遊んでいる姿を見るだけでも長生きするのはいいものだと感じる。

 ただ、孫たちに自分のことを「おじいちゃん」という度に、年をとったなぁと悲しくもなる。嬉しさのほうが大きいが、それと反対に老いに抗えない怖さも感じる。昔はおじいちゃんなんてまだまだ百年ぐらい後のことだと軽い気持ちだった。一年が早く感じてからは本当に瞬くようだった。僕も今年で八十前半。あと何年生きられるだろうと考えることがしばしばある。孫たちの結婚式には出られるだろうか。ひ孫は見られるだろうか。叶わない夢かもしれない。二十年も生きられるかわからないのだから。僕の中に生まれた「死の怖さ」がどんどん大きくなっていくのが年々実感する。


 妻が他界した。原因は衰弱死だそうだ。元々糖尿病を患っていてそれに加えて脳梗塞で倒れ、病院に運ばれてすぐ、息を引き取った。息子から電話がかかってきた。その時の声は今にも泣き始めそうな震えた声だった。亡くなったことを言う前から、なんとなくではあるが気づいていた。五十年以上一緒に過ごした最愛の人だ。精神的に繋がっていた何かがぷつんと切れたことを悟った。

 お通夜の日、死に化粧をした妻の顔を見た。言葉が出てこない。なんと声をかけたらいいのか。何も言えないまま席に座って息子たちの思い出話を聞いた。母親に甘えたこと、母親にぶたれたこと、母親が泣いているところを始めてみたこと、母親が……。

 いつのまにか僕は泣いていた。その時の自分はなぜか分からなかったが、初めて妻の死を実感したからだろう。息子たちの前で涙を流したのはこれで二回目だった。涙は止められなかった。

 とても悲しい。妻が死んだと思いたくない。葬式なんてしたくない。別れたくない。

 葬式の日、弔辞を読むことになった。

 最初は冗談などで場を和ませていた。終盤になると原稿が読みづらくなってきた。胸の奥が絞まるように痛い。夢であってほしかった。ずっと一緒にいたかった。死ぬときは一緒に死のうって言っていたのに。

 「私を置いて行かないで……」

 

 私は息子夫婦の家で暮らすことになった。引っ越しの際、荷物を整理するのが大変だった。私の荷物もそうだが、妻の遺品を片付けるのには苦労した。何度も何度も思い出の品を見ては涙が出て、作業が進まなかった。やっとの思いで終了したときは、体の中央に球形の穴が空いているような喪失感があった。

 息子夫婦の家は私が来てもまだ余裕があるほど広かった。高級な家ではないらしいが二階建ての6LDK、さらにお風呂とトイレが一回と二階にもある。

 私は一回の洋室で暮らすことになった。一人で過ごすのには十分すぎる。トイレの位置も近い。私が引っ越すために息子家族で家の大断捨離会というものがあったらしい。良くしてくれている息子夫婦と孫たちには感謝しかない。

 三ヶ月もすると落ち着いてきて、朝のウォーキングも行けるようになってきた。毎回外へ行く前に、仏壇で妻と顔を合わせる。わざわざ息子が立派な仏壇を買ってくれたのだ。そこに妻の遺影と好んで使っていた編み物道具を置いている。これで暇を持て余すことはないと思う。

 八十後半も終わろうとしている。体力もだんだんと落ちてきた気がする。前までは公園二周分の距離を難なく歩いていたが、最近は一周もできなくなっている。体にある球形の穴は年々大きくなっているような気がする。息子家族と暮らして、孫たちも仕事や学校で忙しい中、気にかけてくれている。毎日が楽しくて嬉しいはずだけど、体力というのか気力というのか頑張る力が蒸気となって体から抜けている。

 

 もう歩くこともできなくなってしまった。毎日ベッドか車椅子のどちらかでしか生活できない。外に出かけることも体力的に難しい。平日は訪問介護の人が家に来て介護をしてくれている。休日や祝日には義娘が介護をしてくれている。平日にはパートがあるのにもかかわらず。

 「ぁりが……とぉ」

 声も頑張って出すのがやっとだ。

 「大丈夫ですよ」

 そう言ってくれているが、本当は介護をしたくないらしい。度々息子と義娘が怒鳴り声を出している。私の介護を施設にしてもらうか家に置いておくか論争になっている。耳を塞ぐこともできない。大声を出すこともできない。ただ黙って聞くしかない。孫たちは両親の論争から逃げるために自室でなにかしているのだろうか。

 息子は昔から優しかった。私が親の介護のことで悩んでいた時期があった。妻にはあまり迷惑をかけたくなかったため、相談はほとんどしなかった。息子はそんな私を察してくれて居酒屋に連れて行ってくれた。お酒を飲んで悩みや不安を吐き出そうとしたのだろう。私は思惑通り、全部吐いた。このとき初めて息子の前で涙を流した。自分の子供の前で泣くのは親として情けないと思っていた。だが、喉から出る想いを語るうちに涙が自然と溢れた。家に帰って、寝る前に息子から「親だからとか立場は気にしないで。一人の大人として俺に相談してくれればそれでいいから」と言われた。布団に入ってからまた泣いてしまった。

 義娘と喧嘩をするなんてお前らしくないよ。私はもう長くないから気にしなくていい。息子だからとか責任は捨てていいから。元気でいてくれれば私はそれだけで嬉しい。


 ありがとう。


 父親の火葬が始まった。なんとなく理由をつけて外に出てベンチに腰を掛けた。アイコスをポケットから出して大きく吸った。吐き出した息が雲のように白かった。父親がよく正月に、凧をあげようと言って近くの公園に連れて行ってくれたことを思い出した。父親が遠くで凧を持って離した瞬間に俺が走り出す。すると風を受けた凧はどんどん上に上がっていく。走った分だけ凧は昇っていき、手の届かない位置まで飛んだ。白い雲と青い空と赤い凧の色合いをとても鮮明に覚えている。

 「…………いたい」

 満足しないまま中に戻り遺骨を集めた。一つ一つ丁寧に取って骨壷に入れていく。その度に父親とのいろんな思い出が浮かんでくる。野球をしたいと言い出して練習相手になってくれたこと、小学校で賞をとって父親にとても褒められたこと、中学の時父親に強く当たってしまったこと、そのあと泣きながら謝りに行ったこと、成人式で父親に高級焼肉店に連れて行ってもらったこと、初給料で両親にマッサージチェアを買ったときのこと、父親が俺の前で泣いたこと、結婚式当日に熱が出て出席できなかったこと、披露宴で父親がサプライズゲストとして友人の俳優を連れてきてくれたこと、娘を両親の家に連れて行ったときのこと。

 膝から崩れ落ちた。おじいちゃんやおばあちゃんが亡くなったときは悲しくなっただけだった。涙なんて出なかった。来る前に耐えよう、泣きたくなっても帰ってからなこうって決めていたのに。

 両目からあふれる感謝の気持ちを抑えることができなかった。


 遺品を整理していると遺書が出てきた。入っていた場所は、書斎として使っていた机の引き出しの中だった。封筒には大きく「遺書」という字が筆で書かれていた。昔から書道で賞を取ったことが有ると自慢していたのを思い出した。後で読もうと机の上に置いた。すると引き出しの奥に手紙が入っていた。封筒には俺宛のものだとわかるように書かれていた。なぜか緊張した。ここには俺の知らない父親がいるかも知れないと期待した。封を開け、一枚の手紙を読んだ。


   祐輔へ

 手紙が書けなくなると困るので今のうちに書いておこうと思い、

 筆を取りました。と言っても何を書こうか悩んだので、思い出話

 でもさせてください。私が印象に残っているのは、祐輔が私を連

 れて居酒屋に連れて行ってくれたことです。はじめはどうしたん

 だろう、と思って悩みでも聞いてやろうと思っていました。しか

 し、本当は私の悩みを聞いてくれるために誘ってくれたのだと後

 になって気づきました。無理にお酒を飲ませようと頑張って合わ

 せてくれてありがとう。ベロベロになってやけになって悩みを吐

 いたのを思い出します。あんまり覚えてないけど祐輔のことだか

 らきちんと話を聞いてくれたのだと思います。祐輔の前で泣いた

 のは初めてだったので少し気恥ずかしかったです。でも、今なら

 きちんと言えるのは、悩みを聞いてくれてありがとう。とても優

 しい子に育って私は嬉しいです。祐輔の名前を考えるときに、母

 さんとかなり話し合いました。その中で、祐と輔の二文字が良さ

 そうだと決まりました。名前に込めた想いは、いろんな人を分け

 隔てなくたすける優しい男の子。想いに似合ったいい子に育って

 私は嬉しいです。最後になりますが、私や母さんがいなくなって

 も、元気で暮らしてください。もしも孫が生まれたら見せてくだ

 さい。母さんと一緒に天国で見守っています。

                      幸作と静子より

 

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