9怪
気にするなと言われたことが全部吹っ飛んだ。吹っ飛んだことすら吹っ飛んだ。
「設定盛りすぎじゃないですか!? え!? 今までそんなファンタジーなこと欠片も垣間見せてませんでしたよね!?」
「貴方のお友達の椎木さんが、貴方を物凄く心配されているのは見えました。ので、言いました」
「あ――!」
あれか――!
口は勿論、心の中でも大絶叫する。
確かに、椎木さんは火六さんと似て淡々とした声音と表情で話す人だから、感情の変化がちょっと分かりづらい。心配してくれていることも私は分からなかったのに、火六さんは初対面でよく分かったなと思ったものだ。
だが、私は自分が寝不足と疲労で少しぼんやりしている自覚があったから、私の観察眼が足りなかったのか修行が足りぬと思っていた。それがまさかの、そんな不思議目の持ち主だったからだなんて。
そういうことは早く言ってほしい。それか小出しにしてくれないと、私の精神とテンションがいろいろ保たない。
動揺しすぎて、お茶を零した。テーブルの上で川となったお茶に、わーっと絶叫する。慌ててティッシュで押さえて床にまで落ちないよう食い止めると、何とか被害はテーブルの上だけにとどまった。
わたわたと後片付けしている間に、ちょっとだけ冷静になる。ちょっとはちょっとでも、本当にちょっとだけれど。
その、ほんのちょっと取り戻した冷静さで問うてみる。
「……さっきのって、どれが冗談ですか?」
「全部本当ですが」
なけなしの冷静さは霧散した。
「何で!?」
「何でと言われても、事実だからですとしか。特殊すぎて重いレンズのせいでよくずり落ちるので、仕事ではベルトで止めるようにしてるんです」
「あ――!」
それか――!
心の中でも大絶叫する 再。
「ああ、あともう一つ。橘花さん、うちでバイトしませんか?」
「何で!?」
「何でと言われても、人手不足だからですとしか」
あの事務所、僕一人しかいませんからと言われたら、成程そりゃ人手不足ここに極まれりと納得するしかない。
しかし、納得は出来るが、設定特盛りな納得は全く出来ない。
「そんな霊能者らしいファンタジックな要素は、最初から全面的に押し出してください! 私、火六さんのこと霊に詳しい普通の友達感覚で接してました!」
「最初から押し出したら、僕はただでさえ胡散臭いのに取り返しのつかないほど詐欺っぽいじゃないですか。それに、初っ端から信じられたらそれはそれで僕のほうが貴方の感性を疑います。もっと現実をしっかり見て生きてくださいと」
自分から言い出しておきながら、なかなか酷い評価だ。
信じたほうが疑われるとは、なんて悲しい世界なのだ。しんみりした私を見つめる火六さんの目が、心なしか呆れている。
「ここまでの様子を見た結果、貴方のことを素直な人だとは思っていましたが、そろそろこの人大丈夫だろうかと思っているところです」
「初っ端から信じたわけじゃないのに!」
「ほぼ半日で信じられてもそれはそれで心配するレベルです」
「なん、だと……?」
「それでいて、あれを部屋に一歩も入れずにひと月無事に過ごせているんですから、根はそれなりに頑固なんでしょう。外部からあれだけの揺さぶりがあっても、それなりに過ごせていますから」
「私、褒められてますか?」
「結構手放しで褒めているつもりです」
「それなりが……」
この人、褒めるのど下手だな。
私は心の中で呟いた。それなりと連呼されて褒められていると受け取る人がいたらお目にかかりたい。
だが、褒めるのど下手と言われて喜ぶ人間もまたいないであろう事は察せられる。私は必殺笑って誤魔化せを発動した。
へらりと笑った私に、火六さんは静かに頷いた。
「いま、僕のこと褒めるの下手だと思ったでしょう」
「え!? どうして分かったんですか!?」
「外面を剥ぎ取った内面の表情が見えると言ったばかりだと思いますが」
そうだった。
いまいちぴんとこないが、外面が通用しないとなると、愛想笑いも誤魔化しも通じないということだ。凄くどうでもいいことだが、子どもの頃は、誤魔化しを胡麻菓子と思っていた。美味しそうだと常々思っていた言葉の漢字に魔が入っていたときの衝撃を忘れない。
「そういえば、それ、どういう風に見えるんですか? 見えないようにとか、出来るんですか?」
「出来ません。僕はそのままだと内の顔しか見えませんので、少々特殊なレンズの眼鏡で、人が作った外面の表情も見えるようにはしています。見え方は、愛想よくにこにこしている人が内で舌打ちしていたり、怒っている人が内でにやにやしていたり、泣いている人が裏で舌を出していたり、笑っている人が内で真顔だったり、様々です。さっきの貴方は、チベットスナギツネみたいな顔になっていました」
「チベットスナギツネ」
何ともいえない表情がネットで話題になった動物の、本当に何ともいえない顔を思い出した。今の私は、まさしく彼が言っていたであろう動物と同じ顔になってしまっている自覚がある。
「見えた顔から感情を予測しているに過ぎませんので、読み違えることはありますし、心の声が聞こえるわけじゃないのでそんなに気にしないでください」
「それはつまり……」
つまり、彼には嘘がつけないということであると気がついた私は、会話の途中だというのに黙りこくってしまった。
嘘がつけない。ごまかしも出来ない。こっちの感情が丸わかり。
黙々と考え込んでいる私を、火六さんはじっと見ている。自分は淡々とした表情で感情をあまり読み取らせないのに、こっちの感情は丸わかり。それはちょっと不公平だが、何も特殊なことをしていないのに見えてしまうのなら仕方がないともいえる。
だって、誰の所為でもないことだ。背の高い人に縮めと言ったところで無理な上にお前何言っているんだと思うように、それが彼の通常状態なら仕方がない。そう。それならば。
「嘘つかなきゃいいって事ですね。了解しました。あ、でも、乙女の矜持的な嘘は見て見ぬ振りしてくださいね」
「はあ」
そこは力強くはいと言ってほしかったが、返ってきたのは間の抜けたような声だった。
私は、己の乙女の矜持を守るため、ダイエット関係の話は彼に振らないよう心に決めた。昨日お菓子食べてませんよ!?(食べた)などがばれてしまったら……特に困らないな。そもそも聞かれて困る話題や聞かれたくない話は自分から振らないものだ。
それを考えれば、心の中を読まれているわけでもなし。問題は特に思いつかなかった。
ゴンゴンゴンゴンゴンゴゴンゴンゴンゴゴンゴゴンゴッゴッゴッゴッゴッゴッ!
たぁちばーなぁさん――んーんんーーん――んんーん――。僕です、開けてください僕ですです開けて開けて開けてくださいぃぃいいいいいいいいいいいいぃぃいいいいいい!
歪でおぞましい発音と金切り声、抜けた歯の隙間を通り過ぎるような千切りの息の音。
そんな、あり得ない恐ろしい声と音を聞きながら、別のことに驚いて会話を続けている光景は、とてもシュールだ。
何だろう。とても不思議な気持ちだ。
昨晩までは確かにあれが額を打ち付けている音だけで震え上がり、自分の日常も人生も世界も全てが終わったような絶望を感じていたというのに。今では、ちょっと、慣れてきた。だからといって一人で放っておかれたらそれはそれでしっかり絶望するが。
「何だか、火六さんと話していると、これ、そんなに特殊なことじゃないんじゃないかって思えてきます」
「見える人間からすれば当たり前の光景ですから。それに僕からすれば、僕と普通に話している貴方がかなり特殊に見えます」
「火六さん、テンポが面白いですよね」
「貴方は感性が特殊です」
「褒めてますか?」
「呆れています」
「呆れて」
なんてこった。何故か呆れられた私と、心なしか宣言通り呆れた目をしているように見える火六さんの間で沈黙が落ちる。
「橘花さんは、オカルト好きなんですか」
「話飛びますね。特に好きでも嫌いでもないですけど……あ、でも、夢があるのは好きです」
「本当に、えらく素直に荒唐無稽な僕の話を信じたなと思ったんですが」
「え!? 嘘なんですか!?」
「本当ですが」
「だったら別にいいじゃないですか。それに、幽霊が本当にいると分かった以上、もうどんなびっくりすることを知っても、今まで私が知らなかっただけなんだろうなって思っただけです」
「成程」
結局私達は、赤で焼けた空が沈下するまで、そんなとりとめない話を続けた。
火六さんが教えてくれた不思議な眼とやらを使ってクイズもした。私が表情を作り、裏でしている顔を当てるクイズだ。これが中々難航した。何故なら私は、表情と内面がさして変わっていないらしい。つまり、クイズを出題する私が難航したのである。
そっちばかりに意識が割かれれば、笑顔の裏で違うことを考えようと必死の形相になっていたらしく、あまりクイズの意味がなかったのでこのクイズは封印された。
火六さんが今まで受けてきた依頼の話も、守秘義務に反しない範囲で話してくれた。
その時の私達の話題は、初っ端の話から流れ流れて脱線し、コンビニで売っている焼き菓子談義であった。
そういえばいま何時だろうとふと目線を上げた瞬間、開けっぱなしだった窓からこっちを覗き込んでいる男と目が姿が合った。
「ひっ!」
悲鳴なのか、呼吸のなり損ないなのか、自分でも判断がつけられない音が喉から漏れ出る。
いつの間にか外は真っ暗になっていた。夕刻はとっくの昔に終わりを告げ、夜が始まっていた。真っ黒な世界を背景に、男は、磨いたばかりのガラスに額を打ち付けることはせず、中を覗き込んでいた。
男は、笑っていなかった。
初めて見たときの満面の笑みは消え失せ、その肌を赤黒く染め上げ目を見開き、唇を歪に開いたその顔は、どう見ても憤怒にしか見えなかった。
その頭も、どこかおかしい。ずっと見てきたシルエットでは普通の男に見えた。それなのに今は、首から上が膨れ上がり、それ以外の身体とほぼ同じ大きさになっている。
私からの視線に気づいた男は、風船のように膨れ上がった頭部をゆらゆら揺らし始めた。音は何も聞こえない。それなのに、んーんーと、子どもがむずかるような低い声が聞こえてきた気がして、怖気が胸の中で吐き気と冷たい熱の塊になり、息すら困難になる。
一瞬で青ざめ、言葉さえ発せられなくなった私の前で、火六さんはゆっくりと窓を振り返った。
「蝉の始末をしていたものを引っ込めたらすぐに来ましたね。こんな風に身体のバランスがおかしいものは危険度が高いので、近づかないようにしてください。自分が人間だった頃の姿が朧気になるくらい理性が失われているということですから。最初は普通の人の形をしていても、危ない奴はいずれこんな風に身体のバランスが崩れるので分かりやすいと思います。既に肉体が失われている現状で、姿を保つすべは己の意思一つです。それが崩れている場合、理性もぐちゃぐちゃになっていると見てください。見た目は危険レベルの判断材料として大きな部分になるので目安にしてください。判断がつかなければ僕に聞いてください。ですが、基本は近づかないを徹底してください」
特に何の驚きもなく異形の男を見ていた火六さんは、身体を半分ずらし、まるで教材を指すように男を示しながら淡々と説明していく。
「武器を持っていないから危なくない、というわけではないですし、こうなっては男女の力差も関係ありませんから、相手が同性であっても油断はしないでください。ですが、今回のように頭を打ち付けたりして音を出しているのであれば、物理的な攻撃が効く場合が多いです。もし危なくなれば、思いっきり石でぶん殴るなり、顔面蹴り飛ばすなりして逃げてください。意外と効きます。目がある場合は目を潰しましょう。生き物ではないくせに、これがまた、かなり高確率で効きます。人間だった頃の名残だと思いますが、急所を狙えば意外と効くんです。倒せはせずともよろめいたり、こっちを警戒して距離を取るので、時間稼ぎにもなります。この男の場合は、左目が大きくなっていますから狙いやすいですね」
そう言われて、男は異様に大きな頭部だけではなく、顔の造形もおかしなことになっていると気づいた。
左目が異様に大きく、口は右の頬で斜めに走り、右目は額に、鼻がくぼんで奥に入り込んでしまっている。出来損ないのおたふくみたいだ。
その異様な風体にも息を呑んだが、男の状況を説明しながらそれ以外の知識もつらつら語っている火六さんに不信感が湧き上がってくる。
こんな状態の男を見ても驚かず、何も変わらない火六さんを見て頼りになるなと安堵するはずの私の心は、彼に対して不信感を抱いている。それは何故なのか。
その感情の正体を見極めるべく、私は己の心と向き合った。答えを得るまでに時間を要することなく、私は答えを手にした。
何故なら、解を得るために必要な情報は、既に持っていたのだから。
「……………………火六さん」
「はい」
私は、さっきまでは確かに恐怖で力が抜けていた手で、ばんっとテーブルを叩いた。その力の強さたるや。力が抜けていたなんて信じられない威力だ。何故なら、私の掌がじんじん痛むからだ。
だが、今は加減が出来なかった自分のどんくささを嘆いている場合ではない。
「私まだバイト受けるなんて言ってません!」
どう考えても一依頼人に語るには情報が過多すぎる。バイトしたいともやるとも言っていないのに、ごりごり仕事内容と注意事項を説明してくるのは如何なものかと思うのである。
「大体それ、冗談じゃなかったんですか!?」
「冗談だと思われたら困ります。僕、繁忙期なんです」
「繁忙期?」
夏は怪談が定番であるが、それは暑さを誤魔化すためにぞっとさせることで冷やそうとする試みからだと思っていた。だが、幽霊達は本当に夏に活性化するのだろうか。夏に活性化するなんて凄い。暑さで溶けないのだろうか。
「やっぱり、夏だと幽霊が多いんですか?」
「いえ全く。怪異に旬はありません。人間が毎時毎分死んでいる以上、季節時刻問わず出ます」
「旬」
食べ頃があったら嫌だ。脂ののった豊作な幽霊を想像してしまった私は、とても悲しい気持ちになった。
旬。それは食いしん坊にはとても心弾む言葉である。果物は甘みが増し、魚は脂がのり、葉野菜は青々と茂る、素敵な言葉。それなのに、今の私の頭の中にはたわわに実る幽霊が生っている。
火六さんはもっと言葉選びに気をつけるべきだ。食いしん坊には大ダメージだ。
悲しい旬のイメージを払拭すべく、明日は夏の旬、スイカを買ってこようと心に決めた私の前で、火六さんは静かに言った。
「夏は、自分で収拾もつけられないくせに自らの肝を危険に晒した上に他者へも危険をばらまく阿呆共と、口を開けているだけで勝手に腹に落ちてくる阿呆共を狙った質の悪い屑共が溢れかえる時期ですので」
彼にしては珍しく、かなり攻撃的な単語が選ばれている言葉を、私は咀嚼し損ねた。一旦頭の中で反芻して、改めて咀嚼し、飲みこむ。彼が何を言いたいのかというと。
「…………肝試しがいっぱい行われるせいでお仕事増えるんですね?」
「その通りです」
「………………お手伝いしたいのはやまやまなんですが、私、幽霊見たのこれが初めてなんで、他のも見ることができるのか分かりませんよ」
「退治を手伝ってほしいんじゃありません。見えようが見えまいが誰にでも出来る普通の、普通の、普通の雑務です。普通に事務所の掃除、普通に備品補充、普通に来客対応などです」
やけに普通を押してくる。逆に怪しい。
じっと見つめてみる。彼の肩越しに窓の外で揺れる巨大な頭部を見てしまった。若干視線をずらして彼しか見えないように調整し、改めて見つめ直す。
じぃーっと見つめていると、表情をあまり映さなかった瞳が、すぃっと逃げた。
「正直にどうぞ」
「……仕事内容は普通の雑務ですが、依頼された場所まで出張することが多々あります。命の危機がないわけではありません。夜勤が多いです」
「お断りしたい要素しかありませんね!」
「……旅費は全て経費で出します」
「出なかったらバイト代全部旅費で飛ぶじゃないですか!」
「普段のお茶請けのお菓子代も全部経費で出します。実質、コンビニの新作お菓子無料で食べ放題です」
「うっ!」
「出張だって、タダで観光できるようなものです。勿論、名物銘菓も食べ放題」
「ううっ!」
「勿論、従業員の安全確保は優先事項な為、今回のように悪霊に絡まれた際、電話一本で僕が駆けつけます」
「うううっ!」
「仕事上の命の危機と言っても、車に乗っているようなものです。基本的には大丈夫ですが、交通事故の確率を0には出来ない、といった感じです。依頼がない場合は、事務所で適当に涼んでお菓子食べていたらバイト代が出ます。仕事中の食事であれば三食いつでも経費です」
「ううううっ!」
拒絶ポイントは大きいのに、誘惑ポイントも巨大だ。
「そ、そんな条件なら、従業員が火六さん一人なんて事にならないんじゃないんですか!?」
即決で飛び込むにはなかなか勇気が要る条件ではあるが、それでも求人をして誰も受けに来ないほどではない気がする。それとも、幽霊退治というだけで誰も来なかったのだろうか。
……そうかもしれない。
私は、黙って俯いてしまった火六さんを見て、そう思った。
私だって、こんなことになる前にこの事務所の存在を知ったとして、幽霊退治の事務所という存在を信じただろうか。本当か嘘かの判断がつけられず、近寄らないのが無難だろうと避けてしまったかもしれない。
そう考えると、お世話になったのにすっぱり断るのも気が引ける。
どうしたものかと火六さんを見れば、彼は俯いていた顔をゆっくり上げた。そこに浮かんでいた表情は、さっきまでの淡々としたものではなく、どこか疲れ切ったものだった。
「火六さ……」
思わず名前を呼ばすにはいられなかった。だが、そんな私の言葉を遮り、彼は淡々と話始めた。
「…………雇ったは雇ったんですが」
「え?」
「それはもう碌なのが来ませんでした」
「はい?」
疲れ切った表情と思っていたものが、疲れを通り越した虚無を映していた。
世界全部に絶望していると言えば大袈裟かもしれないが、それが決して大袈裟に見えないほど彼の表情は暗かった。淡々とした無表情ではない。そこには確かに絶望があるのだ。
突如現れた表情にぎょっとして、思わずその顔を覗き込んでしまった。そして眼鏡の奥にある瞳、の下に、べったり隈があることに気づき、再度ぎょっとする。
「やってもらう予定の仕事は普通の会社でも行われているような掃除や備品管理などの雑務ですが、僕自身が胡散臭い仕事をしている自覚があるので、胡散臭い人しか来ないのは仕方がないと覚悟していました。ですが、霊が見えることをことあるごとに自慢していましたが実際は見えていない人、何故か僕の実力を測るという名目であちこちの心霊スポットに行ってろくでもない霊を大量に憑けてきた人、依頼人の守秘義務を守れない人、何故か僕を教祖にしたがる人などなど、本当に驚くほど碌な人が来ませんでした。正直、何がしたいのか全く分かりませんでした。仕事が出来る出来ない以前の問題で、大体数日でクビにしました」
「それは……その……」
何と言っていいのか言葉が見つからない。確かに、今上げられた人では、幽霊退治関係ない仕事でもちゃんとやってくれないかもしれない。どうしてそういう人だけがピンポイントで求人を受けに来てしまったのか。
そりゃこんな顔にもなるなと、虚ろな表情の火六さんに同情してしまった。
「だから僕は、求人に来る人ではなくてよさそうな人を自分で勧誘することにしたんです」
「言いたいことは分かりましたが……私は正直、自信ないんですが」
「橘花さん」
「何ですか」
「僕と普通に会話が出来て、僕の指示が守れて、余計なことをせず、やけを起こさず、僕がいるとはいえあれを前にしても普通に会話が出来るほどには度胸があり、余計なことをせず、指示が守れ、余計なことをせず、話すべき事は話し、余計なことをせず、冷静さを保てて、余計なことをせず、僕と会話が続き、冷凍食品半額の日を教えてくれました。おすすめしてくださったスパゲティもおいしかったです。お茶と水も出してくれました。満点です」
「繁忙期を前にしたせいか、判定寛容すぎませんか!? あと、指示を守ると余計なことをせずがかぶりまくってますよ!」
どんな人間だって合格してしまいそうだ。
「橘花さん」
「何ですか!」
火六さんは、真面目な顔で頷いた。
「繁忙期前じゃありません。真っ只中です。ちなみに僕、もう三日寝ていません」
「なんてことっ!」
「どいつもこいつも……どうして自分では対処できない危険に対し、勢いで命をかけるんですか。………………僕は今日、あれを退治したら、寝ます。阿呆共が担ぎ込まれてこようが、呼び出されようが、無視します」
「なんか話し方のテンションとテンポおかしかったのって、寝不足だからだったんですか!? ちょ、え、待って! そんな状態なら、私のこと後回しにしてくれてもよかったんですよ!?」
慌てたところで今の私に出来ることは何もない。何もないが慌ててしまう。
一晩の徹夜でも、頭や身体がずっしり重く、気分はじっとり落ち込み、頭や目の奥が痛むのだ。それなのに、彼は何日と言った?
三日、そう三日だ。もしかして、今晩眠れなかったら四日?
人の活動限界をとっくに超えている。
何ということだ。彼は一人でブラック企業の登場人物全てをこなしている。つまり、経営者に従業員だ。
一人でブラック企業を形成し、一人でこなしている人に、私の平和のためにこれ以上無理をしてくれだなんていえるはずもない。もう一晩我慢してくれと言ってくれたらよかったのに。
……それはそれで、苦しくつらい一晩だったかもしれない。
私自身、限界だったのは認める。平気だよとは口が裂けても言えやしないくらいつらかった。叫び出したくて逃げ出したくてでも一歩も動けなくて。頭が壊れてしまいそうだった。
けれど、翌日に助けてもらえると思ったら何とか越えられたはずだ。明日が来ればと念じ、その希望に縋れば、後一晩という区切りを支えに乗り越えられたと思う。徹夜三日目の人に無理を押してまで助けてくれとは言えない。
「だって貴方、泣いていたでしょう」
それなのに火六さんは、そう言うのだ。
「階段で事務所を見上げていたときからずっと泣いていたじゃないですか。僕は慈善事業として仕事をしているつもりも、自分を犠牲にしてまで怪異を退治して回るつもりもありませんが、助けを求めてきた人の救いが自分の範囲内にあるのなら、見て見ぬ振りするほどの鬼畜でもありません」
当たり前のように、この人はそう言うのか。
だって私はあの時泣いていなかった。泣いてしまったのはもっと後で、それさえも、本当は不本意だった。
それなのに、この人は救いの手を差し伸べてくれた。しかも、訪ねた当日に。
三日も寝ていないのだ。一刻も早く寝たかったはずだ。だけど、助けてくれた。取り繕った外面の裏で泣きべそをかいていた私を、助けにきてくれたのだ。